8 あーん
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
大地を鼓動が刻むみたいに振動させる騎馬の集団の中にハモンはいた。
太陽の光を砕いてキラキラ光る水面が美しい川の横を全力で駆ける馬の鞍上で、ハモンはアネモネのことを思っていた。
この青々と深みのある川は長蛇の如くうねりながら王都へとゆるゆると続く。雨の名残を混ぜ込んだ水は水かさを増して、先に見える石橋と川の水面がすれすれになっていた。
まるで眠っているかのように静かで穏やかだった大河であったのは過去のこと。ここ10年たびたび氾濫を起こし、暴走し溢れた水は水辺の村村に多大な被害を与えていた。
王国は河川の工事をしたが、自然の暴虐は人間の努力を嘲笑うかのように年々激しくなる一方であった。
ハモンは馬を走らせながら道の脇に立つ洪水にも揺るがなかった、太い根で大地を鷲掴みにする背の高い木に咲く花をひとつ取った。いっしょに空をも掴んでしまったのか、青い青い花の色だった。
ハモンの目の色だ。
その花を川へと投げ入れる。
小鳥の囀りのように無数にゆれる水面の上へ。
地上の星のように無数にきらめく水面の上へ。
わずかに巻き込まれた空気が水中で白く細かい泡となって、水と花の契りのように一瞬だけ交わり、生まれたばかりの小妖精の如く花は青く儚く浮かんだ。
我が身を散らす風に押され花はゆらゆらと舵のない舟のように流されて行く。王都へと。ハモンに手折られた花はハモンの手の記憶を、ハモンの体温と長い指の記憶を持って。
あの花と自分と、どちらが早く王都へ着くことができるだろうか?
速く、駛く。
ハモンの心は心配と不安に溺れる者みたいにもがくが、どれほど馬を急がしても王都は遠かった。
花ちゃんがジェラルードを呼んだというのならば、それはアネモネの身に何かあったということだ。
ハモンはアネモネを案じているが、ジェラルードが猛り王都を地獄の惨劇の場にしてしまっているのではないか、とも心配していた。
アネモネ無事でいてくれ。ハモンは焦燥感にねじ切られそうになりながら、巧みな馬術にものを言わせて鬼気迫る勢いで馬をひたすら駆けさせ続けた。
花ちゃんは棚ぼたチャンスの国王をポイッと捨てて、アネモネの元へまっしぐらに飛んで行った。
花ちゃんはアネモネの前では100パーセント可愛いだけのひよこでいたい為、あざとい姿を欠片もアネモネに見せるつもりはなかった。
いつだってどこでだって最優先は花ちゃんにとってアネモネであり、1番にアネモネ2番にアネモネ3番4番がなくて5番目にハモンとジェラルードの、いじらしいひよこ心の花ちゃんなのである。
きゅむ、ミモザのような小さくて丸い花ちゃんの体がアネモネに抱きつく。
「かかちゃ?」
ジェラルードが、左右を二人の兄に支えられピットリと細い首に花ちゃんがくっつくアネモネに大きな顔を寄せた。
「かかちゃだろう? 我の番とほぼ同じ魔力の質だ。我はジェラルードだ」
ジェラルードは巨大な竜だ。
しかし、アネモネは怯えることも恐がることもしなかった。
優しく瞳を細め、
「はじめまして、ジェラルード様。アネモネ・フィールドと申します」
と、にっこり微笑んだ。
アネモネの優しげな眼差しに真っ直ぐに見つめられジェラルードは動揺した。
生まれた時から最強種で外敵が少ない竜種は、子育てをしない。親の庇護も世話も必要がないからだ。いわば生み捨てなので竜種には親だの子だのの意識はないも同然であった。
だからジェラルードは親や兄弟がいてもひとりだったし、ひとりで数千年間生きてきた。
生物の頂点に君臨する竜である。
ジェラルードは、餓えも渇きも覚えたことは一度も無かった。肉体は無敵に等しい故に傷を負ったとしてもすぐに再生し、病に罹ったことも無かった。苦難も知らなかった。悲しむことも苦しむことも、愛することも。
花をむしって遊ぶ幼子のような残酷さと無邪気さとで数千年間、思うがままにただ生きてきた。
求め探して番を夢見て、出会い、狂死することは惜しむものなど何一つ持つことのない長い竜の命にとって、ある意味救いとなるほどにジェラルードは長く長く生きてきた。
恐怖されることはあった。畏怖されることも。嫌厭されることも。尊敬されることも、崇拝され信仰されることも。
けれども最初から無防備なまでの愛情をたたえた瞳で微笑まれたことなど無かった。
アネモネは目覚めた時、軍本部に駆けつけて来てくれた家族から事情を聞いた。すでに竜の来襲と伝令が走り回っているのだから、機密事項のほとんどはオープンにされていた。
ゆえに、この場所に来たのだ。
熱で弱った体を両脇から兄たちに支えてもらいながら。
アネモネのために怒ってくれている花ちゃんを止めようと。
アネモネは、それが正しいことであったとしても、正しいことは相手を傷つけやすいものだと、容易く豹変して自分にも襲いくるものだと知っていたから。正義の反対は別の正義だと思っていたから。正しいことは控え目に、相手も自分も傷つけないように、それがアネモネのモットーであった。
そして花ちゃんがジェラルードを伴侶に選んだというならば、アネモネにとって花ちゃんが大事な存在であるようにジェラルードも大事な家族だった。たとえジェラルードが竜であったとしても。
家族に恐れる感情を持たないアネモネは、新しい家族となる予定のジェラルードに純粋な好意のみを示した。3年前からひよこを家族とするアネモネには、寛容性も包容力も度量もあった。
アネモネの優しい眼差しに釘付けとなったジェラルードは胸の高鳴りとともに、
「かかちゃ、弱っているのか? 我が回復してやろうか」
と自分も好意を示そうとした。
二人の兄の腕の中からアネモネが一瞬で消えた。商人の兄が手を伸ばして叫ぶ。
「アネモネ!」
ジェラルードの大きな手に包まれて持ち上げられたアネモネは、びっくりして困惑の色を浮かべていたが、アネモネにくっついている花ちゃんは露骨に警戒していた。
「だってひよこだもん」という生き方をする花ちゃんは、「我は竜!」と唯我独尊の道を進むジェラルードが、人間の常識がないことを理解していた。
ぱかっ。
ジェラルードの口が開き、無慈悲な剣にも槍にも似た牙がむき出しになる。
あーん、とアネモネを入れようとする、暗く奥深い洞穴のような口の中へ花ちゃんが火柱をぶち込んだ。
が、火傷ひとつしていないジェラルードに花ちゃんは腹の底から怒りの塊が沸き上がり、ジェラルードにダメージが与えられないことは承知していても、威風堂々とした顔面にちまこい脚で強烈な蹴りを炸裂させた。
ぴっ!!!
羽毛が怒髪となって、もこここっと膨らみ可愛さマシマシとなったお怒りマックスの花ちゃんに、ジェラルードがきょとんとした顔をする。
「え? 何をするって? かかちゃを回復させようとしただけだ。我の口の中でかかちゃを飴玉のようにコロコロ舐めれば熱など」
と言いかけて、ハッとジェラルードは表情を引き締めた。
「……かかちゃから甘い匂いがする。だめだ、おそらく疑いなく極上にかかちゃは美味しい。口に入れたら舐めるどころか激ウマすぎて呑みこんでしまう、たぶん、絶対に」
数千年生きてきて汗を流したことのないジェラルードであったが、本気で背筋に冷や汗が出た。
「……ちょっとなめたい……」
心の声が漏れ出たジェラルードにバチコーン! と花ちゃんがビンタを往復させる。
「くっ! 我慢だっ!!」
ぺらっぺらの自制心を崖っぷちでフル稼働させているジェラルードの、このいきなりの出来事に、すわっ王宮壊滅の危機と漲っていた緊張に綻びが生じ国王たちは深々と息をついた。少しだけ表情を和らげ口火を切ろうとした国王だったが、ジェラルードが真言を唱えだしたので再び顔色を変えた。
「ジェ、ジェラルード様。その呪文は……?」
「これは煩悩を絶ちきる真言というものだ。別の世界で覚えたものだ」
「こ、広域破壊の詠唱ではなく……?」
「そんなものは必要ない。破壊をしたければブレス一発で王都は消滅する」
ふっ飛ばされて消え去った山を思い出して戦慄が国王たちを貫いた。カチカチと歯が鳴る。
けれども。
ぴっ! 離婚!! と花ちゃんに宣言されて一気にジェラルードの食欲が散った。
「そんなっ! まだ結婚もしていないのに! 我の番、我を捨てないでおくれ!!」
すがりつくジェラルードに花ちゃんのドングリお目目が冷たい。
「そ、そうだ、我の血の風呂に入ればっ! 死病だって治るぞ!」
花ちゃんのご機嫌をとろうと発したジェラルードの言葉に反応したのは、花ちゃんとアネモネではなく周囲だった。
「欠損だって元通り!」
国王たちや兄たちの目がギラッと光る。
「おまけに若返るぞ!」
アネモネの瞳が凄味を帯びて細まる。
「ジェラルード様。ただの風邪ですから私には必要ありません」
にっこり笑っているが、圧が凄い。ジェラルードの魔圧とて色褪せるような笑顔だった。
イエス・マム。
ジェラルードの背筋がピキンと伸びる。猫耳帽子の花ちゃんもぴこっとちびちゃい羽根を立ちあげた。
「うふふ、では皆で帰りましょう」
アネモネはジェラルードが座っている元屋敷、瓦礫の小山をにこにこと無視してジェラルードと花ちゃんをいい子いい子と撫で撫でなでる。
花ちゃんが図太いのはアネモネちゃんの肝が据わっているからなのか、と周囲の人々は納得しつつも竜の血への誘惑に焦げついた。
「アネモネ、そのう、竜様に……」
血をねだってくれないか、と薬師の兄は血への未練から言葉を続けようとしたが、アネモネに笑顔で睨まれて諦めた。
竜の血があれば助かる命はあるだろう。
だが、その血をめぐって救われる命の何十倍何百倍あるいは何千倍何万倍もの人々が争って、おそらく死ぬ。権力者が血を我が物とするために。それを想像できるだけの経験と賢さがアネモネにはあった。
だからアネモネは自分に与えられるというのならば、竜の血はいらないと思った。
手に余るもの手に負えないものは、身の丈にあった責任と幸福と善良さを日常の行為とするアネモネにとって、百害に等しかった。しかも若返り、血糊で足跡をつくるが如く千害である。
「私はジェラルード様に何もねだりません。皆様、ご自分でおねだりなさって下さいませ」
アネモネは周囲の人々の欲望を読みとって、きっぱりと拒絶した。小娘に頼らず自己責任で、と言われてしまえば、山をも吹き飛ばす竜に装飾の勇気で陳じられる者など誰もいない。
「かかちゃは強くて賢いな」
コソッとジェラルードは花ちゃんに話しかけた。当然! と得意げに胸を張った花ちゃんだが、サイズが5センチなのでポッコリお腹の方がふわんと出て、凄く可愛い。
「うん? かかちゃは強くて賢くて愛情深くて優しい、って? うん、我もそう思う。かかちゃはもう我のかかちゃだ」
数千年間、思いのまま望む通りに生きてきたジェラルードは、テン、と花ちゃんのちっこいお尻に頭を敷かれて初めて生き物の温もりを知った。
花ちゃんに撫でられアネモネに撫でられ、生き物の暖かさを知った。
ハモンに導かれ少しだけ我慢をすることも知った。
全てが心地良かった。
心地良くて同時に寂しさも知った。寂しかったのだ。寂しかったのに数千年間寂しさに気づかず生きてきた。自覚してしまえばジェラルードは、ひとりぼっちで生きてきた孤独の時間にもう戻れなかった。
ジェラルードは足元を見た。
屋敷の残骸、瓦礫の丘。しかも大口あーんや血液風呂とか言ってしまって、デリカシーに欠ける竜だとアネモネに思われているのではないか、アネモネは優しいから許されているけれども第一印象は底辺なのでは、と。
「かかちゃ、我のかかちゃ。かかちゃは風邪なのだろう? こんな時、人間はお見舞いというものをするのだろう?」
あせったジェラルードは好感度をアップさせる為に、一度もしたことのない他人に対しての配慮と心配りをして、アネモネに褒めてもらおうと考えた。
「かかちゃの兄の商人はおまえか? 人手と広い場所の用意をしてもらえるか? 我の姿を見て人々はさぞや驚愕したことだろう。かかちゃの見舞いも兼ねて詫びのものを獲ってくるから」
「ジェラルード様、大丈夫ですよ」
アネモネは片手で再びジェラルードを撫で撫でとなでた。
「あーんも血液のお風呂もジェラルード様に悪気はなかったことはわかっていますから。私を心配して言って下さったことだと、ちゃんと私の胸に届いていますから」
残る片手を自分の胸に置いて、優しくふんわりと微笑んだ。
アネモネは、よかれと思った言動が相手を落胆させてしまったことを覚えている。思い出すだけで心が痛い。だからアネモネは微笑むのだ、大丈夫、大丈夫と。辛いことも寂しいことも抱きしめて、大丈夫と。
「かかちゃ……」
ジェラルードは息を吸い込んだ。
否定されずに肯首される喜びに言葉が喉に引っ掛かって上手く出てこない。なんだか嬉しい感情となんだか恥ずかしい心地が溢れて、ドキドキするようなムズムズするような。アネモネは初めての気持ちをジェラルードにたくさん重ねてくれる。
「かかちゃ、我は、我は、かかちゃにお見舞いというものをしてみたい。我は番には何でも叶えてやりたくなるが、不思議だ、かかちゃにも同じ気持ちになる。不思議だ、番への愛とは違う。愛しているも種類が色々あるのだろうか?」
ジェラルードは今まで切実に何かを理解しようとしたこともなく、何かを失ったこともなく、相互に愛したことも愛されたこともなかった。
海峡をたった一匹で渡る蝶のように、美しくて孤独で強くてーーーー自身も他者をも大切にしない竜だった。
しかし、水はつかめないが手と手を合わせると手の中にすくえることを知った子どもみたいに、自分も他者も優しくつつむことができるのだと、初めて誰かのために何かをしようと考えた。
読んで下さりありがとうございました。