十一話4
夏休み残り三日。
藤谷は必死。
香里は、
「むーむー、ぶーぶー」
何かを発しながらむくれていた。なぜか、アイも一緒になって香里の後に続いている。
「それと、いい加減美々を定着させて、いい?」
念を押されてしまった。つい、癖で香里と呼んでしまう。美々ね、美々、慣れねぇ。
「アイはアイだよ」
聞いてない。
「うう、とうやが冷たい。ヒエヒエだよ夏なのに」
うん、なんか皆心の中で考えても反応してくれる。もう喉なんていらないや、潰すか。
藤谷が少し荒れてるのはもちろんアレである。学生の天敵夏の課題、もちろん『課題』という言葉が真の敵、ラスボスに違いない。
「藤谷、いい加減休む? そろそろ頭が駄目になってんじゃない?」
「それじゃあ駄目なんだ。終わらすんだ………負けられない! 負けられないんだぁぁ!」
意味もなく吠えてみる。蝉の鳴き声だけがただ虚しく帰ってきた。ついでに叫んだ事により汗も出た気がする。
アイは見てるのに飽きたらしく、汗を流すためにお風呂に入ってくるそうです。
「そんなに無理しなくても、間に合うでしょ? 三日あるんだし」
現在午後三時、朝起きてからずっとやっている。もちろん昼に休憩は挟んだが。解るところだけ少しずつ進めていたので、そこまで大した量ではないが、それでも二日は掛る。
「いや、なんとかして一日空けたくてさ。二人で出かけてないだろ? だからさ、最終日くらいは二人きりで出かけたいなって」
「っ!!」
美々は口に手を当てて驚いた顔している。久々に態とらしい。
「ごめんなさい。凄く嬉しい、少し泣いていい?」
『ごめんなさい』から言われたから、誘いを断られるのかと思ってこっちが驚いてしまった。
「泣かんでくれ、どこか行きたい所とかあるか?」
「藤谷とならどこでも行きたいよ。ちょっと言ってみたかったのこの言葉」
快活に美々が笑う。その笑顔に引き込まれる、それくらい可愛らしい笑顔だ。そんな言い訳をしながら体を寄せ、顔を寄せていく。美々もそれに気付いたのか顔を寄せて応じてくれる。
「とうや! さっぱりだよ」
突如現れた白い女の子Aの衝撃により、藤谷と美々は磁石のように弾かれ、藤谷は課題へと戻った。不自然極まりないが、アイは首を傾げるだけで終わった。
とうやさっぱりだよ。と言われると自分がよく解らない人みたいに言われてるような、とそんな感じの突っ込みを入れたかったが、そんな余裕はなく、態とらしく「ここの公式が……こうなって………」としか言えなかった。現代文の課題だが。
それから二時間ほど課題を進め、休憩を取る事にした。美々がお茶を用意して、態々部屋まで持ってきてくれた………のでこの有り様です。
「………んぅ……そこ………いいねぇ、旦那様にやってもらうってぇ………」
「頼むから変な声を出さんでくれ」
誤解しないようにすぐに説明する。まぁ、誤解しないかもしれんが肩を揉んでるだけだ。美々は肩凝りが酷いらしい、都市伝説じゃなかったのか、あの胸の大きい人は肩が凝るというのは。
「まぁ、実際は私は凝ってるし、家事も結構やってるし」
またまた言うとですね、つか言ってないんですよむしろ。なんにも喋ってないんですよ。
「だって顔に書いてあるもん」
だから、肩を揉んでるんだってば、正面から面と向かって揉むものじゃあないでしょ?もちろん後ろに居るんだよ俺は
「私くらい藤谷が好きだとそれぐらい造作もないのよ」
もういいです。俺にはプライバシーがないんです。
「そういやアイは?」
気を取り直して、声に出して聞いてみる。一瞬空気が固まって吸えなくなったような錯覚を感じたが、すぐに戻って冷たく返答された。
「お昼寝だそうよ。お昼はとっくに過ぎましたけどね」
「そっか、なら遠慮なく」
確実に機嫌が悪くなっているので、黒○舞先輩から昨日聞いた緊急機嫌復活プランを試してみる。
某先輩は何故か昨日電話がきて、俺と美々の話を聞かれた。美々とは頻繁に連絡取ってるみたいなのに、なぜ急に俺に聞いてきたのだろう、変に疑問が残る。
遠回りしたが、美々緊急攻略プラン、さっきと名称が違うのは置いといて、それを実行する。
どうするかって簡単、今藤谷は美々の後ろにいる状態なので、後ろから腕を回し抱きすくめるだけ。言ってしまえば藤谷もやりたいからっていう簡単な理由と簡単な手法がプラン。
「ひゃっ、と、藤谷…………うん………」
「俺だって……み、み美々が好きだから」
言い慣れない名前なんで噛んでしまったが、言いたい事は言えた。小さな充実感が………ってなんか小さな充実って矛盾してるな。語彙足らん、つまり、ふわふわ、温かい感じ、そう温かい暖かい、そんな感じがするんだ美々に触れてると、これが俺の好きって気持ちの具現なのかな。
悟りを開きそうな藤谷は美々の言葉で現実に帰る。
「うん………あんまり藤谷は言葉にしてくれないよね」
そう言って美々は回した藤谷の手を取り、愛しそうに指を絡めていく。
「あんまり言い過ぎると言葉が軽くなる気がして、たまに言うから良いかなって」
「そう、そういう考えなら………でも、たまには言ってね、言葉にしてくれないと寂しいから」
ああ、と辛うじて返事をしたが、かすれてしまって上手く言えなかった。心臓がロックバンドのドラムのように鳴っている。蝉の鳴き声が小さく聞こえるくらいだ。
「藤谷心臓凄いね。私のも凄いんだよ」
その言葉の後に何か柔らかい物に触れる、というか沈む自分の手、何が起きてるのか一ミリも理解できない。いや、理解してるが、脳が追い付いて来ない、きっと普段使ってない、人間の力を超えた部分を使って今感じてる柔らかさを理解してるのだろうが、普段使ってる部分はまだその情報を解析できてない。つまり、混乱してる。
「ふふ、私のも大きくなりすぎてわからないや。背中から伝わるの貴方の鼓動なのか、私のなのか」
夏だからではない、それも加速の一因かもしれないが、藤谷の汗は沢山一杯とても吹き出ている。ああ、俺の汗線大放出、つまり、要は藤宮藤谷は混乱してる。
「藤谷、私もね――」
美々の言葉は最後まで紡がれる事はなく遮られた。怒りの日に。
「うっ………本当にタイミング悪い、見てるのかしら」
「ちょっと確認する」
藤谷は机の上にある携帯を取ろうとしたが、手を動かせない、無論藤谷がこの膨らみから動きたくないわけではなく、美々がそれを離さないからだ。立って移動しなきゃ届かないから、どう頑張っても取れはしない。
「今は私だけを考えて、いつも私だけ考えて欲しいけど、せめて………今だけ」
手が更に強く握られる。十秒を越えた。電話らしい、いくら緊急でも今だけは藤谷も離れたくはなかった。
「じゃあ後で謝る。今は俺もこうしていたい、奥さんだし、ね」
照れ隠しのつもりで付け足したセリフも、余計顔を熱くさせるだけだった。