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それで、ここにいるの

 それで、ここにいるのはどうして。スーツの黒さは余計なものを際立たせない。容赦のない色だ。雪子は返事をせずに、ビルの外壁に体重をあずける。


「あのさ、今、仕事中なんだよね。分かる?」


 深く吸った煙を、下唇を突き出して吐く。煙草の空き箱を握り潰して木戸くんは地面の砂を爪先でこする。


「でもこうして会ってくれるじゃない」


「そういうことじゃあ、ないんだよ」


 赤子を宥めるような優しい声色に、雪子は少しだけずるいと思う。


「最近流行りのドラマがあって、ネットで視聴したの。フェロモンって聞いたことあるかな。目には見えない成分が、相手を誘惑するんだってさ」


 煙草の先端はちりちりとオレンジ色に煌めいている。木戸くんの香りが濃くなっている。


「そこでね、教師が言うのよ。あなたたちは恵まれてる。なぜかは物語の後半にならないと分からないんだけど、ヒントは散りばめられている。舞台は今私たちが棲んでいる世界よりも時が経っていてね」


「あのさ」


 丁寧に言葉の間隙をこじ開ける木戸くんは繊細で。


「急に連絡くれたと思ったら、テレビの話かよ」


「テレビじゃないよ。ネット動画」


 線路が近いから、遮断機の降りる警告音がする。心臓が収縮させられる。どんよりとした血液を、無理矢理に循環させようとする。


「みんな顔が同じなの。不思議でしょ。そんなの、のっぺらぼうと変わらないよね。政府が推進している、遺伝子の出生前調整で」


「いい加減にしてくれ」


 踵を返して大通りへと向かおうとする木戸くんの背中に抱きつくつもりが、雪子は前のめりになって転んだ。

 コンタクトもつけずに家を飛び出してきたから。剥けた膝頭の患部には、灰色の砂利がまぶされている。


 今日も苦笑いしつつも、手を差し伸べて、雪子のからだをしっかり抱き上げてくれるはずなの。いつものように頭を木戸くんの胸に埋めて涙を流すままにするのに。


 どうして行っちゃうの。道端に捨てる吸い殻みたいじゃないかしら。雨にふやけて、ずぶ濡れの雪子は細かく分解されて消えてしまいそうで怖くなる。


 脈動する血液が逆流しているような錯覚。肺を素手で握られたら、なんて想像が恐怖に拍車をかける。息が詰まって嗚咽すらも喉に引っ掛かって身動きできないでいる。


 雪子は弾けるように立ち上がり、幾つもの降り注ぐ災禍を振り払いたい。だから全力で、喘ぎ、がむしゃらに、眼前の虚空に掻き回す腕を。


 重厚な音の波が手招きをしている。そこに雪子はダイヴしてみたい。走り幅跳びの選手がそうするように。ストライドを大きく、歩幅はみるみる、加速と同時に着地の点と点が離れていく。


 いきなりくの字に曲がる。例えば獲物が縄でくくられたときの、激しい反作用で腰が止まり、慣性で頭と両足が前に放り出される。一瞬間だけ静止して、後方に倒れた。


 倒れたのは雪子だけじゃなかった。背中が誰かを感じている。青空にガタンゴトンと踊るリズムと、遮断機の警告が協奏している。


「バカ野郎」


 耳元で声がする。腰にきつく巻かれた腕に雪子は手を添える。なんて温かいのだろう、と思う。男の子の、筋肉の隆起した部分をなぞる。


 温かいということは、相手からすれば雪子は冷たいはずで、でもそんなことはどうでもいいから。ずっとこのままでいいから。雪子は目を閉じて、レールの金切り声に耳を傾けている。

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