2 月の兎は見ていた
王国は豊かな国である。
街道も用水路も整備され、王都の整えられた優雅な並木から零れる木漏れ日も、刈り込まれた植栽の石畳に映る葉影も、緻密に設計されたみたいに景色の一部となり美しく、この世の繁栄を奏でていた。
春の、花の瞬きから生まれたかのような芳香を含む風がアネモネの頬にふんわりと甘く当たる。
歩く宣伝塔にと、兄が商店の品でアネモネの身を着飾らせているので、甘い香りを纏ったアネモネは咲き初めの清楚な花のようだった。
兄の商店からの帰り道でアネモネは花ちゃんに促されて、
「騎士様、もしよかったら使って下さいませ」
と、鞄からひよこハンカチを12枚、ピッ、ピッ、と花ちゃんが12回鳴いたので取り出した。
軍から月代わりで派遣されている騎士は3人。アネモネは断ったのだが、ハモンの名声にも限度があると老将軍から花ちゃん郵便の重要性を懇懇と諭され受け入れたのだ。
アネモネは気付いていないが、他に9人の護衛が密かに付けられていた。主力はこの9人で、アネモネの視界の隅にも入らぬように鮮やかな連携プレーで不審者を排除しているのだった。
花ちゃんの指示だからと12枚のハンカチを渡すアネモネは知らないことだが、護衛の地位は熾烈な争いの末に毎月選出されていることを花ちゃんは知っていた。
虎視眈々と護衛の座を狙って三大溺愛派閥が暗躍していることも承知している、賢く可愛い曲者の花ちゃんはアネモネの安全のためならば利用できるものは利用するし手段は選ばない。
ベースはアネモネなのに、ハモンの力を吸って成長した花ちゃんは考え方も高い能力もハモンにそっくりなのだ。
心付けも賄賂もハンカチ一枚ならば目くじらも立たない。だが、そのハンカチは今や持っている者に一種のステータスをもたらす、可愛さの元祖アネモネの刺繍入りである。
頬を上気させて感謝とともに受け取った騎士たちであったが、後日、そのうち11人は「はい、出して?」と妻や母や姉妹ににっこりカツアゲされてしまった。残る1人は、「花ちゃん、カッコイイ!」と目をキラキラさせる弟に謹んで進呈し、来月も俺は護衛になる!と誓うのだった。
兄の商店から屋敷に帰ったアネモネは、砦へと飛び立つ花ちゃんを見送り、忙しく働き始めた。
選りすぐった茶葉とハモンの好きな甘味の少ない菓子を用意して、ハモンの瞳と同じ青いドレスを準備する。
東の空を何度も仰ぎ見ては吐息して、夕方の朧にかすみつつある昼と夜との境界がとけて闇色に染まるのをアネモネは待っていた。
今夜は満月だった。
待ちに待った月が昇り、天の簪のような星が煌めき、澄みわたった太古の星月夜の如き明るさであった。
風に吹かれて蝶のように舞い落ちる花の、空知らぬ雪のような花びらが、バルコニーに立つアネモネに向かって雪花の如くひらひらと降る。
雪のような花びらと、
咲き匂う花と、
照り映える月と、
春の妖精のようなアネモネ。
長い髪は繊細なレースのリボンをからめて編み上げて後頭部で結び、ハモンから贈られた白い百合の髪飾りで飾り、後ろにふわりとした花穂のようにリボンで流していた。唇に引いた紅が初々しく、薔薇の蕾のように可憐だった。ドレスはハモンの色で、フレアたっぷりの裾と袖口には刺繍の小花が花咲く青色である。
テーブルの上には茶器が二人分。
今夜は遠く離れたハモンとの、デートの日なのである。
満月の夜には、それぞれが遠い場所にいても同じ月同じ夜を見上げることを約束していた。
アネモネは庭の木々の表面を滑る流れのような月光を見た。枝も葉も満ちた月の光を浴びて銀色に光っている。
あの木は、おてんばだったアネモネが登ったものの降りれなくなって、母を呼ぶ子熊のようにしがみついていた時に、ハモンが笑いながら迎えに来てくれた木だった。
あの花は、姉とケンカして子猫のようにミーミー泣いていた時に、アネモネを慰めてくれるために花冠を編んでくれた花だった。
目を閉じれば思い出でいっぱいなのに、目を開ければハモンはいない。
「……さみしい……」
思わず漏れた言の葉に、あわててアネモネは口を押さえる。一目会いたいと思う。けれども、砦や国境の城を任地とする騎士の家族は皆耐えているのだから、ときゅっと口元を引き結んだ。
溢れかけた涙をこぼさないように顔を上げ、泣き虫な自分を隠すために、
「ハモン様、月が綺麗ですね」
と、ぎこちなくアネモネは笑った。だってハモンからの手紙には『アネモネ、今日も笑っているかい?』と、いつも書かれていたから。だから、世界のすべてを埋め尽くすような幸せをくれたハモンが望むならば、アネモネはいつだって一途に笑うのだった。
星散らしの夜空をハモンも見上げていた。
「月が綺麗だね、アネモネ」
頑丈な造りの砦の高く長い城壁は厚く、頂面には歩くに困らない幅の通路があった。
その夜は見張りの夜番の日であったハモンは、城壁の歩廊に立って満月を見ていた。
夜空は美しく、天空の海に雲の波が立ち、神話を持つ星星が泡沫のように消えては輝き満ちた月を彩っていた。
「アネモネも今、この満月を私と同じく見てくれているのだろうねーーひとりで月を見させてしまって、どうか許しておくれ」
アネモネ、と溜め息のような声を落としハモンは顔を上げた。青い瞳に満月が映る。その月に陰影の模様のように黒い、黒い何かがあった。
瞬時にハモンは警鐘の鐘に飛び付いた。
ゴォン! ゴォン! ゴォン!
打ち鳴らされた鐘の音が、夜闇に眠る城内に金属の重さを帯びて響く。まず夜番の仲間たちが駆けつけた。
「月だっ!!」
ハモンの警告の声に
「お、大きい!? かなりの距離があるのに月にくっきり影がっ!」
「何だ!? 巨体の怪鳥かっ!?」
「いや、強大な魔力さえあれば魔獣でも空を駆けるものがいるっ!」
月を見上げ騎士たちが床を踏みしめ武器をかまえる。痺れるような緊迫感。冷たく熱い汗が背中を濡らした。夜気を千切るように次々と騎士が城壁を駆け登ってきて帯剣を抜き放つ。
「こちらに来るぞっっ!!!」
花ちゃんは満月の夜空をぴよぴよ飛んでいた。
王都から辺境の砦へ。
辺境の砦から王都へ。
ちびちゃい5センチのひよこが、1メートルの風呂敷に詰め込んだ大荷物をちびこい脚に持って飛ぶ姿は王国の名物になっていて、昼間ゆっくりパタパタ飛んでいる時などは「がんばれー!」と子どもたちが声援をおくってくれたりするのだが、さすがに夜は静かであった。
四方の静寂が饒舌に風の音だけを唸らせる中、そっと花ちゃんは何かに包まれた。
ドッカーンと相手をぶち抜ける最高速度の花ちゃんを、魔力を使って傷ひとつ付けることなく包んだものは、大きな竜の手であった。気配などなかった。しかし天災のような圧を持つ竜が夜空を覆うように、そこにいた。
「我の番」
幾重にも闇が堆積したような暗黒の色をした巨大な竜が、手の中のちびちゃいひよこを覗きこむ。
ぴっ? 番?
花ちゃんは賢い。突然に降りかかる厄災にも似た竜と自分との、天と地ほどの力量差では世界が転覆しても勝てないことも魔法生物の本能で理解していたが、5センチ7グラムで生まれ5センチ9グラムになった3年間で花ちゃんは学習もしていた。ドッカーン、バチコーンで勝てない相手には、勝率100パーセントの可愛さを武器に全面戦争をすれば相手がメロメロになることを。
だから、つまり、視界の暴力的天下無敵の可愛さでぶるぶる震えたのである。
ちっちゃい羽根をぷるぷるさせて、たんぽぽの綿毛のようなふわあぁぁんな5センチの体を震えさせ、つぶらな丸い無垢に澄んだ瞳で巨大な竜を上目遣いでじっと見た。花ちゃんをいじめるの?と言いたげに、雨にうたれた小鳥のように雪にぬれた小鳥のように、弱々しくか細くふるふる震えた。
ぴぃ、と楽器の弦が歌うような細く甘くとろける鳴き声も忘れない。
グオオ! 竜は魂に直撃をうけたように吼えた。
「我の番! 怯えているのか!? 我は番には優しいぞ。番が望むならば世界とて滅ぼしてやるぞ。どんな願いとて叶えようぞ。ああ、可愛いすぎて心臓が痛い。ああ、怯えないでおくれ」
ぴぃ、ぴぃ、と胸をズキューンと撃つような蜜を絡めたような愛らしい鳴き声で追い撃ちかけながら、花ちゃんは考えた。
花ちゃんにとって最優先はアネモネであり、アネモネの幸福である。
だが、花ちゃん郵便の価値が高まり過ぎたためにハモンは王都へ帰れない。例え武術大会で優勝できたとしても帰還はアヤシイと花ちゃんは推測している。
しかしハモン自身に、花ちゃんに勝る移動手段があるならば?
目の前の竜に内心ニンマリとしながら、花ちゃんは全身でいたいけな可愛さを訴えてスリリと竜の手にすり寄った。ふわぁ、と綿の実が弾けたような柔らかなふかふか感が竜の手に伝わる。ふんわりとした羽毛が密着して浸透する小さな命の温かさに、竜は頭のてっぺんから尾の先までバリバリバリと電光のように愛しい恋しい気持ちに貫かれた。
「酷い! 可愛いくて可愛いくて可愛さ限界突破で酷すぎる! 愛している! 結婚しておくれ!!」
鼻血を吹かんばかりに身悶えする竜の咆哮はカミナリのように響き、気配に敏感なねぐらで息を潜める獣や鳥に恐怖を与えたのだった。
勝者、花ちゃん。全てを見ていた月が笑ったような気がするが、とりあえず花ちゃんは竜の頭をちまこいお尻で敷いてハモンのいる砦を目指すことにした。
その結果、砦は怒号がとびかう戦場のごとき大混乱となるのだが、何はさておき、底知れぬ圧倒的強者である竜に絶対的に溺愛される可愛い超危険物となった花ちゃんは、今夜結婚したのだった。
読んで下さりありがとうございました。