4 我が名はジェラルード
苔玉のような雪玉のような黄色いふわふわの毛玉が、超絶美形を手玉に取っている様を眺めるハモンの眉間の皺は深い。
「我が番よ、行かないでおくれ」
必死ですがる麗しい男の頬には、花ちゃんが蹴り入れたちみこい足形がくっきり残っている。5センチのひよこの足形である。凄くちっちゃくて凄くかわいい。が、周囲は声なき魂の叫びを可視化したように蒼白な彫像となっていた。
原因は花ちゃん郵便である。
砦としては一刻も早く竜の出現を王都に報告したい。
竜は花ちゃんから離れない。
花ちゃん郵便の休止の案も考えた司令官であったが、竜の存在を砦だけで対処できない。是非とも花ちゃんに飛んでほしい司令官は、花ちゃんにお伺いを男に頭を下げながらした結果、我もついて行く、と男が言ったものだから花ちゃんの蹴りが炸裂したのだ。
ぴっ! 子猫ならば毛が逆立っているようなお怒りモードで男の頭の上から、実家に帰りますとばかりにハモンの頭の上へ移動する花ちゃんに男がすがりつく。花ちゃんはハモンの頭上にいるので、ハモンの身体を抱きこんでガクガク揺する男に、ハモンは地獄の使者も真っ青な低い低い重低音の声を発した。
「さきほどの、竜体を見た人間はパニックになって混乱するとのご自分の言葉をお忘れですか? 王都へは竜の姿で行くことはできません」
ハモンも花ちゃんと同じく沸き上がる怒りに、すぅ、と目を薄らと細め異様なほど穏やかに言葉を綴る。
「人の姿もしかり。魔素耐性があり日々訓練を重ねている頑強な騎士でさえ貴方の魔力に膝をつきそうになるというのに、普通の人間に耐えられるとでも? ましてや弱い子どもや女性では」
アネモネを傷つけるつもりか? ハモンと花ちゃんが火花を散らすようにシンクロして、男を睨む。
「我の番~、ちちちゃ~」
キューンキューンと水に濡れた大型犬の風情で男がハモンと花ちゃんを交互に見る。
「我は、我は、何千年もひとりだったのだ。ようやっと会えた番と一秒でも離れたくはないのだ」
男の透明なのに底の見えない地底湖のような双眸の奥には、幾千年もの光も闇も吸い取り凝結したみたいな滓と濁りのドロリとした翳りがあった。
「離れたくないのだ。もう一人にはなりたくない。我は、我の番に我の名前を呼んでほしいのだ。ずっとずっと我の名前を呼んでくれるものはいなかった……」
空気を凍らす冷たい男の声にハモンの肌が粟立つ。
海と陸の全てをあたためるべく昇った朝日の中で、その眩しさを腐食するように男の影が太陽の光とともに長く伸びる。噎せるような花の王の如き美貌に息がつまりそうだ。
「番と離れるぐらいならば、我は世界を滅ぼす」
「竜は破壊と同義なのだ」
断言する男に、ハモンと花ちゃんは視線を飛ばしあいアイコンタクトで頷く。
ピッ、ガッテンとばかりに花ちゃんがひよひよ飛んで、男の鼻先を自分のふんわり腹毛に埋めるようにフワァとくっついた。
猫吸いならぬひよこ吸い状態となった男の鼻息が、スーふースーふーとくすぐったくて、ジタバタというよりはチタパタと花ちゃんはちまこい羽根を動かしたが、逃げることなく超ミニサイズのぽっこりお腹をさらに押しつける。
花ちゃんのお日さまの匂いのする羽毛を嗅ぐと幸福感を味わえる、とアネモネのイチオシなのだが、男にも効果は多大にあったようだ。
そっと花ちゃんが鼻先の密着から離れると、不満げではあるものの花ちゃんを見る男の目は優しい。
「我の番は楽園の香りがする」
うっとりと深呼吸をして、玲瓏な声で甘く媚びねだる。
「もう一度」
けれども花ちゃんは、じらすように距離をとると男の手のひらに降り立ち、ちびちゃい脚で軽やかに手をふみふみと踏んだ。その柔らかく小さな感触は男を悶絶させる可愛さで、必殺技さながらにスリリとふわふわの羽毛ですり寄れば、愛らしさの一撃を心臓に打ちこまれた男の目はトロトロにとけてしまった。
そして、ひよことして生まれたからにはひよこの魅力を120パーセント使うべし、と丸いドングリお目目でドキュンと悩殺する上目遣いをする。ピピピと甘い声を紡ぐ花ちゃんに首ったけの男は長い睫毛をしおしおと伏せて、
「……わかった、待つ。待ったら、明日もスーハーとフミフミとスリスリでラブラブしてくれるのだな?」
と真剣に訴えた。
ピピピ。
花ちゃんと会話のできる男は、別れがたい心情を涙をためて呑みこむ。もはや花ちゃんに宥めすかされ、ひっかけられ、メロメロゾッコンの骨抜きの地上のクラゲにされている。
「わかった。ちちちゃの教育もうける。受けたら、その小さな羽根でいい子いい子のナデナデもしてくれるのだな?」
ピッ?
「我の名前か?」
男は花ちゃんに数億の雨滴を降らすように焦がれる視線を注いだ。
「我が名はジェラルードだ」
ピッ、ジェラルード。
ジェラルードの美しい微笑に、無意識のうちに胃のあたりをおさえていた周囲の騎士たちはホッと息をはいた。
自分を甘美な餌としてジェラルードを手玉に取る花ちゃんにハモンの眉間の皺が深くなるが、「ちちちゃの教育もうける」というジェラルードの言葉に眉間は大峡谷となった。
しかも王都へ飛び去った花ちゃんの姿を目に焼きつけていたジェラルードは、花ちゃんが点となって空に消え去ったとたんに、
「我の番~」
と駄々をこねる幼児なみにゴロゴロ床を転がり始めた。美しい髪に城壁の歩廊の土ほこりが絡みつく。ほこりまみれになってゴロゴロ転げ回る神々しい美形に、おもむろにハモンはポケットから等身大の花ちゃんのひよこぬいぐるみを取り出した。
ピタリ、ジェラルードの動きが止まった。
方位角も高低角も正しく定められたジェラルードの視線がぬいぐるみをとらえる。
「立って下さい。私もジェラルード様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
髪に葉っぱをつけたまま立ち上がったジェラルードに1個目のぬいぐるみを渡すと、ハモンは2個目のぬいぐるみをポケットから出した。ついでに、ぬいぐるみに夢中になっているジェラルードのほこりを軽く払う。
「ちちちゃならばジェラルードと呼んでも良いぞ」
にこぉ、と満面の笑顔でぬいぐるみを撫でながら、ハモンが手に持つ2個目のぬいぐるみに照準をあわせるジェラルード。
「では、ジェラルード殿と。それで、教育とは? 花ちゃんとどのようなことを話したのですか?」
ジェラルードは花ちゃんと会話可能でも、ハモンはなんとなく花ちゃんと意志の疎通ができるだけである。
「我ら竜は破壊と同義と言っただろう? 我らは番を探し続けるが、ようやっと発見した番とラブラブになれるものは少ないのだ。たいていは出会った日に番を殺してしまい、そのショックで竜が狂って世界を壊してしまうのだ」
「殺す? 竜は番を大切にするのではないのですか、ジェラルード殿のように」
「大切にする故に番を自身と同じく長寿にしようと魔力をそそいで、番が耐えきれずに死ぬパターンが多いが、番に触れようとして潰してしまうパターンもあるし、番に拒絶されて考えなしに食べてしまうパターンもある。死因は色々あるが、初日にほぼ殺してしまい竜が狂って世界を破壊するーーーーこれが王道パターンだ」
何て嫌な王道パターンだ。騎士たちは竜の求婚のえげつなさに心の中で号泣した。求婚に失敗したからといって世界をまきこんで狂死するなんて大迷惑! 大声で叫びたいがジェラルードが恐ろしい。
同時に、花ちゃんありがとう! と歓喜に震えた。よくぞ竜をひよこうっふんでオトシてくれた、と。ひよこの色仕掛け万歳である。
「我の番は賢く可愛くあざとい。我を上手にあやして丸め込んで尻に敷く。我はこれからも番の小さく可愛い尻に敷かれてラブラブを謳歌するために、番の言う通りに我慢や忍耐を覚えるのだーーだから、ちちちゃ。我に努力というものを教えてくれ」
ハモンの背中に司令官と騎士たちの視線が、ナイフの鋭さでドスドス突き刺さる。
竜は生まれた時から頂点に立つ最強の生物である。忍耐も努力も竜にとっては、路傍の草よりも取るに足らない瑣末なゴミ以下の無縁の言葉だ。おそらくジェラルードが、番と出会った初日に我慢というものをしたはじめての竜だろう。幼児のようにゴロゴロしたとしても。
王国の平和のためにも世界の平穏のためにも、破壊一択の人生をおくるジェラルードに忍耐力を獲得してもらう必要があるが、その方法に悩むハモンに司令官が横から口をはさむ。
「ジェラルード様。異世界がたくさんあるというのならば、いっそ別の異世界でのびのびと花ちゃんと暮らしてみるというのはいかがでしょうか?」
無難な着地点として司令官は提案するが、
「我はそれでもいいが、我がいなくなればこの世界は破滅するぞ」
「えっ!?」
「最近この世界では天災が増加しているのではないか? 原因はわからないが、魔素が気持ち悪く乱れている。このままでは後100年、か?」
「た、確かにここ10年ほど災害が多発して困っていますが、まさか!?」
「信じなくていいぞ。どんなものにも滅びの時はある、それが早いか遅いか。ただ我がいれば竜脈が張りめぐらされ魔素が安定する、というだけだ」
言外に、狂って世界を破壊するならば別の世界にしてくれと匂わせた司令官をバッサリとジェラルードは切り捨てる。
司令官は眩暈をおぼえた。騎士たちも足元がひび割れ暗闇が剥き出しになったような恐怖に皮膚が鳥肌立つ。誰もが猜疑の色を顔に浮かべるが、信じたくない信じるの相反する気持ちに精神的負荷が重くのしかかり、心臓が耳のすぐ横に移ったかのように激しく脈打った。
陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせ司令官が苦しげに声を絞り出す。
「まさか、本当に?」
「信じなくていい。我には関係ないことだ。番とちちちゃとかかちゃと住みやすい世界へ行けばいいだけだ」
ジェラルードは乾いた声音をくぐもらせた。数千年も生きるジェラルードにとって滅びる世界は珍しいものではなく、何かが終わりまた何かが始まる、それだけの意味しかなかった。
番が悲しむかもしれない、心配はその一点である。
ハモンはジェラルードの表情を間違うことなく読みとった。
王宮の端正な顔をした飾りものの刃の近衛騎士ではなく、ハモンは血と脂を吸った刃の砦の騎士である。清いだけの水に魚が住めないことも知る清濁を見極める目も持つ。そして花ちゃんがアネモネのためならば可愛くあざとくなるように、アネモネのためならばドン底まで狡猾になれた。
薄く開いた唇からチロリと舌を蠢かせ、多種多様な事態の打開策をほんの数秒でハモンは組み立てた。
「ジェラルード殿。貴方は天井知らずな魔力量のままに魔法を使用するが、過去の竜の方々が番を長寿になさろうとして失敗してしまったのは、その膨大な魔力量任せに魔法の制御も練度もなく番の方に使ったことが問題ではないのですか?」
「魔力の制御か? コントロールなど考えたこともないからな、竜は。そうか、そうかもな。魔力の圧力で相手を押し潰してしまっていたのか?」
ハモンは、最上の切り札である花ちゃんを惜しみ無く出すことにした。人の理の外にいる竜が唯一いつくしむのは番のみである。ジェラルードを動かせるのは花ちゃんだけだ。
「花ちゃんは魔法生物ゆえに人間より頑丈ですが、貴方の圧倒的な魔力に耐えることはできないと思います。ですから末永くラブラブするために魔力の訓練というかたちで、努力や忍耐を学ぶというのはいかがでしょうか?」
「おお、ちちちゃ名案だ」
「頑張ればご褒美もありますよ」
ジェラルードの手に2個目のひよこぬいぐるみを置く。
「おおっ」
「私の部屋には大小さまざまな大きさのぬいぐるみがあります」
「おおっ! ちちちゃ、我は訓練をうけるぞ」
次にハモンは腰ベルトにつけられた小さな鞄から、花ちゃんのおやつ用のいちごを取り出しジェラルードに見せた。
「花ちゃんの体重は約いちご一粒です。まず、力加減を体にたたきこむことから始めましょう」
「我の番はいちご一粒か。ふふ、軽くて重いな。人間の赤子と同じだ、命の重さだからな。我ら竜にとって番は、人間の赤子がはじめての愛の始まりである親を愛するように、それ以上に、一瞬の愛であり永遠の愛であるのだ」
右手と左手でひよこぬいぐるみを一個ずつ持って、両頬から摩擦で煙が出るのではないか思うほど高速スリスリをして愛を語るジェラルードに、教育することが山積みだと控えめに息をついて思考するハモンであった。
だがハモンはこの時はまだ知らなかった。
唯我独尊の道を進む竜に努力は夢の迷路の果ての言語と同等であり、つまり言葉は知っていてもナニソレなジェラルードに、底無し沼の如く根気と粘り強さがハモンにどれほど要求されるのかを。
読んで下さりありがとうございました。