十二話
悲鳴、轟音、目を瞑りたい。閉じていたい、開きたくない。
恐怖だけが頭の中を支配していく。
閉じていたい目は言うことを聞きはしなかった。目は見開からたまま、惨状を見ていた。
ああ、これは夢なんだ。見たくはないけど記憶に焼き付いている記憶。
でも、忘れたくない。忘れちゃいけない。母との最後の記憶。
「執行」
「はい!」
「ちっ」
藤宮藤谷の朝は舌打ちから始まる。
いや、決していつもこんな最悪な寝覚めをしてるわけではない。何時もは『朝だよ。早く起きなきゃキスしちゃうよ』みたいな甘い起こされ方をします。本当です。
決して肩に噛みつかれてるからこんな事を言っているわけではありません。
「美々さん? 痛いんです。肩が痛いんです、泣いてしまう、俺が泣いてしまう」
「藤谷が中々起きてくれないから。それで今日は一体どこへ連れてってくれるのかな?」
ようやく噛むのを止めてくれた美々は立ち上がって、俺の着替を差し出しながら言った。
着替も用意してくれたり、起きたら朝ご飯が用意されてたり、掃除もしてくれたり。
『家政婦みたい』だとどこぞの生徒会長に言われました。
とても反省してる。いつも考えている。してもらってばかりなので、何か返せないかと、いつも考えている。
一度美々にも言った。
『私は貴方が大好き、何でもしたいの。貴方に出来ること何でも』
そう言って会話が終わる。
これでは支えあってない。支えてもらってるだけ、情けない。
「うう…………こんな筈じゃ」
最初に言っておくぞ。これは俺、藤宮藤谷じゃない。香里美々の言葉だ。
「さぁ、休んでないでやるぞ」
「もう許してください。コーチ」
「駄目だ」
今いるのは最近なんだか縁がある、格式高そうなホテルだ。
実は透と食事した時に頼み込んで例の『りぞーとすぱ』のチケットを譲り受けた。
つか、チケット一つ見せただけで凄く待遇が良かったぞ。『予約の柏原様が』とか聞こえてきたし、あのチケット実は紙で、力は別の所にあるんじゃないか、と思う。まぁ、気のせいだよな、忘れよう。
つまり、プールにいるわけだ。もちろん美々が泳げないのは覚えている。皆さんは覚えていますでしょうか?
って誰に聞いてんだろうか俺は。
だからこそ。
「うう…………らぶらぶな感じがない」
「何を言っている。らぶらぶ過ぎる位だろ」
「うぅ………絶対に仕返してやる……」
「そうか、ならもっとハードにして反撃出来ないくらいにしないとな」
「うぴゃっ!」
うぴゃっ?
理解不能な擬音と共に美々はプールの中へと沈んだ。
と、思ったら宇宙に飛び発つロケットの様に出てきた。
「水怖い………水怖い……水怖い………」
じゃあやるなよ。
「…………………」
美々はどこかで見たことあるボクサーの様に燃え付きている。
泳ぐのが余程嫌いなんだな。
「違う! あんなスパルタ教育されたら誰だってこうなる!」
犬歯を出して怒る美々さん。
藤谷はその発言に対して返答代わりに首を傾げた。
「二時間泳いだくらいで何を言ってる。俺が親父にアマゾンの奥地に住む部族のテンニャラフポンポン秘拳を教わった時は朝から晩までやってたぞ」
藤谷は心から真面目に答えたが、美々はゆっくりと目尻に涙を溜め、鼻をすすって泣き出した。
「藤谷がおかしくなったぁ………アマゾンってなにぃ………うぇぇぇん」
そういや昔に幼馴染みにもそれを言ったら泣かれたな。
「いや、おかしいのは分かってる。あの時は子供だったから親父を疑う事がなかったんだ。だから、何かの練習と言うと朝から日が落ちるまで基本だと思ってて………」
「ぐすっ、本当に大丈夫? テンニャラフポンポンとか使わない?」
「使わない使わない。怪しすぎる技だからな。機会があっても使わない」
泣き出してしまった美々をようやくなだめ、練習を再開しようとすると聞き慣れた声に声をかけられた。
「なにかトラブルかい?」
爽やかな声に振り返ると、やっぱり爽やかに歯を見せてついでに六つに割れた腹筋も見せ付けている男、柏原透の姿があった。
隣にはその恋人の詩織さん。青の水着と白い肌がとても美麗だ。
水着の感想がシンプルだが、シンプルな感想しか出ないくらい美しい。
そして、シンプル以上に描写すると、
「………………」
背中に突き刺さる視線が痛すぎる。虫眼鏡を通した日光の様だ、ジリジリ背中が焼けてる気がする。
「どうかな? 藤谷君私の水着どう? 少し思い切ってみたんだけど」
そう言って姿勢を少し変えて、ボディラインを強調する詩織さん。
藤宮藤谷、残念ながら普通に健康でノーマルで、平凡な少年だ。目がいかないわけがない。強調される胸や、すっきりした腹、おしりを目で追ってしまう。
ハッとなった時にはもう遅い。
「……………嫌い」
「い、いや、美々? 美々さーん………美々さんってばー」
ヤバい、今回ばかりは普通に怒ってる。何時もはちょっと冗談混じりだが今回は初めて「嫌い」とまで言われた。
本気でマズイ、折角泣き止んだのに目尻に涙が溜り出してる。唇まで噛んで声を出して泣くのを我慢してるのが目に見えてる。
「あらぁ、藤谷君は年上の方が好みだったか、悪いことしちゃったなぁ……………」
あれ?気のせいかな。今詩織さんが凄く嫌な笑い方した気がする。そんなわけないか、今は本当に困った顔で美々の心配してるし。
「詩織まで取られちゃったら流石に僕は立つ瀬が無さすぎるなぁ」
ははは、と高笑いする透、やだぁ、と続いて笑う詩織さん。
明、暗が完璧に分かれた。
暗カップルの藤谷はこの現状を逆転出来る手立てを考えていた。
「そういや、なんで透達がいるんだ?」
ずっと聞きそびれていた事を藤谷は聞いた。少し言葉に刺があるのは容赦して欲しい、大事な彼女が機嫌を損ねてしまった理由が相手なのだから。
完全な罪の擦り付けなのも無視してほしい。
「えっ? 藤谷達が来るみたいだったからね。久々に休みを取ってしまったよ。あはは」
「そうか、それはそれは。このプールの件を頼みはしたが、流石に今回は二人きりにしてくれ」
「私は藤谷君と美々ちゃんと遊びたかったんだけどなぁ……」
本当に残念そうに言われても今回ばかりは引けない。引く気もない。
「ちょっとここには嫌な思い出がありましてね。それを払拭したいんです」
「ああ、もちろん親友の恋路は邪魔しないよ。それじゃ後で食事は一緒しよう。上で予約取ってるから」
「それも遠慮する。今日は二人で居たいんだ」
「………藤谷」
「そうか、残念だよ。折角休みを取ったのに」
「残念、振られちゃったね。今日は二人で楽しみましょ」
詩織さんは透の肩に手を乗せて笑いかけている。本当にこの二人はお似合いだと思う。
大人のカップルはこういうものだと思う。
俺達もいつかは、なんて思ったが、俺達は俺達らしいカップルになればいい、それが恋人同士だと思う。
恥ずかしくて絶対に口には出せないが。
「まぁ、また誘ってくれ」
「もちろんさ。香里さんに怒られない程度にはね」
そう言って肩をすくめて去っていく透、そしてそれに従う詩織さん、今詩織さんが振り返ってとっても嫌な目で笑ってた気がするんだが、気のせいだよな。
「いい加減機嫌を直してくれないかな?」
どうやら美々はうるうる期から、頬を膨らませるぷんぷん期に移行したらしい。さっきからプールに半身つかってるだけで、泳ごうとは全くしてくれない。
「藤谷はさ。やっぱりここであった事嫌だった。私が柏原さんを紹介した時の事」
「………聞くまでもないだろ。家で泣いてたんだぜ俺」
ぷんぷん期を忘れたのか、驚いて目を見開いてる美々、何か言いたげだが、上手く言葉が紡げないようだ。
「でもさ、やっぱり諦め切れなくて追って来たんだぞ。それで今はすっごく幸せだ。毎日起こしてもらって飯作ってもらって、もらってばかりでなんか返したいと常々思ってんだけど、結局ここも透に頼っちゃったし、だから、夜ご飯は今日は俺が作る。美々ほど美味くはないが我慢してくれ」
言いたい事、やってあげたい事、やってみたい事、好きだからこそ、美々だからこそ、一緒に歩める喜びを、生きるって喜びを。
「二人で生きたいんだ。生きるって事を二人で知りたいんだ」
言葉にすると凄く不格好で、不細工だが、でも、知って欲しかった。何をしたいかなんて曖昧だけど、不確かだけど、一緒に歩みたいって事を言いたかった。
一度ここで失いそうになった物だからだろうか、なんか言わなきゃと思った。
「すっごい恥ずかしい。ごめん、ちょっと意味分かんなかったよな。忘れて、もっと格好よく再編集するから」
美々は転びそうになりながら、むしろ、最後の一歩で転びながら俺の胸に飛込む。いや、転がり込むか?
「ダメ、絶対に忘れてあげない」
そう言って美々は藤谷を見上げ、唇を差し出すように目を瞑った。
「…………えっ? まじすか………」
藤谷は辺りをキョロキョロと見回す。人が居ないわけではない。だが、こっちを見てる人は………居ないだろう、多分、きっと、恥のかきついでだ。
そっと唇を重ねた。
「青春だねぇ」
ちょっと上から聞こえた声に反応して美々と額をぶつけあった。
「と、とと透! いつからそこにいた!?」
「うん? どっからって………聞かない方がいいんじゃない?」
初めから居たな。こんちくしょう。
このプールには階段で昇った先にもプールがある。ウォータースライダーもあるのだが、どうやら透は上にあるプールで遊んでたようで、プールとプールを繋ぐ橋の上から見下ろしていた。詩織さんも一緒に。
「ちょっと待ってろこんちくしょう! テンニャラフポンポン秘拳で葬ってやる!」