19 相愛
ガクン。
急停止した馬車に、座席に座っていたアネモネの身体が浮いた。
馬車内には、アネモネとハモンと花ちゃんがいたが、ほとんど同時にハモンと花ちゃんは咄嗟に反応してアネモネを支えた。
花ちゃんは、可愛いに可愛いを重ねた多層仕立てに粉砂糖ではなく賢さやあざとさをまぶしたミルフィーユのような可愛いひよこである。
小さくて、まるで無重力のようにフワリと軽い9グラムだが、力はとても強い。
ちまこい羽根を広げて倒れかけたアネモネをガッツリーーのはずだったが、ハモンの方がわずかに早くその手にアネモネを抱きこんでしまった。
目的を失ってコロンと転げかけた花ちゃんを、アネモネが両手で受ける。
「かかちゃ、大丈夫か? 矢が飛んできたんだ」
馭者席のジェラルードが声を上げる。
「こちらは平気です。ジェラルード様こそお怪我はないですか?」
アネモネの問いかけにジェラルードはニヤリと笑う。
「人間の矢も剣も、武器は我には通用しない」
矢はジェラルードに当たったが跳ね落ちてしまった。馬車を停止させたのは、打ち合わせの襲撃ポイントに到着したからだ。ジェラルードの馭者としての技術が悪く急停止になってしまったが。
この場所は小さな広場になっていて王都で唯一、魔素濃度が不定期に変化する場所であるため高位魔法が使用できない。結界等が使えない故に奇襲に好都合と、襲撃ポイントとなっていた。
ドッ、と空気が鳴った。
形相が険しく身なりの悪い大勢の男たちが大声を張り上げ馬車に襲いかかって来たのだ。
一般人はいない。通行人は全員が騎士の変装だった。
たちまち激しい剣戟の響きが荒々しく火花を散らす。
公爵派閥の残党に金で雇われた破落戸と日々訓練を重ねる騎士では実力が違う。しかし、破落戸の人数が騎士の10倍はいるため、闘いはどちらかが有利な形勢とは言えないものとなっていた。
「行ってくる」
優しくハモンがアネモネを抱きしめる。
ぎゅっ、とアネモネがハモンにすがりつく。
「ご、ご武運を……!」
アネモネは、行かないで、とは言わない。そばにいて、とも。
ハモンの妻として騎士の妻として、ひたすら無事であることを祈りつつ夫を送り出す。音のように戻らない、この瞬間を。右手でハモンの胸を左手で自分の胸を庇い、強くあることを祈った。
胸に紅い花が咲かぬように。
死神が心臓を掴まぬように。
「いってらっしゃいませ、ハモン様」
不安と恐怖を飲み込んであとで一人で泣こうとも、ハモンを安心させるため精一杯に笑う。
まるで澄んだ池にポツンとひとつ咲く白い睡蓮のように、儚く清く。
「ちちちゃ、代わろう」
扉を開けてジェラルードがハモンと交替する。ハモンはアネモネのまろやかな頬を指先でスリリと撫でて、愛用の剣を持ち馬車から出て行った。アネモネの視線を背中に受けながら。
ジェラルードは馬車の座席にすわり、膝の上にアネモネを乗せ両手で抱き囲む。
竜であるジェラルードには、人間の武器も魔法も何の役にも立たない。結界がなくてもジェラルードの腕の中にいるかぎり、アネモネを傷つけることは誰にもできないのだ。
剣が弧を描く。
ギィン、と刃と刃がぶつかり合い刃鳴りが宙を切り裂く。
怒号と悲鳴。凄まじい喧騒が小さな広場を満たしていた。
魔法が水のように振り撒かれ、剣や槍や矢がうなりを生じさせていた。
広場では敵味方が入り乱れてひしめき合って、男たちの体温を吸った空気は熱気となり渦を巻き、体が炙られるようだ。強烈な血のにおいが鼻につく。
馬車の外から伝播する、響くというよりは轟くような声に音に熱に匂いにアネモネの身体が凍るみたいに強ばる。
アネモネは怯えを隠せず顔色を青ざめさせながらも、ハモンの帰りを信じて気持ちを奮いたたせて懸命に感情を抑えていた。
「かかちゃ、ちちちゃは強い。傷ひとつなく必ず帰ってくる」
ぴぴ。
寄り添うジェラルードと花ちゃんがアネモネを慰めてくれる。
ジェラルードがゆっくりとアネモネの髪を撫でた。ダイヤモンドと真珠でつくられた白薔薇のティアラがキラキラと揺れる。
「ーーかかちゃ、我は竜だ。我は我の番が愛しい。番が美しくても美しくなくても、賢くても賢くなくても、健康でも、目が見えなくても腕がなくても歩けなくても、我は愛しい。生きていて、そして笑ってくれたならば心から嬉しい」
「たぶん、ちちちゃも」
「ちちちゃもかかちゃを心から愛している。だから心配することはない。ちちちゃはかかちゃを悲しませることは絶対にしない」
ジェラルードが優しく肌を濡らす雨のように言葉を綴る。
「かかちゃは欲が少ないだろう? だから“ありがとう”とよく言うのだろうな。たとえば“愛している”ならば相手からも愛が欲しくなる。“ごめんなさい”ならば相手からの許しが欲しくなる。“ありがとう”ならば自分の感謝の気持ちだから相手に求めるものは少ない」
「でもな、かかちゃ」
「相手がいるからこそ成り立つ欲もいいものだぞ? 我は我の番の姿を見るだけで幸福になれる。毎日、おはようと言いたい。おやすみと言いたい。我は数千年間ひとりだった。おかえりと言ってもらえる、おかえりと言える、それは幸福なのだと教えてくれたのは我の番とーーかかちゃだ」
「だから、かかちゃ。もうひとりでこっそり泣かずにちちちゃが帰って来たらちちちゃの胸で嬉しい時だけではなく、辛い時も悲しい時も怒った時も泣けばいい。かかちゃはまだ14歳なのだ、自制心ばかり成長させずにもっと甘えるべきだ」
ぴぴ。
うんうんと花ちゃんも頷く。ちまっとした毛玉の花ちゃんなので、それがウルトラ可愛い。
「……でも、でも、私は騎士の妻で……」
「それ! かかちゃは11歳で結婚して結婚生活はゼロ。他の騎士の家庭とは事情が異なる。騎士の妻として頑張るかかちゃは素晴らしいけど、頑張りすぎだと我は思うぞ」
と、自分自身にどこまでも甘いジェラルードは美しい顔をしかめて肩をすくめた。
「自分に甘い人生も楽しいぞ」
凄く説得力のある言葉だった。
その時、馬車の扉が開かれた。
いつの間にか剣戟の音は消えていて、ほんの少し髪を乱したハモンが立っていた。
ジェラルードと花ちゃんが、行け行けとアネモネの背をおす。
真面目なアネモネは、甘える甘える、甘えるって? とぐるぐる考えた末に、
「だっこ!」
と3歳児にレベルダウンした。
ハッ、と我に返ったアネモネは顔を真っ赤に染めたが、ハモンは嬉しげにアネモネを抱き上げた。純白のウェディングドレスの裾が人魚の尾のようにひらりと優美に翻る。
「ああ、アネモネだ。温かいね、アネモネは生きているね、ああ、今度は守れた……」
襲撃者の中にはハモンの異母兄もいた。
斬りかかって来た異母兄をハモンは一撃で倒して捕縛した。
もう13歳だった無力なハモンは、そこにいなかった。異母兄など足元にも寄せつけない、王国有数の強者となったハモンが、そこにいた。
「……母上……」
守れなかった母親。
守ることのできなかった13歳の自分。
過去は変えられないが、過去は乗り越えることができる。
今度こそハモンは異母兄から、愛しい人を守ることができたのだ。
最愛のアネモネをハモンはその手の中から失わなかった。
アネモネはハモンの胸に手を当てて、指先で心臓の鼓動を聞いた。
「ハモン様、お怪我は……?」
「ぴんぴんしているよ、心配をかけてしまったね」
「ご無事でよかった……」
安堵のあまりアネモネは勇気を出して、ハモンの首に腕をまわした。ハモンのぬくもり。ハモンの香り。
「ハモン様、おかえりなさいませ」
「ただいま、アネモネ」
周囲には多くの騎士たちがいたが、見つめあうハモンとアネモネから背中を向けてソッと見て見ぬふりをしてくれた。
ぴっ。
花ちゃんもジェラルードにちびちゃい体を寄せる。ふわふわの羽毛でジェラルードにスリスリすると、ジェラルードはたちまち蕩けて、
「我の番。我を番にしてくれてから、我は、我は、幸せだ。我の番はいつでもどこでも我に幸せをくれる。毎日がるんるんどきどきうきうきだ」
と麗しい顔に喜色を浮かべて宝石のような眼を細めた。
ぴー。
花ちゃんも。
初めて花ちゃんから告白をもらったジェラルードは呼吸を止めた。
ぴー。
花ちゃんも。
再度の告白に、ジェラルードは溺れかけた者のように息を吹きかえして何度も大きな呼吸を繰り返した。
「我の番! 結婚しよう! ちょうどちちちゃとかかちゃの結婚式だ、いっしょに結婚式をあげよう!」
舞い上がるような興奮と高揚感を全身で表して、ジェラルードはちびちゃいひよこを両手の手のひらで掬うみたいに大事に持ち上げた。
「せ、接吻してもよいか?」
んちゅ。
花ちゃんがジェラルードの唇に小鳥のキスをする。
再びジェラルードの呼吸が止まった。
そして身震いすると美の極みのような顔を馬車の天井へ向けた。
ゴオオォォォォォォォォォッッッッツ!!!
光の帯のような巨大なブレスが天空へと高く高く吐き出される。
「ひええぇぇ!!」
「なっ、何事が!?」
「ジェラルード様、いかがなされたのですか!?」
蒼白な騎士たちが駆けつけて来た時には、第三王子ご自慢の金と銀の豪奢な白い馬車の天井は綺麗さっぱりなくなっていたのだった。
読んで下さりありがとうございました。




