フェロモン
フェロモン。視覚の発達していない、蛾のような生物が、どうしてつがいになれるのか、不思議だなあ。
人間だったら、相手を見て。ああ、この人カッコいい。あの人可愛い、と判断できる。いわゆるイケメンとか、美人とか。つまりはモテるということだ。
一方で、私の目の前で、二匹舞い踊る蛾。彼らにしか感知できない成分を、相互に作用させて、決めるらしい。
「と、ここまで理解できましたか?」
ディスプレイには担任の顔と、ひらひら優雅にりんぷんを撒き散らす蛾の動画が隣り合わせで映されている。
オレンジジュースをストローで吸っていると、グラスの氷がかちゃりと鳴った。
クーラーの効いた店内には、落ち着いた雰囲気の曲がかかっていて。マイクのミュートを切ってしまえば、この素晴らしいビートをみんなに届けてあげられるのに。
「他人の見た目にとらわれて、真実を見失ってはいけません。この蛾のように、より直感的に、正確に、パートナーと出会わなくてはならないのです」
良く喋る担任は続ける。
「ルッキズムなんて、もう、終わりを告げました。皆さんも歴史の教科書で習ったでしょう。かつて人類は顔や体の形、造作で良し悪しを吟味していました。それはとても恐ろしいことです」
両手をクロスして、肩にてのひらを当てて震えてみせる担任のいかにもおぞましそうな態度に、何人かの失笑がスピーカーを通して伝わる。
何がルッキズムだよ。実感わかねえよ。男の子たちの声がする。低く、喉仏で空気がよじれる。
「こら、あなたたちは恵まれているのですよ」
喝を入れられても、画面越しでは軽く受け流せてしまう。物理的距離は容易く心を置き去りにする。
「はい、本日の講義はここまで。しっかり復習しておきなさい」
通話が切れた。
溶けた氷がオレンジジュースを薄めてしまっている。
「おかわり、どうしますか」
ラベンダーの香水をつけたウエイターにかぶりを振って、雪子は外に出る。
降り注ぐ日射しはアスファルトを焦がし、街路樹を揺らめかせている陽炎を育む。カフェ「曼荼羅」は海のみはるかす丘の上に位置しており、岬の突端からは潮風が吹いてくる。
これでもここ数年の気温は比較的落ち着いてきたと、ニュースキャスターが言っていた。迷いなく、はきはきとした発声は好ましいと雪子は思っている。
ワイヤレスのイヤホンを耳から外す。ザアーっと溢れるノイズが鼓膜をきしませる。440ヘルツの波が離れていく。最後の音が消えたとき、雪子は一人きりになった。
ピアノの鍵盤をリズミカルに。それを録音してポケットに忍ばせる。何の意味があるか分からない。とにかく心が安らぐ。たまたまアーカイブに入っていたのが、「ラ」だっただけだ。理由なんてない。
手当たり次第に風景を撮影していく。
大昔のインスタントカメラを、特注でリバイバル。フィルムを巻いて、シャッターを押す。
山に傘を被せたかのような雲。名もなき猛禽の飛翔。道端の穴。排水溝と赤い鳥居。電線の五線譜、信号無視のクラクション。
音は耳に、光は写真におさめていく。
形あるものはいつか壊れる、そう尊敬する人が教えてくれた。形ないものはいずれ忘れる、雪子は何となくそう思っている。
とり憑かれた、あるいは無心と形容するのがいい。すれ違う時間を雪子は裁断してしまいたい。電話がきた。
「雪子?」
開口一番訊ねられるとは不可解だ。相手は私を雪子だとして電話をかけているのではないのか。間違い電話なら、黙っている相手に名前を確かめる必要だってない。
「あなたは」
こんな風に唐突に話しかけてくる。きっとあの子、きっとそう。