おいしい喫茶店/いちごバタートースト
海沿いの道路側に広く取られた大きな窓から、柔らかい日が差し込む店内。
心地良い微かな音で流れる、ピアノのジャズ。
香ばしい珈琲の香りと、焼きたてのパンの香りが合わさって、食欲を誘ういい香りが拡がって幸せな気分になる空間。
ハァ……。
優花は、そんな喫茶店のカウンター席に陣取り、カウンター台に肘をついて大きなため息をついた。
朝から何をする気も起きず、肩まである髪を首の後ろで一つにまとめ、起きぬけの顔にパウダーをはたいて眉を書いただけ。
履き潰した濃紺のデニムに白のTシャツ、ピンクの綿シャツを羽織った姿で、優花は朝ごはんを食べにやって来ていた。
ここは優花のアパートからすぐ近くにある、海沿いの国道にある喫茶店だ。
名前は、「おいしい喫茶店」
ちょっと?
いや、結構変わった、自分の首を絞めるんじゃないかと思う名前の喫茶店は、優花が引っ越してきてすぐに見つけたお気に入りの店だ。
優花がこのお店に来たくなる時は、決まって何かあった時。
現に今日も週末の土曜日だと言うのに、優花は朝から気分がふさぎこんでいた。
「どうしたの。休みの朝から大きなため息」
優花が座るカウンターの向かい側から、この店のマスターが声をあげた。
背は優花より少し高い170cmくらい。
細身で肩まで伸びた猫っ毛の長髪を後ろで無造作に括ったマスターは、人懐っこそうな猫目を細めて優花に笑いかける。
このお店の和やかな雰囲気は、このマスターの中性的な雰囲気から来ているのもあるんだろうなと、優花は思う。
「うん…ちょっとね…」
「あらあら。仕事?プライベート?」
浮かない顔のまま答えると、マスターは目を輝かせて身を乗り出す。
おしゃべり好きなマスターに苦笑しながら、優花は答えた。
「…プライベート」
優花が声のトーンを下げたまま答えると、あらあら。と他人事のようにマスターが声をあげた。
「今日はあんまり混んでないから、のんびりしていって。いつものカフェオレと、チキングリーンサラダでいいの?」
「うん」
「今日のユカちゃんにはあんまりおすすめしないけど?」
最近、また力を入れていたダイエット。
もうする必要はなくなってしまったけれど、やめるにはまだ踏ん切りがつかない。
優花がいいの、と答えると、マスターは小さくため息をついて、了解。と微笑んだ。
「ユカちゃん疲れてるんじゃない?ダイエットもいいけど、ほどほどにしなさいよ。顔色悪いし髪パサパサだし、女子力が下がってるわよ〜」
マスターに指摘された優花が、ウッと言葉に詰まって頬にかかった髪の毛を触り出す。
その姿に笑いながら、マスターはキッチンに入っていった。
いつもなら席が埋まっている休日の朝なのに、今日は客もまばらで読書だったり、熱心に何かを書いていたり、音楽を聴いていたりと、皆思い思いのことをして過ごしている。
優花はそれをカウンターから観察し終えると、思い出したようにため息をついて、頬杖をついた。
「優花、俺と別れてほしい」
先週、1ヶ月ぶりに会った彼氏の洸太に言われた言葉だった。
お互いの仕事が忙しく、ようやく会えた、週の中ばの仕事終わりだった。
洸太との出会いは、なんてことない友達に連れていかれた合コンで、その当時、優花が好きだったドラマの話で盛り上がって、洸太から告白されて付き合い始めた。
二人ともお互いに残業が多い職種で、平日に会えない分、休日にデートを重ねていた。
会った時はとても幸せだった。
もちろん、オシャレにも気を使ってきた。
ダイエットだってしてきたし、どんなに忙しい日も、お手入れをサボったりはしないようにした。
それもこれも、
キレイなわたしで洸太に会いたかったから。
キレイなわたしを見ていて欲しかったから。
洸太も、いつもオシャレな姿で待ち合わせ場所に現れた。
優花をドキドキさせても、幻滅させることは絶対になかった。
2年間楽しくて、結婚も意識し始めていた。
…それなのに、
一体いつから歯車が噛み合わなくなってしまっていたんだろう。
「はい。カフェオレ」
優花が突然聞こえた声にハッとすると、マスターが淹れたてのカフェオレをカウンターに置いてくれた。
「ありがとう」
優花がお礼を言うと、マスターは微笑んで、またキッチンに引っ込む。
「好きな人ができた」
洸太は行きつけのバーに座って少し話したあと、そう切り出した。
珍しく平日に洸太と会えるとわかって、すごく楽しみにしていた夜だったのに、優花はどん底に突き落とされたように感じた。
どうして?
いつからなの?
洸太に聞いてみたかったが、身体が強ばって声が出ない。
スカートの上で握った拳が、小さく震えていた。
「仕事が行き詰ってて、ここ半年、結構しんどかったんだ。だけど、優花に会ったら仕事が楽しそうでさ、応援したい気持ちより、羨ましい気持ちが勝っていって、辛かった。
そんな時に、職場でいつも励ましてくれる子がいて、だんだん好きになってたんだ」
優花は雷に打たれたようだった。
私のせいなの?
洸太のことを応援したのが重荷だった?
その言葉がぐるぐる頭の中を回る。
「優花は悪くないよ。俺が弱かっただけ。でも、前みたいにもう優花の事を思えない。…ごめん」
横並びでカウンターに座っていたけれど、洸太は最後まで真摯で、ちゃんと優花の方を見て、目を見て話してくれた。
だからこそ、余計に優花は惨めだった。
もう洸太の瞳に自分が映っていないのが、分かったから。
「そう、なんだ」
「勝手ばっかり言ってごめん」
「ううん。……今までありがとう」
強がって笑顔で返すのが精一杯で、店の前で洸太と別れた。
だけど、毎日1度は必ずあった洸太からの連絡がないまま2日が過ぎ、10日経った。
そして昨晩、仕事から解放されると、優花はやっと別れた実感が湧いた。
本当に、別れたんだなと思った。
コク…
「にっがい…」
大きめのマグカップに注がれたカフェオレを飲むと、口の中に苦味が広がる。
いつもは心地いい苦味が今日はやけに、苦い。
本当はコーヒーより、甘いミルクティーの方が好きだ。
カフェオレだって、コーヒー好きの洸太に合わせて、やっと牛乳たっぷりめの砂糖抜きで飲めるようになった。
ダイエットをするたびに、大好きな甘い物も、何度も控えてきた。
パンにいちごバターを塗ったり、フルーツたっぷりのパンケーキが大好きだ。
だけどここ数ヶ月だって、ずっと我慢していた。
仕事だって、楽しいばかりじゃない。
辛い時だってあったけれど、洸太といる時は笑っていたかったから、平気なフリをしていただけだ。
それなのに、なんで?
どうして他の女の子を好きになっちゃったの?
ポタ…タ
カウンターに滴が零れる。
気がつくと、優花は泣いていた。
「あ…」
慌ててお手拭きを目元に当てると、目の前からそっとティッシュ箱が差し出される。
気がつくとマスターが目の前に立っていて、優しく微笑んでいた。
「泣きなさい。スッキリするわよ」
優しく微笑むマスターと目が合うと、涙が溢れて止まらない。
「落ち着いたらまた声かけてね」
マスターは優花の肩を優しく叩くと、他のテーブルへオーダーを取りに行った。
洸太の事が好きだった。
仕事の話をする時のキラキラした笑顔も
大きく口を開けて笑う顔も
優花の手をすっぽり包む大きな手も
優花の愚痴を黙って聞いてくれて、頭を撫でてくれることも
全部大好きだった。
「ひ…うっ」
優しい洸太が好きだった。
それなのに、洸太の苦しみに気づけなかったなんて間抜けにも程がある。
彼女失格だ。
優花は、声をかみ殺して、泣き続けた。
やっと、泣くことができた。
☆☆☆
「まあー、ひっどい顔」
しばらくして優花に食事を運んできたマスターは、笑いながら毒づく。
「馨、うるさい」
優花が負けじとマスターの名前を呼び捨てにするが、マスターは鼻で笑って相手にしない。
「こら。今はカオリよ!本名を呼び捨てにしていいのは旦那だけ、わかった?」
「はぁーい」
マスターは、ここ最近で新しいパートナーと出会ったらしく、笑顔や仕草がより優しくなった。
マスターと知り合って何年も経つけれど、こんなに幸せそうなマスターを優花は見たことがない。
マスターの事は大好きだから、自分の事のように嬉しい。
「それより、失恋ならもっと早く言いなさいな。女子力下がってるなんて、傷口に塩塗るようなこと言わなかったのに。てっきり、ケンカかなって思ってたわ」
マスターは呆れたようにため息をつく。
「でも、女子力下がってたんでしょ?」
優花が問い返すと、目の前の相手は、バツが悪そうに肩をすくめた。
「まあね、ダイエットが裏目に出てるというか」
でも、とマスターは続ける。
「優花ちゃんは頑張ってたじゃない。初めて会った3年前よりずっと綺麗になったわよ」
マスターはこんな時でも嘘は言わない。
だから信頼して話せるし、また来ようと思える。
マスターの優しさに、優花はありがとうと涙目で笑った。
「さ、これでも食べて元気出しなさい。元気だして、またいい男見つけなさい!」
そう力強く言いきったマスターが差し出したのは、頼んだチキングリーンサラダではなかった。
白い楕円形のプレートに、
厚切りの食パンに、バターとイチゴジャムを塗ったいちごバタートーストが乗っている。
その隣には、グリーンサラダと、カリカリに焼き上げたベーコンに黄身がぷっくりと膨らんで美味しそうな半熟のベーコンエッグ。
おまけにマスターは、冷えきったカフェオレを下げて、マグカップになみなみと注いだハニーミルクティーを置く。
はちみつの甘い香りとミルクの甘い香りに優花の顔がほころぶ。
全部、優花の大好きなモーニングメニューだった。
「え?え、頼んでないよ」
我に返った優花が慌てて答えると、マスターはシっと口に人差し指を立てる。
「今日はサービス。本当は甘い物大好きだったでしょ?コーヒーだって本当は苦手なくせに」
いたずらっ子のように笑うマスターにつられて、優花の目はまた潤む。
すると、マスターは泣かない泣かないと言って、ティッシュを優花の目元に押し当てた。
「どう?渾身の大好物メニューは?今日は手づくりのイチゴジャムを使ってるから甘さも控えめよ。おかわりもあるからいっぱい食べてね」
「うん!いただきます!」
優花が元気よく手を合わせると、マスターは吹き出して笑った。
優花は手を合わせると、トーストに手を伸ばす。
サクッ…
分厚いのに噛むと軽さのあるトーストからは、ジュワッとバターの塩気が染みだし、それに合わさるように、イチゴジャムの甘酸っぱさが口の中に広がる。
ずっと我慢していた、大好物のいちごバタートーストが、優花の心に元気を与えてくれた。
「ん~っ!おいひい!」
塩っぱくて甘酸っぱい、複雑な味だけれど昔からやめられない大好きな味。
-優花、ほんと美味しそうに食べるよね。-
-うん。だって、いちごバタートースト大好きなんだもん。ー
優花は口いっぱいにトーストを頬張りながら、洸太と笑いながら食べた、いつかの朝食を思い出していた。