十三話
熱い、痛い、誰かに抱えられて怒号を駆け抜ける。
さっきまで手を繋いでいたお母さんの姿は今はない。
手も傷だらけだ。握ると痛い。
「……………お母さん…………」
少女の呟きは悲鳴にかき消された。
「本当に良いの? アイは」
「大丈夫、夜ご飯まで用意してあるし、お金も持たしてるし、心配は心配だがな。その、今日位はさ」
只今、美々の家の前、家と言っても綺麗すぎるマンションの一室だが、綺麗すぎる。
ドアの間隔も広い広い、一部屋どんだけ。
「そういえば上がるのは初めてよね。とりあえずお茶出すから………私の部屋に居て」
そう言い残してパタパタとフローリングの廊下を駆けて行く美々。
えっ?俺はこの玄関で待機ですか?
どうすればいいのか分からない藤谷は玄関で立ち尽くしている。
すると藤谷から見て廊下奥の扉が開きひょっこりと美々が顔を出した。
「そこの右の部屋、私の部屋だから適当にして待ってて」
言い終わると扉が閉まる。なんか鳩時計みたい、なんて事を考えながら藤谷は若干の抵抗を覚えつつドアノブを回した。
先ずは明かりのスイッチを探し、壁のスイッチを入れる。電気は紐を引いてつける藤谷にとってはかっこいいと思う、このスイッチ。
昔幼馴染みの家に言ってこれを見た時、我を忘れてカチカチしたっけなぁ。
なんて回想に浸ってるとリモコンがある。スイッチの下部に書いてるメーカーと一緒である。
ボタンだけのシンプルなリモコン、リモコンとすらちょっと藤谷としては解るのに時間が掛ったリモコン、赤外線が出るところがなかったらきっと解らなかっただろう。
ちょっとドキドキしながら押してみる。
「………………」
なんと!なんと電気が消えた。
堪らずもう一度押す。
電気がついた。
感動に身を震わせながらもう一度押す。
電気が消えた。
「す………凄い」
もう一度押して明かりを取り戻し、リモコンを見つめながら藤谷は呟いた。
技術の改新というか、進歩というか、このリモコンは人間の無限の可能性を示した物なのではないだろうか。
「藤谷? 一体リモコンに握り締めてなにやってるの? テレビのじゃないよそれ」
ハッとなり、振り返るとお盆にクッキーとティーカップを載せて立っている美々が怪訝な顔で見ていた。
「い、いや、このリモコン凄いな。電気が、便利で、寝てても、あれで……………」
なんかいけないところを見られた気がして上手く舌が回らない。
美々の怪訝な顔は更に深まった。
「まぁいいんだけど…………」
「いや、その、ああ! お茶、お茶を頂こう」
なんとか話を本筋に戻そうとわたわたと身振り手振りを加え、更にタップダンスを混ぜるくらい頑張って戻そうとする。
美々の顔が怪しむを通り越して、哀れむような表情に、そして慈しむような、聖母様のような笑顔に。
「……………すんません。気が動転してたとかその辺の理由で今の数分全てなかった事にしてください」
陳謝。
「こうして見ても………結構整理してんだな部屋」
「………あら、奥さんに部屋を掃除させてるどっかの誰かが、その奥さんに向かって言うセリフとは思えないわね」
「すいません、すんません、すみません」
全面降伏。
「むしろ、私のような奥さんを持って全面幸福ってところかしら?」
「ちょっと上手いから嫌だ」
そう言いながら美々が用意してくれたミルクティーをすする。
出された座布団も凄く良い布使ってるな。うん?座布団でいいのか?洋風だから………クッション?
「座布団で良いわよ。貴方と二人で住むなら和式の家に今決めたわ」
半ば諦めたように溜め息を吐き、美々は半眼で言った。
やっぱり言っておくが、今のは声に出してないからね。
「でさ、ちょっと気になった事があるんだが良いか?」
「…………ベッドの上の熊さん事? べ、別に良いでしょ? 一人じゃ寂しいんだから」
態とらしく唇を尖らせ、態とらしく頬を染め、態とらしくそっぽを向く香里美々。
藤宮藤谷はそんな所に着眼したのではない。いや、熊さんには着眼したのだが、内容に差異が生じている。
「あの、熊さんとやらのシャツさ。俺のじゃない?」
静寂。
「さて、晩御飯の支度でも………」
「待て待て! 閑話休題して話を終わらそうとすんな。あのシャツは二人で出掛けた時に貸したやつだよな。すっかり忘れてた」
そういえばあれ返してもらってなかった。
まさか熊の縫いぐるみが着てるとは、あの縫いぐるみ、なんかシャツのサイズにピッタリ過ぎる気がするし。
「にゃ、にゃははぁ…………」
「可愛く笑っても駄目」
「ええ! ええそうよ! 一人で寝るのが寂しいからあの熊さんにV2藤谷と名付けて夜は一緒に寝てるんだから!」
「開き直んなよっ! V2を前に持ってくんのかよ!」
あれ?俺の突っ込みもなんかズレてないか?
「だって………良いじゃない好きなんだから!」
更に、完璧に、完膚なきまでに開き直りやがった。
「そ、その発言はひ、卑怯だ」
「でも、そろそろシャツ替えたい。藤谷の匂いしなくなった………」
普通に、客観で聞くと変態っぽいが、惚れた弱味というやつか、伏し目がちな美々は恐ろしく可愛く見える。
惚れた弱味、愛とは凄まじい魔力を持つ物だ。
「…………分かった。俺も白状しよう」
藤谷は黙って携帯を開いて、液晶を美々に見せる。
何も操作が行われていない携帯電話がどうなっているか。そう、待受画面が展開されている。
「これ、私だよね?」
「寝てる時に撮った。なんか、その、すまん」
「なんだか待受にしたいって言うのも恥ずかしいというか、なんというかだよね。私もほら」
美々は俺のフォローをしてくれつつ自分の携帯電話の液晶を見せてくる。
実は美々の携帯の色はピンクだったりする。
美々は基本的に黒の服を着たりすることが多く、黒がイメージカラーとして半分以上定着しているのだが、どちらかと言えば美々の好みは暖色である。
話が逸れたが、液晶を藤谷は確認する。
「うーん。俺ら馬鹿っぽいな」
藤谷は自分自身の横顔を見ながら言った。
目線を美々に移すと美々も微笑んでる。
その後、俺達はツーショットで写真を撮った。当然仲良くそれを待受画面に設定した。
「ねぇ、藤谷?」
いつも通りに呼ばれた風だが少し違う。少しトーンが低いというか言いにくい事を言おうとしている感じ。
美々の事少しずつ解ってきてるんだな俺は、なんて感心する反面藤谷は嫌な予感を拭いきれない。
「あ、あー。悪い、悪かった! 悪いところは直す、だからもう少し待ってくれ。えと、あれか!? 料理をもっと手伝えば………いや、寧ろこれからは俺が作る。朝もしゃっきりと起きるし、家事ももっと手伝う。デートだってもっと――」
「藤谷!」
「はい!」
藤谷は言葉を中断され、反射的に返事をしてしまう。ビシッと気を付けの体勢を座りながらとってしまうほど。
「違うよ。藤谷とさよならなんかしないよ。あんな辛いの一生に一回で十分」
「じゃあ………」
なら何をあんなに言いにくそうにしていたんだ。
藤谷は頭をフルに回転させた。あんまり効率よく使われていない頭が悲鳴をあげだしたが、今はそんな時じゃない。
「その写真見てほしいの」
そっと指差された先を目で追う。藤谷の真後ろ、振り返る形になる。
学習机だろう。机の上には何もなく、備え付けの本棚にはビッシリと本が埋まっている。中に少女漫画があったのは流す。
美々が言うのはこれの事だろう。机の上の隅に飾ってある写真、暖色の写真立てに飾られている写真。
三人、背景は大きな木、銀杏だろうか色がとても綺麗だ。
三人の内一人は見覚えがある。その一人というのは美々の父さん、今よりずっと若い。
ということは、この真ん中のピンクの女の子は美々だろう。
そしてもう一人、いつか美々が着た服を着て、小さい美々と手を繋いで微笑んでる。つか、本気で美人さんだな。
「お母さんに嫉妬させないで」
しまった読まれた。
ちょっとシリアスな話をしようとしてるのにぶち壊しである。
「やっぱりお母さんだよなぁ………」
藤谷は写真を眺めながら染々呟く。
似すぎ、美々が大人になったらきっとこうなるだろう。
「それでね、私ばっかり藤谷の家庭事情知ってるでしょ? だから藤谷にももっと私の事知って欲しくて」
そういえばそうだった。なんか調べた、と言って俺の家庭事情やら何やらを殆んど覚えてるんだっけ。
ついでに美々は記憶力が馬鹿みたいにいいし、全部覚えてるんだろうな。
「たしかに美々の事は沢山知りたいが、あまり言いたくないことなんだろ? なら無理することないよ」
いくらなんでもある程度予想はついてる。
今まで美々の母親には会った事ない。多分、母親絡みの事なのだろう。
「ううん、言いたい。知ってほしいの」
「………分かった。聞くよ」
「なら、側に行ってもいい?」
「ああ」
俺は写真を眺めるのをやめて、座りなおした。
横に座った美々がピッタリと寄り添ってくる。何だか美々に密着されるのそろそろ慣れて………きてないな、駄目だ。案の定心臓は快速運行している。
藤谷は待った。美々が口を開くのを待った。
美々は深く息を吸い込んで言葉を吐き出した。
「毎週水曜日はね。駅前のデパートに行くのが日課だったの。理由は分からないけど、それが私とお母さんの二人の日課だった」
藤谷は適度に相槌を打ち、しっかりと聞いた。
「………ある時ね、火事があったの。一つのデパートが全焼する程の火事、その時店内には584名いて、死者は3名………周りの人は……まわ、ま………………」
最初は鼻をすするだけだったが、もう喋ることもままならないくらい泣いている。
もういい、もういいよ。
そう言ってやろうとした自分を藤谷は寸で止める。
美々は覚悟を持って今の話をしてる筈なのに、自分が、藤宮藤谷がそれを止めてどうする。
自分の大切な人が泣いているのに何も出来ない苛立ちで藤谷は拳を強く握り締め、思い切り歯を食い縛った。
歯は折れそうになり、拳から爪で皮膚を切るんじゃないかというくらいに悔しい。
責めても、責めてもと、美々の頭をゆっくりと鋤くように撫でてやった。
「み…皆、言ったんだ…………良かった、助かったって………でも、当事者じゃないから、助かったから………」
「だから、分からなかったんだな。分かってくれなかったんだな」
美々は頷いた。
「お母さん、助けてくれたの……階段で、でね、藤谷も助けてくれた……階段で」
記憶力がいいというのも考え物だ。美々は多分鮮明に覚えてるのだろう、母の最後の日の事を。
「始まりはね。そんな理由……藤谷がお母さんみたいに助けてくれて、藤谷の事を追い回して、気付いたら好きになってた」
美々は、はにかんだ。
無理して笑ってる筈なのに、その笑顔藤谷にとってはとても愛しいものだった。
説明も甘いし、不十分な点はいくつもあったが、美々の辛そうな顔を見て追究できる奴がいるのなら、是非俺がぶん殴ってやろう、そう藤谷は思う。
きっと、またいつか俺達が大人になれたらまた話そうと思う。
それから美々が落ち着いてから一緒に食事を取って、アイの事が心配だったので早目に帰った。
美々が帰り際に恨めしそうに見てたが、仕方ない。仕方ないと言わないとやってらんない。