6 怒
天候が急変して、小さな花ちゃんの体に水滴が弾けた。
夜の空から生まれたばかりの雨が海へと還るために、雫を煌めかせて乾いた地表へ降りてくる。雨は幾万もの細い銀鎖となって、遠く離れて交わることのない上にある天と下にある地を繋いだ。
空から海へ。
大地を駆け巡り雨滴は水流となり、地下水となり、川となり。続いて続いて雨滴は海へと還り、また空へと昇り、太古から繰り返されるとてつもなく古くてとんでもなく新しい水の循環の雨勢の中を花ちゃんは、強風に押されるように懸命に飛ぶ。
かすかなさざ波の余韻のような何かが、花ちゃんの胸の奥で小さな音を響かせていた。まるで泥濘に落ちた花がゆっくり沈むように。
もっと激しい豪雨の中を飛んだこともあるのに、かなしいような。
もっと酷い雷雨の中を飛んだこともあるのに、こわいような。
何かに胸を締め付けられて、雷鳴が轟きわたっても避難することもなく小さな体が雨に叩きのめされても僅かに羽根を休めることもなく、雨の幕を突き破る速さで前へ前へひたすら進んだ。
何かがーー真夏に降る雪のような不安が花ちゃんの胸を軋ませていた。
世界の横顔に流れ落ちる数万本の銀の髪のような雨に打たれて、ジェラルードは砦の城壁に立っていた。
飛び出して花ちゃんを迎えに行かぬようにジェラルードは片手で隣に立つハモンの服の裾を掴み、片手は花ちゃんに向かってぶんぶんと手をふる。一歩でも砦から出てしまえば、ぺらっぺらの自制心を失ってしまうことは確実だった。花ちゃんを求めてどこまでも王都までも飛んでいく自覚のあるジェラルードは、刷り込み学習のようにハモンの側を離れない。
「我の番! 我の番! おかえり~!」
感情制御とは無縁に生きるジェラルードは、砦に帰ってきた花ちゃんの姿が点となって見えた時から全身で喜んでぴょんぴょん跳ねる。遠くに花ちゃんの気配を感じたとたん部屋から勢いよくハモンを引きずって走り出し、城壁で雨に濡れながらずっと待っていたのだ。
「我の番! 我の番! 我はイイコで待っていたぞ!」
ほめてほめてと形良い頭を差し出すジェラルードを、花ちゃんはちまこい羽根でよちよちと撫でる。
「? 我の番、何か顔色が悪いぞーーうん? かかちゃが心配なのだな、すぐに王都へ戻るのか、わかった、我はお利口にしている」
黄色いひよこの顔色がわかるのか、とハモンは驚いたが、当のジェラルードは寂しそうに口をもにゅもにゅさせて我慢我慢と呟いている。
「ちちちゃ、我の番がちちちゃに文字を書いて欲しいそうだ。我の番は我以外とは会話ができないから、今回かかちゃを心配させてしまった。だから会話カードみたいなものが欲しいのだ、と。無事とかケガはないとか」
「それはいい考えだ。筆記具は部屋にある」
とハモンはすぐさま了承する。城壁からハモンの部屋へと移動する間もジェラルードは、花ちゃんの濡れた体を自分はずぶ濡れのまま丁寧に丁寧に拭いて、
「えぇ? かかちゃからちちちゃへの間接キスをあずかってきたのか!? だめ、だめ。間接キスでも我の番は我以外とのキスはだめ!」
と、ごろごろと飼い主にすり寄る猫ならぬ喉を鳴らす猛獣のような甘えた声でにこやかに笑っているが、宝石のごとき双眸の奥には底知れない狂気があった。
ジェラルードの長く麗しい睫毛が蝶の羽ばたきのように瞬いて、
「外の雨は冷たい。本当は王都へ戻ってほしくないが、わがままは言わない。かわりに何かあれば何時でも我を呼ぶのだぞ。もう番の声を覚えたから、王都くらいの距離ならば魔力を纏った声で呼んでくれれば我は聞くことができる」
と、小石に躓いて転んだ幼子が手のひらについた春の花びらを見て泣こうか笑おうか真剣に悩む表情で、心から案ずる声で告げる。
完璧な造作のジェラルードの美しい顔がくもって、心配だよう、寂しいよう、側にいたいよう、と無言で訴えていた。
体面を飾ることもなく自分の気持ちに正直すぎるジェラルードの、ある意味まっすぐな一途さに花ちゃんも絆されて根性を入れてよちよちとジェラルードを撫でるのであった。
同じ頃、王都では、
「アネモネちゃんの姿がない!?」
と大騒動になっていた。
「王宮から派遣されてきた侍女が、就寝中のアネモネちゃんの護衛もかねて貴賓室に控えようとソッと入ったところ」
「アネモネちゃんがいなかったというのか!? 誘拐か!?」
「いや、貴賓室を使用した形跡すらなかったというから、誘拐なのか、他の部屋に間違って案内されてその部屋にいるのか……」
「貴賓室の前の護衛たちは何と言っているのだ?」
「すでにアネモネちゃんが入室していて、その後、警護として配置されたと思っていたらしく無人の貴賓室をガッチリ守っていた事実に唖然としていた」
「ーーまて。将軍から貴賓室への案内を任されたのは、あの公爵家の関係者ではなかったか?」
「そうだ、ああ、そうだった。確か公爵家の派閥の侯爵家の嫡子だ、穏やかな物腰の側近の男だ。まて、まて。あの男はハモンの異母兄の従兄弟ではなかったか、母親たちが姉妹で、姉妹の父親が公爵家の当主でーーあの黒い噂の公爵家の!」
「まずいっ。何年も前だから忘れていたが、あの男は王国武闘大会でハモンに敗北して逆恨みしていたと聞いたことがっ!」
ザーーーーッッ!!! 騎士たちは顔色をかえた。
「まずいっ! まずいっ! どうして誰も側近の男のことを気づかなかった!?」
「あの男の人柄が温厚だったからすっかり油断していた!」
「ハモンの異母兄は頭の切れるサイコパスだぞ! もし関わっていたらアネモネちゃんは無事ではすまないっ!」
「いいや。アネモネちゃんのお泊まりを聞いて同じ屋根の下、と非番の騎士たちも門番兵や敷地の夜番兵に加わっていたから怪しい者の出入りはできなかったはずだ。何しろ凄い警備人数だったからな。アネモネちゃんは軍本部内にいる可能性が高い」
と冷静に言ったのは〈天使を愛で隊〉の尋常ではない頭脳の持ち主の隊長だった。すでに隊員たちを使って色々と調べていた。
第三王子は〈妖精たんを守り隊〉の隊長だ。
「隊員たちが今すべての部屋をチェックして回っている。それと、あの側近の男を捕縛するために牙を剥いた猟犬のように駆けていった」
〈幼妻ちゃんに踏まれ隊〉の隊長である勇猛で戦に強く常勝無敗で有名な若き将軍も言葉を続ける。
「侯爵家も公爵家も隊員たちが包囲している。きっと陛下も、この機会に腐れ公爵家と派閥の粛清にのり出すだろう」
その時、
「アネモネちゃんが貴族牢にっ!!」
と叫ぶ声が空気中を伝播して夜の海の波のように黒々と響いた。
貴族牢の前では騎士たちの人だかりができていた。
冷たい雨の降る冷たい夜だったのに。
貴族牢内には、粗末なベッドはあっても毛布の一枚すらなかった。燭台にちびた蝋燭すらも。
暗く薄汚れた部屋でアネモネは倒れていた。
華奢な腕は力なくダラリと投げ出され、血の気を失った白い花のような顔には無残にも涙のあとが刻まれている。長い髪は折れた翼のように広がり、ほどけたリボンがむしられた羽毛のように髪に絡まっていた。
「医者だ! 軍医を呼べっ! 宮廷医もだっ!」
「熱が高いっ! 意識もないっ!」
悲鳴のような声が破れて飛び散った。
「なに!? アネモネちゃんが!! それで容態は?」
その報告は老将軍の耳をくぐり抜けて心臓に届いた。最悪の事態に沈着を常とする老将軍も思わず罵りの唸り声をあげた。
「医師は風邪と。ただ心労もあった故か熱が非常に高く安静が必要だと」
「あやつは捕えたのか? 王国の存亡がかかっているという時にっ! ええいっ名前を口にするのも忌々しい!」
「はい。軍本部に留め置くようにと命令されたので貴族牢に入れた、と子どもの言い訳のようなことを」
側近の男は、これほどの大騒動になるとは想像もしていなかったみたいで、暢気に友人たちと屋敷でパーティーをしているところを取り押さえられた。アネモネを貴族牢に入れることで溜飲が下がり気分よく酔っ払っていたのだ。
今までは不味いことを仕出かしても侯爵家の大事な嫡子ゆえに、周囲が尻拭いをしてくれていたのでアネモネのことも軽く考えていたのだ。
自分の浅慮な行動に代償を払うことになる、ということなど側近の男は一度とて思ったこともなかったのである。腸が煮えくりかえるような怒りを、自分がどれほどの高値で買ってしまったのかさえも気づいていなかった。
「地下牢へ入れろ。陛下の許可もある。この機会に公爵家と派閥のアレコレの知っていることを、知っていなくても囀ずってもらおうかの」
老将軍は、側近の男を凪いだ水面に落ちる石にするつもりだった。石のつくる波紋は僅かだが広げて連鎖させ、最後は公爵家の地盤を崩すーー地下牢は別名拷問部屋。柔い男は真実であれ虚言であれ、こちらの望む通りにおしゃべりをしてくれることだろう。
「おい。まだ指は何本か残っているだろう、この譲渡書類に署名をしろ」
「ああ、いい考えだな。侯爵家の財産は国に没収されるだろうから、その前にこいつの個人財産をアネモネちゃんの慰謝料にするのか」
「ついでに家宝のブルーダイヤモンドの隠し場所も教えろ。デザインをかえてアネモネちゃんの慰謝料に加えよう」
涙と鼻水とその他いろんなものを垂れ流す側近の男を、新鮮な血臭がどっぷり濃厚な地下牢で囲みながら三大溺愛派閥の隊長たちは、
「その慰謝料に俺たちからの宝石もまぜようぜ。アネモネちゃんは結婚しているからと言ってプレゼントは受け取ってくれないもんな。見舞いの品はもちろん送るが、でも見舞いに俺たちの色をした宝石なんて無理だもんな」
と密やかに笑った。
そして地上では、戻ってきた花ちゃんが荒れ狂う海のような怒気に羽毛をぶわりと逆立たせていた。
アネモネは貴賓室へ運ばれ、金糸刺繍の施された絹の天幕の天蓋付きベッドに横たわっていた。部屋は細部まで美しくあるように精密に計算され、貴石がはめ込まれた家具の上の黄金の置時計が静かに時間を告げていた。
ぴっ!!
花ちゃんは怒りのままに、目の前の騎士たちをちまこい羽根でシバキ倒してやりたいほどであったが、騎士の多くはアネモネの護衛として日々奮闘してきたことを知っていた。それに極一部ではあるが、「もっと」と目を輝かせて花ちゃんのバチコーンビンタをご褒美として喜ぶ騎士もいる。
だから花ちゃんは、もっとも有効で最大効率の見込める反撃方法をとることにした。
優美なつくりのベッドの横のサイドチェストに置かれたアネモネの鞄をごそごそあさる。鞄のなかには小物や簡易の裁縫道具、それから目的のアネモネお手製の花ちゃんの洋服が数枚入っていた。
くまの着ぐるみタイプやひよこインひよこタイプ、うさぎ耳帽子とうさぎの尻尾付き毛糸のパンツ、色々あるなかで花ちゃんは猫耳付きの毛糸の帽子を選んだ。
花ちゃんの帰還の知らせに老将軍や上級将校たちが貴賓室へとやってきた時、花ちゃんはアネモネの枕元にいた。
大きなドングリお目目で将軍たちをじっと見つめ、ぷるぷる震えている。
猫耳帽子をかぶった5センチのひよこがぷるぷる震えているのである。もはや罪深いほど可愛かった。
花ちゃんは風呂敷をひらくと砦の司令官からの続報を取り出し渡した。そして、ぴぃぴぃと「花ちゃん、お仕事したよ? がんばったよ? なのにどうして?」と言わんばかりに震えながら意識のないアネモネにすがりつき、将軍たちの負い目のど真ん中を容赦なく突きさした。
引け目のある将軍たちは、こちらは自責のあまりわなわなと震えた。
罪悪感にぐぅの音も出ない将軍たちに、花ちゃんは追い打ちをかけるべく激かわの上目遣いでぴぃぴぃと圧を重ねる。
非は全面的に王国軍にあるのだ。
ただ花ちゃんは、意識のないアネモネにすがりついて猫耳帽子で弱々しく震えているだけ。その可愛さで将軍たちの悔恨の念に「安全は保障するって言ったのに」と傷口を抉って塩を塗り塗りしているだけだ。まさに王国軍の落ち度をピンポイントでガンガン狙い打ちしている状態である。
「すまなかった」
謝罪に跪いて頭を下げる将軍たちの前に、花ちゃんはハモンに書いてもらったばかりの文字カードを置いた。
上位貴族、上級将校である自分たちが謝罪すれば許されると思っているようだが、甘い。花ちゃんはひよこなのだ。上位のものが謝れば下位は従う暗黙の了解などという独自ルールは関係ない。人の世で暮らしているので人の法には従うが、花ちゃんには花ちゃんの「だって、ひよこだもん」という独自ルールがあるのだ。
花ちゃんは、アネモネの魔力からポンと5センチ7グラムの姿でうまれた、例えるならば、ひよこ目ひよこ科ひよこ属ひよこの魔法生物なのだから。
それは、
「逃げろ」
と書かれた文字カードだった。
その意味を危機察知能力の高い軍人である将軍たちは瞬時に理解した。花ちゃんは竜の番である。
「まさか……」
「そんな……」
「花ちゃん、やめてくれ……」
もう遅い。花ちゃんはジェラルードを呼んだ。
求婚の時に、「世界をやろう」ではなく「世界を滅ぼしてやろう」と言うような破壊の竜であるジェラルードを。
読んで下さりありがとうございました。