中立国ドイツの戦艦ビスマルク
東京湾にアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」が入って来た。
それを迎えるのは日本帝国海軍戦艦「大和」であった。
二隻の戦艦は戦うためにいるのではない。
数年にわたった戦争の終結を宣言する文書に署名するための使節団を運んで来たのであった。
「大和」に乗っているのは日本帝国内閣総理大臣鈴木貫太郎であり、「ミズーリ」に乗っているのはアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンであった。
二隻の戦艦が近づく様子は土俵の上の大相撲の巨漢力士かリングの上のヘビー級ボクサーのようであった。
二隻の間には行司かレフリーのように一隻の戦艦があった。
それはドイツ・ワイマール共和国戦艦「ビスマルク」であった。
「ビスマルク」に乗っているのはドイツ・ワイマール共和国首相アドルフ・ヒトラーである。
中立国の首相として日米講話の仲介をヒトラーはしたのであった。
「ビスマルク」の甲板で三者による日米講和条約の調印式が行われた。
はい、これが1945年9月2日に行われた日米講和条約の映像です。
毎年9月2日の終戦記念日にはテレビで、この映像が流されるので歴史に興味が無い人も見たことがあるでしょう。
ミリタリーに興味がある人にとっては、日米独の戦艦「大和」「ミズーリ」「ビスマルク」が一堂に会した最初で最後の歴史的イベントなので、垂涎の映像でしょう。
我が日本が誇る世界最大の戦艦「大和」、米国の最強の高速戦艦「ミズーリ」についてはさまざまに語られてきました。
ですが、ドイツの戦艦「ビスマルク」については我が国ではあまり語られることはありません。
基準排水量が4万1700トン、主砲が38センチ砲8門と、6万4000トン、46センチ砲9門の「大和」とくらべると貧弱に見えるからでしょう。
今回は戦艦「ビスマルク」について語ることで第二次世界大戦においてのドイツ・ワイマール共和国について語ることにします。
戦艦「ビスマルク」は1940年に竣工したドイツが建造した最後の戦艦です。
二番艦も建造される予定でしたが中止になりました。
何故ならソ連邦による脅威が深刻になったので、ドイツは海軍よりも、陸軍・空軍を優先しなければならなかったからです。
1939年にポーランドの東半分で「ソ連邦の帰属を表明するポーランド人民による武装蜂起」が起き、ソ連邦はポーランドの東半分半分を「ポーランド社会主義共和国」として事実上併合してしまったからです。
本来のポーランドは西半分を維持しましたが、ソ連邦の侵攻の意志は明らかでした。
ドイツにとってはポーランド全土がソ連邦に占領されてしまえば、次は自分が侵略されるので、ポーランドに資金や物資を援助しました。
さて、よく日本では誤解されるのですが、当時のドイツはヒトラーが党首である国家社会主義ドイツ労働者党による一党独裁国家ではありませんでした。
大統領であるヒンデンブルクが死去した時、ヒトラーが首相と大統領を兼任して「総統」という新たな地位につくという提案が党内からありましたが、ヒトラーはそれを却下しました。
ヒトラーはルドルフ・ヘスを大統領にして、首相に実質的な権限を集中しましたが、ワイマール憲法には違反しておらず。「民主主義の精神を守っている」とイギリスやアメリカの一部知識人から賞賛されています。
ドイツの国会議事堂が共産党員によって放火され焼失した時、「ナチス党以外の政党の非合法化」を党内から提案されましたが、それも却下して、ドイツ議会は野党が参加して健全に運営されました。
ナチス党は野党時代には「反ユダヤ主義」でしたが、それは政権獲得のためのテクニックで、与党になってからは、経済や科学の分野でのユダヤ人の知識人の登用を積極的に行っています。
ヒトラーはイギリスやフランスの合意のもとで1935年に再軍備宣言を行い、ベルサイユ条約で禁止されていた戦艦・戦車・軍用機の建造・保有が認められましたが、ヒトラー個人としては再軍備に反対だったと言われています。
当時のドイツ経済は順調で、軍備に予算を費やしたくはなかったのです。
しかし、ヨシフ・スターリン書記長を最高指導者とするソ連邦の侵略の意図は明らかでした。
1941年6月に始まったソ連邦の西ヨーロッパへの侵攻作戦には、ドイツ・イギリス・フランス・イタリアが中心となりヨーロッパ諸国が同盟を組んで対抗しました。
「人類史上最大の地上戦」が繰り広げられた「第二次欧州大戦」の始まりでした。
さて、主題である戦艦「ビスマルク」についでです。
ソ連邦との戦争においてはほとんど海軍は必要とされず。
沿岸部への艦砲射撃などもベテランのイギリス戦艦部隊で充分で、竣工したばかりで乗組員の錬度が低い「ビスマルク」はなかなか実戦に投入されませんでした。
ドイツ海軍自身が「ビスマルク」が唯一の戦艦で、後継艦の建造予定がなく、失われると大型艦が巡洋戦艦や装甲艦になってしまうため、実戦投入を忌避したところもあります。
たまに軍港から出て訓練するだけで、ほとんど軍港内で碇泊している「ビスマルク」を「ビスマルク・ホテル」とドイツ水兵たちが揶揄し始めたころイギリスより意外な提案がなされました。
「ビスマルク」をイギリスの極東・アジアの植民地であるシンガポールへの派遣を要請したのです。
それには次のような理由がありました。
当時、太平洋における日本帝国とアメリカ合衆国の関係は戦争寸前まで悪化していました。
イギリスはアメリカとは同盟関係にありませんでしたが、対ソ連戦のために資金・物資・兵器の援助をアメリカから受けていました。
イギリスは対ソ連戦に専念したいので、日本とアメリカの戦いに巻き込まれることは避けたいと思っていました。
イギリス海軍は余裕があったので、大規模な艦隊を「抑止力」としてアジアに派遣することはできましたが、それをすることで日本を自暴自棄にしてしまい。アジアのイギリス植民地やオランダ・フランスの植民地も、日本軍の侵攻を受ける可能性が高まるとイギリス政府は考えていたのです。
そこで考えられたのが「ビスマルク」のアジアへの派遣でした。
イギリスの植民地であるマレー半島のシンガポールへ派遣されることになったのでした。
ドイツはイギリスとは同盟関係にありますが、ドイツと日本には利害関係は無く、日本がシンガポールに碇泊する「ビスマルク」を攻撃するとイギリスとの戦争になってしまうので、日本はそれを避けると考えたのでした。
「抑止力」として「ビスマルク」は期待されたのでした。
イギリスの外交努力もあり、「史上最大の海戦」である「太平洋戦争」が開戦してもヨーロッパ諸国は中立を維持して、アジアにおけるヨーロッパの植民地は平穏でした。
「第二次欧州大戦」と「太平洋戦争」は別個の戦争となったのです。
戦争中、「ビスマルク」はほとんどシンガポールに碇泊していました。
水兵からは「ビスマルク・ホテル・シンガポール支店」と揶揄されていました。
その「ビスマルク」に最初で最後の晴れ舞台が訪れたのは戦後のことでした。
1945年5月、ソ連邦の最高指導者スターリンがモスクワのクレムリンの地下壕で自殺して、第二次欧州大戦は終結しました。
太平洋戦争はまだ続いていましたが、日本の敗色は濃厚でした。
日本は中立国であるヨーロッパ諸国にアメリカとの条件付き講和の仲介を頼んだのでした。
ヨーロッパ諸国はアメリカが日本本土を占領して戦争が終わると、極東・アジアにおけるアメリカの影響力が強くなりすぎるので、パワーバランスを維持するために仲介を引き受けました。
アメリカのワシントンには、イギリス首相チャーチルが飛び、日本の東京にはドイツ首相ヒトラーが飛び、二人は協力して日米講和を成立させたのでした。
講和条件は、日本は開戦以後の占領地をすべて放棄し、憲法の改正による民主化、軍備の一部制限を受け入れる実質的な敗戦でした。
しかし、沖縄・台湾などは日本の領土として維持しました。
東京湾にシンガポールから「ビスマルク」は回航されて、日米講和条約の調印式の会場になったのは、最初に見た映像の通りです。
ヒトラーは、この調印式を政治家としての最後の花道として、後継首相として軍需大臣だったシュペーアを推薦すると引退しました。
ヒトラーは妻であるエヴァ夫人とのドイツの山荘での隠退生活に入り、絵画を描いたり、「第二次欧州大戦における我が闘争」という題名の著作を執筆したりしております。
さて、ヒトラーの後継として首相となったシュペーアは軍需大臣として優秀でしたが、首相としても辣腕を振るいました。
後に「ドイツ戦後復興の奇跡」「ヨーロッパ経済成長の奇跡」と呼ばれ、現在の「欧州経済共同連合」へと続く偉大な成果でした。
さて、シュペーアが戦後の「ビスマルク」に対して下した判断は冷徹でした。
「廃艦による解体・スクラップ」でした。
ドイツ海軍の一部には反対意見もありましたが、ドイツ近隣での戦艦保有国イギリス・フランス・イタリアとは戦後も友好関係にあり、それらの国でも戦艦は削減されているので、ドイツが戦艦を保有している意味は無いとシュペーアは考えたのでした。
「ドイツの戦後復興のためには、4万トンの戦艦よりも4万トンの鋼材が必要である」と、シュペーアは公式に発言しております。
「ビスマルク」は生まれ故郷であるドイツに帰国後、ただちに解体されています。
1940年竣工、1945年解体。わずか5年の生涯でした。
戦後も我が日本は戦艦「大和」を保有し続けて、それに対抗するためにアメリカも「ミズーリ」を含むアイオワ級戦艦を保有し続けました。
1990年代に、どちらも退役して記念艦になっております。
現物が残っている「大和」「ミズーリ」に対して、一度も実戦経験が無く、現物が残っていない「ビスマルク」の人気は我が国だけではなく、ドイツでも低いのですが、歴史における重要な役割をした戦艦として 「ビスマルク」を皆様の記憶にとどめて欲しいと願います。
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