遅いよ。一体
遅いよ。一体ユッキーはいつからみちくさが好きになったのかな。丘の上で待っていた智世は頬を膨らませ仁王立ちしている。
重厚な扉を押すと、鈴が鳴る。右手のカウンターでサイフォンがブクブクと波打っている。コップを清潔な布巾で拭うマスターと目が合う。
「やあ、お友だちも一緒かい」
店内は新聞を読む男性が一人いるだけで、混んではいない。テーブルにケーキが運ばれてくる。チョコレートを愛して止まない智世のオーダー。
ムースとスポンジが地層のように折り重なっている。地層の深部に眠るのは、砕いてシロップでかためたクッキー生地だ。
「ほら、ユッキーも食べてみなよ」
「いいよ、智世が頼んだんでしょ」
ぐいぐいフォークを鼻先に押し付けてくる智世に根負けして、雪子は唇を薄く開く。
「どう?」
「私には甘すぎるかな」
「なにそれ。マスターに失礼じゃない」
「そういう意味じゃないから」
ここに来るまでの間に蓄積していた火照りを、オレンジジュースで相殺させる。ケーキが甘いから、ジュースは味気なく感じた。
「そうだ。写真は?」
目を輝かせてそわそわする智世を焦らすと、眉間にシワを寄せて口を尖らせる。アヒルのくちばしみたいだな。
「うわあ」
一冊のアルバムにファイリングしたものを渡す。ため息を吐いたあとは、黙々とページを捲っていく。真剣な表情で写真に目を通していく智世の機微に息がつまる。
窓の外では大海原にタンカーが。ミニチュア模型よろしく何艘も浮いていた。黒く太陽光を反射する船体が、果たして蜃気楼であるかも知れなかった。
「なんかさ」
ふいに智世が呟く。アルバムを閉じて、雪子と同じく外を眺める。
「雪子らしいというか」
「うん」
「どこがって言うのは難しいけど。猫とか、生き生きしてるし」
「そう」
もう空になった皿にはチョコレートソースの残滓が痣のように貼りついている。
「でも、なんかさ。みんな後ろを向いているね」
「人が?」
智世は頷く。
「当たり前だよ。他人だし、みんな」
「そうだけど」
顎を摘まんで目を閉じる智世はカフェ「曼荼羅」に元から置いてあるマネキンのように馴染んでいた。マスターが二人分のコーヒーを運んでくる。
「いい匂い」
一口啜って智世は微笑む。
「それで、智世の見せたいものは?」
写真の観賞はついでだった。本人は忘れていた顔をしているが、落ち着いたところで話したいとのことだったから。
「ごめん、もうこのまま帰る気になってた」
「それは無茶苦茶。話って?」
ふふ、と恥ずかしげに顔を上気させている。海の彼方から吹く風が窓をガタガタと揺さぶる。岬の灯台を被うほどの雲が忍び寄っていた。傘は持ってきていない。
「これ、見て」
スマホの画面を向けられた雪子は頭が真っ白になる。電池切れのロボットみたいに全身を脱力感が包む。
楽しげに映る智世の腰に手を回して佇む青年の、シャツの白さがやけに眩しい。
じっと雪子の様子を智世は伺っている。傘を片手に客が入ってきて、雨音が開いたドアの隙間からかすかに漏れた。
無意識にコーヒーカップに口をつけていた。さっきまで口腔に残っていたチョコレートの甘みは、あっという間に消えてしまった。思い出そうとも、舌は新たな苦味に塗り替えられている。