シーツの襞の内側のところ
シーツの襞の内側のところどころに影ができる。透けた光は海底から見上げるのと同じで、曖昧な輪郭を造り出していた。
「もう行くから」
布一枚隔てた向こうから、言葉だけ降りてくる。と油断していたら。顔の部分に安らかな圧力が加わって、きっと雪子の形にシーツが貼りついている唇に、生の唇が合わさる。
それから廊下の足音と、ドアが閉まる気配のあとに、静けさが残った。アパートの駐輪場でエンジンが轟き、何度か呼吸をしていると聞こえなくなった。
汗を吸いこんだマットレスから上体を起こす。テーブルには昨夜の空き缶が横倒しになっていた。注ぎ口からこぼれたアルコールは、毛足の短いラグに染みて、苦々しい匂いを放っている。
シャワーを浴びて鏡に向かう。裸のまま雪子は椅子に腰掛けてボーッと自分と対面する。右手を挙げると彼女は左手を、左目をつむれば彼女は右目を。あらゆる事柄が、入れ替わっている。
昔、あの子に訊ねたことがある。
「鏡の世界に行けるかな」
水溜まりの回りに、雪子と二人でしゃがんだ日。水面には、逆さまの雪子とあの子がいた。アメンボが跳ねていて、たまに波紋で顔が歪んだ。
「嫌だな」
膨れっ面で、アメンボの群れを睨みつけている。あの子は酷く嫌悪している。
「どうしたの?」
「だって鏡の世界に閉じこめられたら、戻ってこれなかったら、寂しいよ」
「ふーん。そうだけど、もし戻れなくてもいいよ。こっちでは会えない人に、会えるかも知れないじゃない」
「そんなこと、分からないよ」
アメンボは、どこからやってきて、どこに向かうのか。不思議だったのに、あの子は興味なさそうで。
深い理由があったわけじゃないから、真剣に悩むあの子が次第に滑稽に思われてくる。
「帰ろっか」
雪子が言うと、あの子は返事をしないものの、立って黙ってついてくる。
長靴を履いている二人だった。地面の窪みに溜まった雨水や泥を気兼ねなしに踏みつけていく。立ち止まった時間の分だけ乾いていた汚れは、泥水に溶けて新しい模様を代わりに描く。
下地を整えて、眉毛を引いた雪子の顔は、似ているけれどいつも同じとは限らない。それは化粧をしようが、関係のないことで。
クローゼットからスカートを選んで、フード付きのパーカーは黒にして、インスタントカメラを片手に玄関を出る。
螺旋階段は、降りるときの方が上るときよりも緊張する。後ろ向きに落ちると、空しか見えないから、怪我をするまで意識されない。でも頭からの滑落は、怪我をするまでの過程の一部始終が明らかだから。
大家さんは毎日草木に水やりをしている。花が咲いているのだか定かではないひまわりの根元に、じょうろでたくさんの水を撒いている。
挨拶をしても、大抵は気づいてはくれない。土と茎の境界を、切断してしまうくらい鋭い大家さんの視線がしばらく頭から離れなかった。