表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異教徒、トルコ説話の一片 The Giaour, A Fragment of a Turkish Tale. (1813)  作者: バイロン卿ジョージ・ゴードン George Gordon, Lord Byron/萩原 學(訳)
附録
45/46

The Giaour 解題

Giaour は回教徒から見た異教徒を貶む語で、「不信者」「邪宗徒」などと訳される。日本史上は「邪宗門」と呼ばれ、しかしこの語は専らキリスト教徒を指し、また白秋や龍之介のイメージが強すぎて遠慮したい。

明治大学の木村佳恵「バイロンの英雄:その誕生と理想追及の失敗-『邪宗徒』を中心にして」論文は珍しくも『邪宗徒』呼ばわりして、ある種の価値観を反映しており、現地感情的には此方が近いのかもしれない。

作品は当初、1812年9月〜1813年3月に700行ほど書かれ、7月に刊行された。同年の末までに改訂を繰り返し、1300行少々にまで膨れ上がった。ラフカディオ・ハーンがバイロン卿を批判して、文章が十分に練られていないというのは、本作には当て嵌まらないと言えよう。


作品の副題に「トルコの物語」としながら、本作冒頭には凋落したギリシャの悲哀ばかりをこれでもかと描写する。嘗ては「ギリシャ帝国」とも称し覇を唱えたのが、オスマン・トルコ支配下にあり、独立など非現実的に見えていた時代である。日本国の防衛を米軍に頼る現状と大差ない。史実のオスマン帝国がどんな圧政を史実のギリシャに敷いたか、当のギリシャ人が負うべき責任はなかったか、今日のギリシャの現状から見て甚だ疑わしいところもあるけれども、それは此処で語るべき話でもあるまい。

ともかく詩人はギリシャを、ヨーロッパ古典文化の最右翼と位置付け、その現状を嘆き、自由独立の気概を煽る。今なおバイロン卿すなわちギリシャ独立の父とすら見られるのは、故なきことでもない。

とはいえ訳者にしても、Konstantina Tortomani さんの論文 The Vampyre As a literary war on the image of Greece(The Byron Society に公表) を読むまで、そんな環境は念頭になかった。まして市井一般の読者に、そんな予備知識が求められるとも思えない。なのに『吸血鬼』にも、バイロン卿の作品にも、翻訳にそういった解説をとんと見かけないのは、どんな立派な理由があるものだろうか。


作中の仇役ハッサンが佩用するピストルは、とある pasha のものであった。譲り受けたにしろ分捕ったにしろ、佩用を認められた彼もパシャと見るべきであろう。パシャとはオスマン帝国に於ける高級武官・文官の称号で、特定の役職を意味するものではなかったから、「閣下」「殿様」に当たるかもしれない。

ところがモーツァルトのオペラ『後宮からの逃走』(あるいは『後宮からの誘拐』1782)に(台詞のみ)登場する敵役は「太守セリム」と呼ばれ、これが "Bassa Selim, the Pasha" と「パシャ」の訳語だったりするので、本作もこれに倣う事とした。パシャの一件のみならず、あらすじ道具立てを比較すれば、本作が『後宮からの逃走』を下敷にするとは疑うべくもない。と訳していて感じたところが、欧米の解説論文にも『ドン・ジュアン』←『ドン・ジョバンニ』以外、オペラの影響ほぼ一切無視なのは納得行かない。

なお、1756年生まれのモーツァルトは、Vampyre の存在を知る機会はあったかもしれないけれど、残念ながらそれらしい作品は遺していない。辛うじて晩年の『魔笛』(1791)が魔法使いを扱うのみ。この『魔笛』を下敷にしたロバート・ブローニング『ハーメルンの(まだら)な笛吹き』(拙訳)が、笛吹きを魔法使いとして扱い、子供たちがトランシルヴァニアへ連れて行かれたもののように描くのは、19世紀イギリス人に典型的な東欧イメージを表しているのだろう。ブラム・ストーカー『ドラキュラ』がトランシルヴァニアを舞台とした一因であろうか。ポリドリ『吸血鬼』には、その国名は出てこないのだが。


モーツァルトの出世作となった『後宮からの逃走』は、軽妙華麗な音楽で親しまれるに至った。しかし台本を改めて読むと無茶苦茶なご都合主義。トルコの海賊に遭って拐われ、太守のハレムに売られたスペイン人の恋人及びイギリス人女中を救い出すという話で、ハレムとは本来「禁裏」の意味であるから、恋人を探す男子がごそごそ入り込んで花嫁略奪に及ぶなど、見つかり次第首チョンパされても文句は言えない。それを家来オスミンは期待したのに太守セリムが許しちゃうという、それなら損害賠償でも請求したのかとしか思えない結末。

対してヒロインが処刑されてしまう本作では、一転してドラマチックな決闘に及び、圧倒的有利にあった筈の回教徒太守ハッサンがどうしたものか、復讐に燃える異教徒にドタマかち割られて死んでしまう。これはロッシーニのオペラかなと思ったら、その世界はゴシック・ロマンスの代表作ともされるウィリアム・ベックフォード『ヴァテック Vathek』(1786)からの引用に尽きた。


変人ベックフォードの奇作『ヴァテック』は、邦訳が出ているのだが。『アラビアン・ナイト』をドロドロ煮詰めたような、エログロ流血大惨事な描写の連続に辟易して抛り出した。こんなものを思い出す羽目になったのは、バイロン卿の全集 The Works Of Lord Byron, Vol. 3 (of 7) を校注した Ernest Hartley Coleridge のおかげだ。このコールリッジ先生は、詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの孫に当たる人。Wikisource にあるEPUB版は進行中未完成なので、プロジェクト・グーテンベルクで The Works Of Lord Byron を検索した。The Giaour では引けない。


The Giaour における固有名詞及び東方の概念用語は、ほぼ全面的に『ヴァテック』からの引用と言っていい。

「異教徒」「ハッサン」「レイラ」といった人名は『ヴァテック』に出てくる。Leila とあるのが更に昔話『マジュヌーンとレイラ Megnoun and Leileh』(Henry Weber: "Tales of The East"所収)からの引用だったり、Giamschild は(閻魔様に当たる)Giamschid 綴り違いだったりもする。「昆虫の女王、紫の翅」と歌われるカシミールの蝶は、『ヴァテック』でヒロインのヌーロニハーを形容して "beautiful blue butterflies of Cachmere, which are at once so volatile and rare." というし、Nightingale とか Houris とか palampore とかそのままだし、もはや『ヴァテック』読者に合わせたウケ狙いともみえるほど。ただ、詩を書くときは、自分の中にあるものだけを使わないと、思うように言葉が踊ってくれない。ディオダティ荘でも『クリスタベル姫』を(そら)んじたバイロン卿であるから、『ヴァテック』も諳んじ、組み換えられる程には読み込んだのだろう。


このように引用した用語を使うバイロン卿が、「真似された」くらいで駆け出しのポリドリに怒りの矛先を向けるだろうか?しかも当の『断章』または『オーガスト・ダーヴェル』と呼ばれる書き物は、発表する予定は無かったらしく、マレーが出版した時には大層憤慨している。「ポリドリが真似た」などというが、侍医を早くにクビになり、にも関わらずバイロン卿の留守を預かるまでに側近を務めたポリドリ博士が何故、原稿まで持っていたか。バイロン卿が与えたに決まっているではないか。

実はその "Fragment" を『断章、またはオーガスト・ダーヴェル』と題して翻訳しかけ、居た(たま)れずに放りだした。『吸血鬼』と似ているのは、筋書きに留まらない。文体がそっくりそのまま、あの切れるやら続くのやら解らないダラダラ長い、『異教徒』をあれほど手際よく唄った詩人の筆になるものとは信じられない文章になっている。『断章』はポリドリ博士が学んだというより、彼等の日常会話に近かったのではないか。実質1日半で『吸血鬼』を書き上げたポリドリの速筆も、バイロン卿との会話を想定したから実現したものかも知れない。ただ、バイロン卿にしてみれば、自分の恥部をほじくり出すものにしか見えなかったであろう。小説らしきものを書きかけたバイロン卿は、ふと筆が止まったとき、続きを書こうとして読み返し、仰天したに違いない。「ゲゲっ、赤っ恥!」詩なら、仕上げるに従って「私」が薄れ公表できる作品に近づくのだが、「私小説」なんて区分がある程に小説は「公」ではないのだ。困惑した卿は、手近な者に押し付ける。「おいドクター、お前の原稿まだだろ?これやるから続き書け」と、本人としては「良いきっかけを与えてやった」くらいに満足したことであろう。数年後、お鉢が自分に回ってくるとは思わずに。考えられない?そんなことはない。ちょっと想像してみよう、自分では書けなくなった連載小説の続きを、都合よく書いてくれそうな者が目の前に居て、しかもそいつは自分の言うことを聞き、とどめにデビュー前。反故にするよりは、才能発掘になれば良いのでは?……詩人のクズ籠ほど多くの詩を知る存在は他にないので、このときも事情を知れば「やれやれ」と声くらい上げたかも知れぬ。


妄想はさて置き、本作は副題も番号も何もないけれど、内容的に3部分から成る。そこで訳文は3章に区分し、更に各段落に付番し、ついでに各標題も付けてみた。しかしこれはあくまで、訳者の趣味に過ぎない。他所に持ち出して使えるかは保証しない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ