この味だ
背中を追う祭りばやしの音を、ヒロキは裏口の扉で遠ざける。扉のすりガラスから出る提灯の赤い光が厨房の唯一の光だった。
喧騒の世界から静寂の世界。
ぼんやりと、先程口にした言葉を漏らす。
「伝統か......」
100年とは言えずとも、このレストラン、ミシェルもそれなりの歴史があった。
使い込んだ鉄のフライパンは、何度も食材を炒めて踊らせてきた。持つところはすれていた。
包丁は何度も研がれ、同じ包丁なのに、購入したばかりの包丁よりも刃は細く、魚の身を潰さずにスッと切れる。
フロアに出れば、綺麗にしてあっても小さな傷があった。ファイルに入れたお客様のアンケート用紙を手に取れば、「美味しかった」「あの時、指を痛めた私にスプーンを用意してくれてくれて嬉しかった」などのコメントが書かれていた。業後に疲れた身体に染みた、たくさんの客の言葉。
古く変色し始めているアンケートを、1枚ずつ目を通すとイラストが書いてあるのもある。ひらがながいっぱいだ。
「あの小さな女の子のかな......」
クスリと笑う。
思い出が、現実でない見えない日常を生み出す。目を閉じれば父さんがいた。
幼かった自分。頰を赤くして。
スープを飲みほし、突き出した皿。
最後だぞ?っと言いながら、笑いながらお代わりを注いだ父さん。
祭りで繋いだ手。ゴツゴツして暖かく。
小太鼓の音。花火。わらじを鳴らして歩いた。
何もかも。
色鮮やかに.....。
気付けば、用紙にポタリと雫が垂れた。
大事な用紙だ。慌てて手で拭いたが、止まらなかった。また......また......。
震える手で目を覆う。それでも指の隙間から溢れてくる。抑えれない。溜まっていた何かが、一気に溢れる。
「覚えているよ......父さん......」
遠くの囃子が終りを迎えようとしていた。大きな大衆の声。花火がヒュルリと打ち上がり、弾けた後は星を散らして消えていく。
骨壷を見ても流さなかった涙。葬儀から何ヶ月経ってるのか。だが、理解した。理解していた。父さんの死を受け入れたくないと言いながら、本当はとっくに知っていた。亡くなったことを。いないことを。
「父さん.......俺は......」
バンッ!!
大きな花火が厨房を照らす。クシャクシャな顔をして外を見れば、見事な花火の菊が夜空で輝いていた。反射的に見た先にある棚。
そこにあったのは......。
何かが、ヒロキを動かした。呼ばれた気がした。棚にあるのは調味料。蓋を開ければ、トロリとした物が入っていた。人差し指で少量を取ると味を見る。
塩麹だ。町内にある店が長年作っていた伝統の塩麹の味だった。それを少しスープに入れると、塩より柔かな味が加わり、ささやかな鶏肉をトロトロに柔らかくしていく。
一口。
そして味を確かめると、ヒロキは震えながらコトリと小皿をテーブルにゆっくりと置くと、天を仰ぐ。
「父さん.......俺は」
最後の一筋が頰を伝った後、開いた瞳に宿るのは決意だった。
「俺が、この店を継ぎます」




