木戸くんとさよならして
木戸くんとさよならしてからは、一人が多かった。映画、カラオケ、喫茶店。基本的に楽なのがいい。誰かといることの窮屈さが厭わしい。
もうすぐ夏休みが始まる。と脳裏を過った。
「雪子?」
「あなたは、あなたなの?」
質問に、回答せずに質問する。それはつまり、相手の言っていることを正しいと黙認する場合。あるいは興味がなくて一刻も早く遮りたい場合。またはそのどちらとも考えられる。
「雪子がそうしたいなら、そうなるね」
「馬鹿ね。付き合ってられない」
「信太さんとはどうなの」
「木戸くんとは別れたわ」
「今度こそお似合いだとばかり。でも仕方ないね。だって雪子だものね。雪子を認めてあげられる人は、現れないはずだから」
平気だったつもりなのに、涙が出てくる。
「預言は的中したから満足?」
「怒ってる、はずないか。むしろ雪子は図星でしょう。恋なんて、できないんだよ。背伸びしてみたかったんだよね。分かるよ、その気持ち。無理なことに挑戦するのは、淘汰を未然に防ぐための種の本能というところかと」
電話を切ればいい。実際にそうするのは簡単なようで難しい。特異な吸引力に阻まれて、奇怪な斥力に虐げられて、スマートホンをタップできない。
「心配しなくても、もう切るよ」
ツーっと電子音が終わりを告げる。
北側の外壁に蔦の這ったアパートが雪子の住まいだ。萎びた朝顔に水やりをする大家に会釈して、螺旋階段を上がる。
老朽化したステップは雨に曝され侵された痕跡がそこここに見られる。傷ついた螺旋は補修と崩壊の歳月を経ることで、辛うじて実態を有する残像が留まっているようだ。
部屋には熱気が充満しており、エアコンを点けて立ち尽くす。ベッドに倒れこみたい。その前にシャワーを浴びてしまおうか。
現像を依頼した写真が郵便受けに入っているのを取り出す。カフェ「曼荼羅」からの帰路に切り取る風景が殆どなので、飽きてきそうなものなのだけれど。
服のまま、浴槽に座り、水を被る。心臓が驚きのあまり収縮する。肺も溺れそうになる湿った酸素を頬張ると、体の芯から力が沸いてくる。
このアパートのいいところは、駐車場が広いところと、浴槽が大きい二点。猫足のバスタブに浸かる雪子を遠い異国の地へと飛ばしてくれる。
オーガニックのトリートメントが空になって床に転がっていた。ペパーミントの香りはまだかすれずに漂っている。
浴室から出てくると、リビングはとても冷えていた。冷凍庫のヴァニラアイスに手を伸ばす。
舌に載せてとろける濃厚な刺激にうつつを抜かし。考えるのはベッドに横たわるこのとき。
いつも同じような写真を撮影できる。それはカフェ「曼荼羅」からこの家までの帰り道を寸分違わずにいられるからだ。
どうして雪子はここにいるんだろう。蔦の生えたアパートに、苦労せずに戻ってこれる。カフェにオレンジジュースを飲みに出掛けることができる。
目には見えない糸に誘われるように、遊びに行って、帰ってくることができる。雪子は雪子という存在が不思議でならない。
ヴァニラが甘いと感じるように、肉の脂が恋しくなるように。萎びた朝顔を可哀想だと目を逸らすように、イライラすると眠れなくなるように。
人間としての雪子は、透明な傀儡師に操られている。だから、木戸くんとはうまくいかなかったのだ。