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西国の聖女  作者: あすかK
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8、淡い期待と夢物語

 生ぬるく湿った風の吹く、海の際の大豪邸。砂浜を見下ろすその豪邸の中に、何十人という人間が住まい、行き来をしている。男、女、男、女。二種類の人間の行き交う中で、生物としての人間の営みというものを幼いながらに悟った。

 ネイディーンの最も古い記憶は、ぬるく吹き渡る海風の潮の香りから始まる。それは彼女が巫女見習いとして聖女に選定されるよりもさらに昔のことだ。

 少女の生まれは、西国エウリアの中でも南寄りの貧しい村であった。海の幸で生計をたてる漁村の中に生まれた少女はしかし、望まれぬ子供であった。

 南国との国境に近いこの漁村には、たびたび南国の商人が訪れ、収穫物を高く購入していった。貧しい漁村としては、最大の顧客であり、南国の商人の言葉は決して無碍にはできない。そのような事情があったため、酒に酔った南国の商人にどのような不埒な行いをされようが、漁村の女たちは受け入れざるを得なかった。その行為が行き過ぎた男女の交わりとなった時、この世に命として授かってしまったのが、ネイディーンである。

 決して裕福ではないこの村には、望まれぬ子供を養っていけるだけの余力がなかった。幼くして両親に手放された 少女は、奴隷としてその地域では最も裕福とされる豪族の屋敷へと売り飛ばされたのだ。

 奴隷として売り飛ばされた少女は、しかしそのような自分の不遇に文句ひとつ零すことなくよく働いた。幼女とは思えないほどの器量良しで、どのような仕事でも卒なくこなした。後になって思い返してみれば、それは生まれ持った少女の能力、すなわち「巫力」と呼ばれる特殊能力によるものであったのかもしれないが、とにかく、少女は同じ年頃の娘とは比べものにならないほどの器量よしであった。

 まだたった一桁の年の頃であったが、大人と見紛うほどに整った顔の造形をしていたため、少女はある時からその屋敷の主に見初められる。見初められるといっても、娘のように可愛がられるわけではなく、屋敷 の主の男としての欲望の捌け口に選ばれただけのことで、少女の待遇が良くなるわけでもない。おまけに、その事実が主の妻へと露見し、妻の嫉妬によって少女は残酷な仕打ちを受ける羽目になった。幼き可哀想な少女ネイディーンは、屋敷の主に身体をもてあそばれ、屋敷の奥方にひどい罰を食らい、まるで襤褸雑巾のように扱われた。――そしてその時期である。西国エウリアの首都ケトロから、「巫女の使い」と名乗る使者が現れ、ネイディーンを連れ去った。ネイディーンはぼろぼろになった身体のまま、聖女の園、後宮へと移り住み、巫女を目指す聖女となった。


 それはもう、今より十何年も昔のことである――。


 広い桶の中に張った水面に、ぽたりと水滴が一粒落ちる。波紋の広がっていく水面の上に、己の顔が映し出されていた。

 幼い頃から美しいと称される顔形ではあるが、それが功を奏したことなど一度もない。西国の生まれにしては黒すぎる長い髪は、南国からやってきたという見知らぬ父のものだ。当然、ネイディーンは己の父を知らない。たまたまその時漁村を訪れていただけという南国の商人は、それから二度と漁村へは現れなかった。

 広がっていく波紋を見つめながら、ぼんやりとネイディーンはつまらない過去のことなど回想していた。思い出したところで何一つ面白いことなどないのに、時々こうして脳裏をよぎるのは何故なのだろう。何度己の人生を思い返してみたところで、導き出される結論は一つだけ、自分はとても孤独だということだ。

 そうしてどれほどの時間が経過したのだろう。一瞬のことであったかもしれないし、あるいは随分長い時刻そうしていたのかもしれない。

 大きな洗濯桶の中に張った水を眺め、洗濯物を腕に抱えたまま微動だにしないネイディーンの姿に気づいたのか、他の世話役がふと嫌味たらしく声をあげた。

「あらあら。ネイディーンは仕事もせず、洗濯桶を鏡にして己の姿に見とれているのね」

 洗濯物を干し終えて、丁度水場へと引き返してきたところなのだろう。数人の世話役の女たちが、欄干から水場へと続く低い段を下ってこちらへ向かってきていた。

 世話役の女たちの仕事は、神殿の中の清掃だけではない。巫女や神官たちの纏う服、寝 所の布団であったり、敷かれている絨毯などを洗濯するのも彼女たちの仕事だ。現れた女たちは、神殿の長い廊下に敷かれた大きな絨毯を洗い終えて日光の下に干してきた帰りのようで、肩を揉みほぐしながら、ゆっくりと段を下った。

「あら、いいのよ、ネイディーンは。あたくしたちと違って世話役としての業務を懸命にこなす必要なんてないのだから」

「そうね。巫女君の身の回りのお世話だったり、あるいは神官殿の教育係だったり。私たちとは違って忙しいものね」

「たまには自分の美しい顔に酔いしれてみたくもなるわよ」

 あまりにもあからさまな皮肉に、返す言葉も浮かばない。

 反応することも億劫に思え、ネイディーンは無視を決め込むと、腕に抱え込んでいた洗濯物を桶の中に放った。布が水を吸って、だんだんと重くなっていく。

 そんなネイディーンの澄ました態度が余計に気に食わないのか、女たちは欄干の下にたむろすると聞えよがしに噂話を続けた。

「巫女君のお気に入りであるのをいいことに、最近では神官殿と政治の話で盛り上がっているそうじゃない?」

「政治の話? 一介の世話役の分際で? いやだわ、私だったらとても恐れ多くてそんなことはできない」

「そもそも政治の話題なんて、女官に理解出来るかどうかも怪しいわ。それでも食い下がるのだから、よっぽど神官殿と話がしたいんでしょう」

「教育係という大義名分もなくなってしまったし」

「ええ。もとより、教育係なんて必要なかったんじゃないかしら。オレーク神官はとても優秀なお方、一介の世話役がその教育係だなんて」

 洗濯を終えて業務に一息吐いたのなら、このようなところにたむろするのではなく、他の場所に行けばいいのに、とネイディーンは思うものの口にはしない。そもそも彼女たちは日ごろの鬱憤を晴らしたいだけなのだから、場所なんてどこでもいいのだ。たまたまここにネイディーンがいたから、丁度良い憂さ晴らしになりそうだと標的に定めただけのことである。

 そう悟ってネイディーンが気付かれることのないよう静かに溜息を落としたのと、ほぼ同時である。

 水場につながる神殿の欄干の上に、不意に人影が現れた。

「――おや、女官方がこぞって私の噂とは、嬉しい限りですな」

 白磁の磨かれた手すりにもたれかかり、こちらを見下ろす青年だ。何という偶然であろうか、まるで見計らったかのようにその男は涼しい顔を覗かせる。

「オレーク神官殿」

 欄干の真下にたむろし、愚痴にも近い噂話を繰り広げていた世話役たちは、一斉に顔をあげた。一体どこから話を聞かれていたのだろうか、と女たちは罰の悪そうな顔をするが、現れた男はにこりと柔和な笑みを浮かべるだけで嫌悪感は少しも見せようとしない。

「たまたま通りがかったら、自分の名前が聞こえたものだから思わず覗いてしまった。盗み聞きをする気はなかったのです、ご容赦を」

 女たちは互いに顔を見合わせ、軽く首をすくめて見せた。どうやらそれまで吐いていた罵詈雑言は聞こえていなかったようだと、安堵したようである。

「……たまたま通りがかったにしろ、盗み聞きだなんて悪趣味ですわ、神官殿。女の立ち話には、殿方には聞かれたくないことが多いのですから」

「おや、私のことを褒めてくださったように聞こえたのだが」

「ですから、恥ずかしくて、とても聞かせられませんわ」

 女たちはころころと、それまでとはまるで別人のように愛らしい声で笑った。

 オレークはそれを受けて満足そうに微笑むと、欄干の手すりから離れる。

「それはそうと女人方、仕事中であったら無理にとは言わないが、少し教えて頂きたいことがある」

「あら、なにかしら」

「実は情けのないことに道に迷ってしまってな。小礼拝堂に向かいたいのだが、同じ場所を三周もしてしまった。――どなたか道を教えては下さらぬか」

「もちろんですわ。丁度仕事もきりがついたところでしたの。小礼拝堂への道は確かに複雑ですから、一緒に参りましょう」

 世話役たちは喜んで段を駆け上がり、オレークの立っている欄干へと上った。そして口々に「こちらです」と言って神官を神殿の内側へと誘う。女たちの甲高い声は神殿の奥の方へと移動して、やがて聞こえなくなった。

 ネイディーンが一人取り残された水場には、ちょろちょろと水流の音のみが響き渡る。喧しい世話役たちの皮肉から解放されたことに、ネイディーンはほっと胸をなでおろした。

(……丁度良いところに現れて……助かってしまったわ)

 ネイディーンは桶の中に手を突っ込んで大きな布をごしごしと洗いながら、オレークの去って行った方角を眺める。本当に偶然だったのだろうかと疑いたくなるような、登場の仕方である。まるでネイディーンが嫌味を言われて困っていることに気付いていたかのような――。

(なんて、まさか)

 ネイディーンは慌てて首を横に振った。

 だって、あまりにも都合が良過ぎるではないか。自分を助けるために、彼がわざわざ期を見計らって現れた、だなんて。

 そうとも、そんなにも虫の良い話のあるわけがない、とネイディーンは己に言い聞かせた。

 生まれた頃より、ずっとそうだった。この世界は、決して甘くない。とある環境で少しでも優遇されようものなら、即座に思いもよらぬところから刃が飛んでくる。奴隷として売り飛ばされた屋敷の主に見初められると途端に、その女房の嫉妬による凄惨な仕打ちに逢わされたり。一の君と呼ばれ最も力の強い聖女として後宮入りしたところで、あまりにも窮屈すぎる環境に嫌気がさして自ら巫女となる資格を放棄してしまったり。

 ネイディーンは桶の中から布を拾い上げ、両腕で水気を絞って大きくため息を吐いた。

 ――そんなものだ。

 ネイディーンは、そう悟っている。この世の摂理など、その程度のものだ。

 作り話ではあるまいし、個々人のために世の情勢というのは動かない。都合良くいくことなど何一つない中で、個々人は個々人に許された範囲の中でその役割をこなすだけ。ネイディーンは、ネイディーンの役割をこなすだけだ。

 主である巫女に「オレーク神官の教育係を」と任命されたからには、その役目を果たす義理はあるが、それを果たしてしまった今となっては自分と彼の間には何の関わりもない。関係ないと言ってしまえば冷淡にも聞こえるが、そんなものだ。

(……はやいところ、これを干して、神殿に戻ろう)

 ネイディーンは大布を絞り切ると腕に抱え、ゆっくりと立ち上がった。すると、長時間しゃがんでいたためであろうか、血流が頭まで回らず一瞬眩暈を覚える。ふらりとよろめいて一歩後ろに下がったところで、不意に誰かの腕によって支えられた。

「――おっと、危ない」

 心地よい低音の声である。

 優しげなその声には聞き覚えがあったものの、まさか彼がここにいるわけはない。そう思って振り返ったが、背後に立って自分を支えていてくれた人物は、やはりその声の持ち主であった。

「……オレーク神官殿」

 ネイディーンは瞬きを繰り 返す。

 その男は、先ほど世話役の女たちに連れられて、小礼拝堂へと向かったはずだった。何故なら、他ならぬ彼自身が、小礼拝堂へ向かう道がわからないと世話役の女たちに案内を頼んだのだ。――それなのに、その当人がここに戻ってきているなんて、おかしいではないか。

「ここのところ働きづめなのではありませんか? 他の女たちの言うことなど気にせず、時には羽を伸ばしなさいませ」

「そんな、こと……」

 背後からネイディーンの顔を覗き込むようにして彼にそう囁かれ、一瞬思考回路が停止した。

 何と答えればいいのか、何を尋ねればいいのか。言葉の選択肢はいくらでもあったはずなのに、何一つ言語にすることは適わず、ただただ青年の顔を見つめていた。

 が、その端正な顔 が柔和な微笑みにふわりとゆがんだところで、はっと我に返る。

 ネイディーンは慌てて自分を支えていた男の腕から逃れると、彼との間に距離をとった。あまり距離が近いと妙な動悸がして、嫌な汗をかく。人間が他人と対峙するに適切な程度の距離をおいて彼と向き合うと、まだ乾いていない大布を強く握り締めた。

「オレーク殿……何故、まだこのようなところにいらっしゃるのです?」

 たった先刻、世話役の女たちと連れ立ってここを離れた男が、また戻って来ているなんて不自然だ。

 そう思って問いかけたのだが、何を勘違いしたのかオレークからは全く的外れな答えが返ってくる。

「やはり水場は女たちの秘密の園であったか……男が立ち入ると厳しく追及されてしまうな」

 もちろんネイディーンは、彼が水場に立ち入ったことを言及しているわけではない。

「そうではなくて……貴方は先ほど、小礼拝堂に向かわれたはずでは……」

 だんだんと言葉尻が小さくなっていった。

 このオレークという神官が、自分のことを助けてくれたのではないかという都合の良い思い違いが、再び心の奥にわき起こる。そんなわけがない、と己を叱咤する声と、でもそれなら何故再び彼は戻ってきたのかと期待を覗かせる声が心の中で喚いていた。

 そんなネイディーンの心中など露知らぬ男は涼しい顔をして、長く伸びた茶色の癖っ毛を遊ばせると、ちらりと神殿の方を見上げる。

「小礼拝堂への道は、案内してもらって覚えたところだ。道さえ覚えてしまえば、あとは自分で何とでも出来る」

「……」

 それはそうだけれども、と思いながら、やはりネイディーンには言葉が浮かばない。

「今日の空は清々しいまでの青だからな。屋根の下にこもっているばかりではなくて、たまには陽の光も浴びたくなるというものだ」

 青年はそう言って空を仰ぐと眩しげに目を細めた。ネイディーンはその横顔を見つめるばかりである。

 もしかしたら、と心の中の期待ばかりが膨らんだ。彼はよほど自分のことを気にかけてくれているのではないか、と妙な声がする。だから他の世話役たちに皮肉を言われている時にもわざわざ期を見計らって話を遮ってくれたのではないか。だから、その女たちを振り切ってまで再び此処へ戻ってきてくれたのではないか――。

 そんな若い娘の思い描くような夢物語が自分の心の中で膨らんでいることに、ネイディーンは怖気立った。十数年という長い人生を経て、自分は何を学んできたのだろう。この期に及んで小恥ずかしい夢物語を描くだなんて。

「……では、私はこの大布を干さねばなりませんので」

 決して己の心の中を読み取られることのないように、ネイディーンは至って冷静にそう告げた。まるで仕事のことしか考えていないかのような顔で、極めて平静を保って頭をぺこりと下げる。

 オレークは別段気にした様子はなく、小さく頷いたのみであった。ネイディーンはくるりと彼に背を向けて、なるべく足早に水場を離れる。これ以上彼とこの場所にいると、得体の知れぬ期待感がますます膨らみそうで恐ろしかった。

 望まれぬ命としてこの世に生を受け、幼き頃に奴隷として売られた。売られた先でも欲してなどいない寵愛を受け、そのために謂れのない恨みも買い、身も心もぼろぼろになったところで聖女となった。しかし聖女となった後も、辛酸をなめる思いばかりを重ねてきた。そうとも、様々な人生経験を積んで来た。他の何人たりとも叶わぬような、豊富な経験をしてきたと思う。

 それなのに、とネイディーンは大布を抱えるその上から自分の胸を押さえて立ち止まる。神殿の立橋の下をくぐって建物の反対側に抜けると、そこが洗濯物の干場であった。この場所は、水場からは死角になっている。ネイディーンは青年から自分の姿が見えていないことを確認すると、胸を押さえてその場に蹲った。

 ただの期待感とも、喜びとも、愉快さとも異なる、不可思議な感情が胸の中に渦巻いていた。その感情の所為で胸が高鳴って仕方がない。

(――恐ろしい)

 蹲ったネイディーンは、ただただ怯えていた。

 豊富な人生経験を積んで来たはずなのに、こんな感情を覚えたのは初めてだったのだ。故に対処の方法もわからず、ただ恐ろしい。

 神殿の立橋を挟んで水場の死角へと逃げ込んだネイディーンが蹲っている頃、果たしてその反対側の死角では何が起こっているのか、彼女には知る術もなかった。ネイディーンが自らの心の内を知られまいとするのと同じように、相手も相手でネイディーンにはその心の内を明かさない。

 故に、ネイディーンは依然としてその男の正体を知らなかった。知らぬまま、恐ろしいほどの激情ばかりが募っていった。

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