5 混乱
窓から夕暮れの冷たい風を感じてアネモネは振り返った。
西の方角からは透き通る藍色が消えるように薄くなり、夕焼けが始まって鮮やかな朱の色に変わるとともに、あちこちで闇が潜みはじめていた。
辺りに漂うのは、土と草と花と水の水蒸気から生まれる今日の陽の名残りのような熟るる甘酸っぱい匂い。
夕闇のほのかな闇の中でも純白にきりりと咲く白木蓮のような、白い繊手に持つ針をとめて窓を見たアネモネは驚きの声をあげた。
「花ちゃん!?」
縫っていたハモンの服をおいて急いで立ち上がる。
明日帰ってくる予定の花ちゃんがいた。
ちびこい脚には、いつもの大荷物の風呂敷ではなく、第二砦の紋章が描かれた旗にくるまれた小さな荷物だけを持っていた。そして結び目には緊急事態をあらわす赤い印。
アネモネは旗の包みを抱きしめ走り出した。
「馬車をっ! すぐに軍本部へまいりますっ!」
「これは……っ」
第二砦の司令官からの緊急報告を読んで老将軍は言葉を詰まらせた。老獪な軍人らしく衝撃を飼い慣らし姿勢を律して表情はぴくりとも動かさない。
反対にアネモネの顔には血の気がない。
砦で何かあったのか、ハモンは無事なのか、聴きたくて訊きたくて仕方無いが、騎士の妻として身の程を心得ているアネモネは、すべき事とすべきでない事のけじめを弁えている。ゆえに祈るように両手を握りしめ震える呼吸を整えて、身体を硬くして執務室の隅に控えていた。まるでピンでとめられた蝶のように静かに。
そんなアネモネを力づけるように花ちゃんがぴったりとくっついている。
ちびちゃい5センチの体すべてでアネモネの細い首にふわふわの羽毛で密着していた。
今日運んだものは非常時ゆえに一切の私信は許されず、当然ハモンからの手紙はなかった。できることならば事情を説明したいが、花ちゃんはアネモネと会話できない。ピピピと一生懸命に声を綴るがひよこの鳴き声にしかならない。
不安でいっぱいの表情をしながらも、ハモンの恥とならぬように妻として背筋を伸ばして立つアネモネを慰めたくても、人間の言葉を喋れない花ちゃんには、花の群れから落ちた黄色い花粉のようにふわんふわんに吸い付いて労る対応しか方法がなかった。
おろおろひよひよと心配してくれる花ちゃんの気づかいに、アネモネが手を伸ばして花ちゃんを撫でようとした時、
「アネモネちゃん、花ちゃん」
と、いつもの優しい声ではなく威厳のある老将軍の呼びかける声は、アネモネの耳に不吉な予感を宿して響いた。
「アネモネちゃん。まずは上層部で話し合いをするため今は情報を何も教えることはできないが、火急の事態だ。アネモネちゃんには軍本部にしばらく留まってもらう必要がある。男爵家には使いを出すし、日用品もこちらで用意をする。不自由をさせないが欲しいものがあれば遠慮なく言っておくれんかの」
老将軍にそう言われてしまえば、階級的に最下位の騎士爵夫人の地位しかなく、また成人の年齢でもないアネモネはもう何も聞くことはできなかった。
「花ちゃん。疲れているのに悪いが続報が欲しい。砦へ飛んでもらえないかの?」
花ちゃんは竜の番として全ての鍵となるが、アネモネが掌中にある限り軍から離れないことを老将軍は把握していた。
老将軍は軍人であり貴族である。
アネモネを可愛がってはいたが、優先すべきは国家の安泰であった。一人の命より多くの命を、時には多くの命よりも一人の命をーー命には貴賤がある。卑怯、悪辣、大いに結構。アネモネを利用し、泥水を啜ってでも王国を守るためには容赦なく自分の命すら使う覚悟が老将軍にはあった。
ぴっ! 花ちゃんが凄む。だが、ひよこ界における丸いダイナマイトボディで凄味を利かしても可愛いだけで、
「わしでは信頼に足らぬやもしれないが、アネモネちゃんの身の安全は保障しよう。どうか信用してくれぬかの?」
と真剣に老将軍に頼まれ、悩むようにぶわっと羽毛を膨らませてさらに真ん丸くなったので威嚇の武器にもならない可愛さが2倍になってしまった。
アネモネの身の安全。老将軍の言葉に嘘はない、重要度の高いアネモネは得がたい利用価値があるのだから。
それは花ちゃんも理解している。王国軍は全力でアネモネを守護するだろう。けれどもハモンの身を案じて顔色が青白くなっているアネモネに情報を渡さず囲い込もうとしていることが、花ちゃんには不服だった。
はがゆいが、ジェラルードがあっさり悩殺されたひよこの手練手管は老将軍には通用しない。
アネモネを安心させるための手段で残るのは、ハモンからの手紙だ。
ゆえに花ちゃんはアネモネから離れることには不安であったが、しぶしぶ砦へ向かうことにした。ほんのちょこっとだけジェラルードのことも脳裏にあったし。
「これを」
花ちゃんは老将軍から砦の司令官への文箱を包んだ風呂敷を、ちまこい脚に持ってパタパタ飛び立つ。
アネモネは溢れそうな涙をこらえて花ちゃんを見送るが、堪えきれず小さく小さく声を吐息に隠してもらした。
「ハモン様……」
花ちゃんは小首を傾げると、くるっとアネモネのもとに戻ってきた。
そして咲き初めの薔薇のようなアネモネの唇に、んちゅ、とちびこい嘴を啄むように重ねる。
一瞬驚いたように瞳を見開いたアネモネだが、夜にとじる花のように瞼をおろした。
ちゅ。
花びらが触れるようにもう一度繰り返すと、花ちゃんは再び高く遠く飛び去っていった。
人質に等しいアネモネの待遇は気に入らない。が、イザとなればジェラルードにひよこのうっふん作戦でおねだりすれば一発解決、と花ちゃんはミニサイズのお腹の底で思い、ハモンに間接キスを届けるべくスピードをあげた。
そんな物騒なことを花ちゃんが考えているなど露知らず、王宮では国王と重臣たちがただならぬ緊迫感に包まれて決断を強いられていた。
「竜とは真なのか!?」
「第二砦の司令官は王弟殿下ですぞ。虚偽などありえません!」
「王都は、王国はどうなるのだ!」
「竜を相手に騎士たちは戦えるのか!?」
「だめだ! 戦うのではなく王国の存続のためには会談をまず開くべきだ!」
空転する論争に大混乱の会議室であったが、豪奢な衣装を纏った温和そうな容姿の国王は重臣たちに鋭い視線を向けた。
「神話の竜は火炎を吐いて幾つもの国を焼いたという。人間も動物も植物も、魔物も。誰も何も竜には勝てない、と古い書物に記されている」
「第二砦の司令官である弟からも戦闘は無意味であり、力の差は天と地である、と報告がきている今、必要なものは竜との戦争ではない。幸いハモン・フィールドが竜の教育係となり王国の未来への道筋がつながった」
王国武術大会2連覇のハモンは国王の大のお気に入りだ。
「続報が明日には届く予定でもある。我が王国は必ずや竜との友好を結べると期待しようぞ」
「ハモン・フィールドの妻は軍本部の貴賓室におります」
老将軍が如才なく応じる。
「上々。大切にもてなせ。警備は万全か?」
「ぬかりなく。蟻の一匹も通しません」
それはアネモネの軟禁を意味した。国王は満足げに頷く。国王もアネモネの重要性は承知していた。
「竜の番の生みの親だ。竜に人間の世の基準がどこまで通じるかは分からぬが我らの交渉の手札は少ない。その者を大切にしていることを見せて働きかけ、敵対の意志がないことを伝えようぞ」
同時刻、ジェラルードは砦でぴぇんと泣いていた。
「ちちちゃ~、苺が、苺が、また潰れてしまった」
魔力を小指の先ほども流していないのに、パァン! パァン! と破裂してしまうのだ。
「これで2157粒目だ。ちちちゃ、次の苺を」
ちょうだい、と手を差し出すジェラルードにハモンが首をふる。
「もう砦に苺はありません。今日の夕食のデザートだったのですが終了しました」
ががーん、悲劇のヒロインのようにジェラルードが胸を押さえて崩れ落ちる。
「そんな……」
よよよ、とひよこハンカチで目元を拭くジェラルードはプリティなひよこエプロンを身につけていた。パァン! と苺を潰しまくるのでハモンがジェラルードの優雅な衣装が汚れてしまうとプレゼントしたのだ。しかし、古の神のような衣装の上にピヨピヨのひよこエプロン、ジェラルードの天上の美貌、この組み合わせはギャップがありすぎて視界の暴力であった。
「我の番~、我の番~、我は我の番と末永くラブラブしたいのに上手く魔力を流すことができない~」
「ジェラルード殿、まだ始めたばかりです。1日で魔力の制御など無理というものです」
「そうですぞ。ジェラルード様、苺ならば1万個でも10万個でもご用意いたしますから」
ハモンに続き司令官も、べそべそ泣くジェラルードをなだめすかす。
「10万個、いいのか?」
「もちろんですとも!」
軽く請け負った司令官だが、口は災いの元の見本のように苺集めに奔走することになり、同情した部下たちが、
「花ちゃんの体重って、スプーンの小さじ? 中さじ? 大さじ?」
「さくらんぼ1個ぐらい?」
「キャベツ1枚でどうだ?」
「ブロッコリーは?」
と色々集めに集めたが全てをパァン!と破壊してしまい、ジェラルードが膝を抱いて座り込みメソメソ泣くことになるのであった。
アネモネは石と鉄格子の寒々しい部屋で泣いていた。
ハモンが心配で、部屋に入りひとりになったとたん涙が溢れたのだ。
老将軍は、四季をテーマにした彫刻レリーフや金塗りの花飾りの美しい壁装飾の洗練された最上級の貴賓室へと指示をしていたのだが、部下の側近がアネモネを貴族牢へ入れたのである。
以前から、この部下は老将軍に可愛がられるアネモネを癪に障る存在として目障りに忌々しく思っていた。騎士爵夫人の分際で、と。正確にはハモンのことを憎悪していたのだ。
高位貴族に生まれ武術の才能に恵まれ、将来の武術大会の優勝者まちがいなしと幼少からチヤホヤされてきたのに、ハモンと初戦であたり、つまり早々に負けてしまって上位入賞すらできなかったのだ。それを逆恨みして、表面上は好青年を演じながらハモンを憎んでいたのである。
心身にたまった不満をアネモネを貴族牢へ入れて、アネモネが嘆く様を見て憂さを晴らして発散し、アネモネを嘲笑うことでハモンも見下せると愚かな行動をしたのだった。
けれども残念ながら、鬱屈をぶつけられたアネモネは自分が貴族牢に入れられたことに怯えていなかった。怯えを感じられるほどの心の余裕が、ひたすらハモンが心配でならなかったのだ。
何ひとつ情報を与えられることもなく。
ハモンが無事なのかすら教えてもらえることもなく。
家族と引き離され、花ちゃんも側にいない。
かつん、アネモネの小さな靴に踏まれて石床が鳴いた。暗い部屋だ。花冷えの夜なのに、貴族牢なので質素な家具はあっても燭台に火さえない。天井の明かりとり用の窓からの月の光が微弱な陰影をつくる、暗闇が天蓋となっているような部屋だった。
人の声も物の音も遠い。静寂が微かに耳の奥へ沁みるような部屋で、ひとりぼっちになったアネモネの瞳に涙が滲んだ。
ハモンの妻として他人の目を気にして耐えてきたけれど、本当はずっと泣きたかった。
絨毯のない剥き出しの石床は足元から冷気が這い上がってきて、冷たい水を浴びたように寒い。
ハモン様、
ハモン様、
ハモン様、
ハモンの名前をすがるように呼び続け声にならぬ泣き声を心であげていたアネモネは、今度こそ誰もいない冷たく暗い部屋で声を出して泣くのだった。
読んで下さりありがとうございました。