3 竜騎士への道
月も星も天空さえも従えるような威容を誇る竜が目の前に現れた時、騎士たちは膝から崩れて座り込みたい心境になった。
堂々とした巨体は100メートルを越え、尾の先まであわせると体長はさらに長く羽根を広ければ途方もなく大きい。
バサリ、と羽根を空中で動かせば騎士たちの頬を殴打するように風が起こった。
生きている人間が誰も見たことのない、伝説のみで語られてきた神にも等しい竜の降臨である。
まるで天が落ちてきたみたいな暴圧に、床に縫い止められたように足は動かず見えない鎖で縛られているように身体は動かなかった。
絶望感に鷲掴みされる騎士たちの中で、人並み外れた魔力を持つ司令官やハモンや一部の騎士のみだけが硬直をかろうじてしていなかった。
ハモンは、このとんでもないものを連れてきた花ちゃんを睨み付けるが、騎士たちの心胆を凍らせ喉を干上がらせている騒動の責任をとる気のまったくない花ちゃんは「花ちゃん、何も知らないもん。何もわからないもん。だってひよこだもん」という顔をして、ちまっと小首を傾げ、竜の頭の上でちんまりめちゃくちゃ可愛く座っている。
いたいけなひよことして押し通す気まんまんの花ちゃんに、花ちゃんが世渡り上手でしたたかな曲者だと知っているハモンは生ぬるい眼差しを向けた。
その時、ゾゾッと世界が呼吸したかのように空気が揺れた。やわらかく煮込んだ肉を切るように、夜気が嵐にも似た勢いで魔素とともに渦巻く。
ハモンの背筋を蛇のような冷たくぬめった悪寒が這い上がっていく。周りの騎士たちも磨滅したような嗄れた声で呻いて、鼻腔に流れ込んでくる濃厚な魔素に窒息せんばかりにあえいだ。
竜の姿が消え、空中に男が浮かんでいた。
身の毛が逆立つような凄絶な美貌。古の神のような優雅な1枚布の衣装をまとい、両肩を宝石で留め、たるみをもたせた腰には金糸銀糸が蔦の紋様をつくる帯を締めていた。頭上には花ちゃんが、てん、と小餅のようにぽっちゃり真ん丸く座っている。
大気は人化した竜から放出された魔力で熱さを増し、刃音のような音を響かせる熱風となり耳鳴りを起こさせた。痛む耳を押さえる騎士たちの前に男が降り立ち、ハモンに近づく。
男が一歩踏み出すと人が波のように割れ、ハモンまでの道がひらかれた。
ハモンは威儀を正して騎士の礼を取った。敬意と畏怖に額に汗が滲む。他の騎士たちも足から力が抜けそうな自分を叱咤して次々と立礼をする。
伝説で、神話で語られる存在である竜にーー騎士として命は惜しまないが、はっきりと敵対していないうちに剣を向けるなど地獄の光景を自らつくるに等しい。ましてや、この場での交渉の失敗は容易く王国の滅亡への序章に繋がる。
何より、男の頭の上には花ちゃんがいる。
天上天下アネモネファーストで、アネモネがナンバーワンでオンリーワンの花ちゃんの、猛獣使いの如くぽっこりお腹でコロリンとふんぞり返っている黄色い5センチの可愛いひよこ姿は、騎士たちに希望を与えた。少なくとも今は衝突の段階ではない。花ちゃんがアネモネを害するものに友好的態度をとることはないのだから。
男はハモンに視線を向けると口を開いた。
「結論から言おう、無理だ」
いきなり最終ジャッジ!? 無理って何が!? 騎士たちは脳内で大恐慌状態に陥ったが立礼の姿勢を崩さなかった。
しかも花ちゃんが、ぴっ、説明不足と男の頭をちまこい羽根でぺちぺち叩いたものだから、血管の中で血が固まるような錯覚に襲われ全身が強張ってしまった。悲鳴のような息を呑む騎士たちは、血の気を失い白い彫像のようだ。
「我の番は羽根も小さくて可愛い。ふむ、では説明してやろう。この場所にくるまでに大体の事情は我の番からきいた。我の番はちちちゃを竜騎士にしたいそうだが、我には乗れん」
ちちちゃ!? 竜騎士!? 我には乗れん!? えっ? あのデカイ竜に乗る気だったの!? 爆弾ワードの数々に騎士たちが顔を引きつらせ怒涛の展開に脂汗をだらだら流した。
そして花ちゃんがまた男をぺちぺち。
ヤメテ花ちゃん!! 竜のご機嫌を損ねると王国が滅びる!! 騎士たちの無音の叫びが破裂するが、竜にも竜の番となった花ちゃんにも物申す勇気のある者などいない。
「むっ? もっと詳しくか。我に乗れん理由は、まず我の姿を見るだけでパニックがおこりケガ人が続出して悪くすれば死者もでる。次に人間は壊れやすい。我の番のように魔法生物であれば大丈夫だが、脆弱な肉体の人間は我の強い魔力に長時間耐えられない。他にも幾つかあるが、結論として純粋な竜と人間とは良き隣人にはなれぬ。しかし我の番の望みは竜騎士だ。そこで竜の魔法生物をつくるのはどうだ?」
解答を与えるように男が告げる。
「魔法生物の竜の利点は多いぞ。人間につくられたものだから魔力の親和性は高い上に、思考や行動が人間に近く嫌悪感も少ない。純血の竜ではない故に見た目が竜とやや異なることもあるし能力も劣るだろうが、我の番がかかちゃを最優先で大切にするように、終生寄り添うことも可能だ」
よし、決定。とばかりにうんうん頷いている美しい男に、ハモンはため息をつきたくなったが呑みこんだ。ハモンは一言もしゃべっていない。竜騎士など竜が伝説であるように空想上のお話だ。
ハモンを竜騎士にすると言う男の原因となる花ちゃんを苦々しく睨んだが、やっぱり花ちゃんは「花ちゃん、何も知らないもん。何もわからないもん。だってひよこだもん」という顔をして可愛く知らんぷりをしている。
花ちゃんの行動は全部アネモネのためであることを知っているハモンは、すぅ、とため息を舌先に乗せてもう一度喉に流しこんだ。
「あの、少しいいですか?」
ハモンが疲れた声を出して男にたずねる。
「何だ? ちちちゃ」
「そのちちちゃというのは?」
男がハモンを指差す。自分より明らかに年上の男にちちちゃと呼ばれ、ハモンの眉間がよる。だが、男に対し笑顔を貼り付けている司令官にギロリと鋭い視線をおくられ、あわてて寄ってしまった皺を指でつまんで解した。
同時に、「ににちゃま」とハモンを呼んだ3歳のアネモネの記憶が戻ってくる。
まろやかな頬をハモンの頬にすりすり擦り寄せて「ににちゃま、すち(すき)」と言ってくれた幼いアネモネ。
誰かにキスは頬と頬を合わせること、と教えられ嘘を信じて「ににちゃまとちう(ちゅう)」と赤い花のように笑っていた小さなアネモネ。
「では、かかちゃはアネモネ?」
ハモンの言葉を肯定する男の背後で朝日が昇り一層男を神々しくしたが、その周囲には朝日を浴びた吸血鬼のように白く灰になったような、息を潜めて成り行きを伺う濃すぎる夜の徹夜勤務となってしまった騎士たちが直立不動で燃えつきている。
「最後に確認なのですが、花ちゃんは貴方の番なのですか?」
「我の番だ。番を探して数千年で会えることのできた我は幸運だ。番を探して数万年数十万年も異世界から異世界へ渡り続ける竜も多いのだから」
瞳孔を全開にさせ瞬きをしない双眸で極上の微笑を浮かべる男に、執着という狂気をハモンは見た。
だから、そうかとハモンは思った。
竜にとって花ちゃんは光なのだ、と。ハモンにとってアネモネがそうであるように。
ハモンの母が死んだのは、ハモンが13歳の時だった。
異母兄に殺されたのだ。
その日、ハモンは母と乗馬を楽しんでいた。
貴婦人らしく優美な騎乗姿勢を取る母と愛馬を並べて走らせていた時、風を裂いて、よけようもない速さで矢が母の馬に命中したのだ。母は馬から振り落とされて、とっさに母を助けようと飛びついたハモンは瀕死の重傷を負った。
矢を射たのは異母兄であった。
ハモンたちを驚かそうと悪戯をしたところ当たってしまった、と口に笑いを刻んで悪びれた色もなく言った。
「事故だよ」と。
異母兄の言葉通り、いや結末はもっと酷かった。
なかったことにされたのである。
母の死は病死で、ハモンは自分の不注意によるケガだ、と。
全ては伯爵家の家名を守るために。醜聞は必要ない、と。くわえて異母兄の母の生家である公爵家の力が働いた。
そのことを知った時ハモンは慟哭のあまり、生きる屍のようになった。
母の悲鳴が耳から離れない。なのに病死? 自分は単なる事故? 母と自分から流れた夥しい血も、痛みも?
ハモンとて貴族の家に生まれた者だ。
家を守るためにした父伯爵の苦渋の決断を理解できるほど聡明でもあった、それでも。
生きながらえる為に自らの足を喰らう蛸のように、醜聞を血族の血で喰らって家を存続させる酸鼻さを受け入れるには、ハモンは若すぎた。
嘆きと恨みと怒りと、悲しみと苦しみと、絶望と。
狂ったように絶叫した後、ハモンは世界を排除するように、あるいは自分から世界を遮断するように、涙を止め悲鳴を止め無色のようにただ呼吸をする存在となった。
音は聞こえても言葉は聞こえない。
物は見えて色彩はなく灰色だった。
そんなハモンを父伯爵はもてあまし、ハモンは母の弟である男爵に療養の名のもとに預けられたのであった。
この時アネモネは3歳。
ハモンにくっつきまくり、ハモンの携帯用ちびっこ湯たんぽとなった。
ハモンが歩けば手を繋ぎ、ハモンが座れば足の間にハモンが寝れば腕の中におさまって、片時も離れなかった。
ハモンがアネモネに何の反応を返さなくても、ただただハモンの側にいた。側にいて、小さな小さな体温でアネモネはハモンをひたすら温めてくれた。
何故アネモネがそれほどハモンを慕ったのか、理由はわからない。アネモネは3歳だったし、言葉も自分の気持ちを詳しく説明できるほど上手ではなかった。
確かなことは、アネモネがハモンを救ったということだ。
アネモネの小さな温かさが、冷たく凍ったハモンの心に沁みこんで、錆び落ちて止まっていた血を流し破滅という安楽な沼に浸かっていた身体を引き上げ温めたのだ。
親は子を愛するとよく言われるが、しかしハモンはーー繋いだ手が離れそうになった時ぎゅっと握ってくれたのも、震える身体に寄り添ってくれたのも、眠る冷たい手足に体温を分けてくれたのもアネモネだからーー幼ければ幼いほど無条件に一途に子どもの方が親を愛してくれるのだと知った。赤子が純粋に親だけを慕うみたいに。ハモンは親ではないけれどもアネモネから、日だまりに咲く花の蜜を集めたような愛情をもらった。
ハモンはもともとの力強さと俊英さを兼ね備えた少年の姿に、ゆっくりゆっくり幼いアネモネによって孵化するように温められて戻っていった。凍蝶が太陽によって温度を持つ石で暖をとるように、雪解けの雪と雪の間に咲く花のように。
ハモンは。
闇を聞いて、光を見た。
ハモンの光はアネモネであった。
ハモンにとってアネモネは幼すぎて恋愛対象ではなかったが、世界の誰よりも大切で幸福になってほしい従妹だった。
ハモンが魔物討伐で2ヶ月も王都を留守にしなければ、素行の悪い侯爵子息との婚約も結ばれることはなかった。何よりも大事なアネモネが幸せになれない婚約など、ハモンがどんな手を使っても阻止したであろうから。
だからハモンは、アネモネの婚約破棄と貴族の令嬢としての辛い立場を聞いた時、即決で自分の全財産の相続人をアネモネとする旨の遺言書を記したし、自分の名前で役立つならばと婚姻も決めた。
故に、竜の総毛立つような狂気に、そうかとハモンは思ったのだ。
竜も闇を聞いて光を見たのか、と。
竜の光は花ちゃんなのだ、と。
花ちゃんが願うから、竜はおとぎ話の竜騎士を具現させるつもりなのだ。
ならばハモンも、無茶振りであろうと竜騎士になってやろうと決心した。
くちん、とくしゃみして鼻水を滴のように垂らしている花ちゃんを、番の世話をできるのが嬉しくてたまらないという風情の男がいそいそと拭くのを見て、とてつもなく困難であろうが空を飛んで必ずアネモネのもとへ帰ってみせる、と決意するハモンであった。
読んで下さりありがとうございました。