7、神殿の外
季節は変わり、色付いた木の葉も散りゆき、閑散とした風景の広がる頃となった。たびたび吹き荒れる乾いた冷たい風が、丸裸になった木々の枝を寂しく揺らしている。西国にはあまり雪が降らない。故に、乾燥した寒々しい季節であった。――冬季である。
ここのところ、どうにも神殿の外が落ち着かない。
ネイディーンは、ふと大聖堂の床の水拭きをする手を止めて、窓の外を眺めていた。
ここ西国エウリアの国城の中には三つの殿がある。皇室の住まう宮殿、政治のなされる政殿、そして神事を司る神殿だ。ネイディーンの住処である神殿の外、すなわち国城の他の殿が騒がしい。――ここのところ、政殿に不穏の動きあり。ネイディーンはその不穏の動きが気になって仕方がなかった。 しかし、神事を司る神殿というのは暢気なもので、同じ国城の敷地の中にありながら、誰も国の内情には興味を示さない。誰が政治的な指揮を取ろうが、誰が国を繁栄させようが傾けようが、どうでも良いことであった。神殿に仕える人間は皆、下界には興味がない。
「ねえ、わたくし、昨晩、あの神官殿と夕日の沈む様を眺めたのよ」
大聖堂の中に、高い女の声が響く。世話役の女たちが清掃している時この大聖堂の中には世話役の女しかいない。神殿に仕える男、すなわち神官も、当然主である巫女もいないのだ。故に、たびたび女共は掃除をしながら軽口を交わしていた。
「あの神官っていうと、オレーク・ナイザー神官のことかしら?」
「当然。他のどの神官と夕日を眺めたいことがあるというの」
それはそうだ、と女たちはきゃらきゃら笑った。
オレーク・ナイザーが一人の神官として独立し仕事をするようになってから、幾月かの時が流れた。当然、ネイディーンによる彼への講義もとうに終了し、かつてのようにネイディーンは彼と顔を合わせる機会もない。
それでも、オレーク神官の名前はちらほらネイディーンの耳へと届いた。
相当な切れ者であるというオレーク神官は、神官の中ではすこぶる評判が悪い。それも致し方のないことで、外部との接触をほとんど持たないこの神殿の中は閉鎖的だ。故に、古き風習に習って職務が遂行されている。そのような中、珍しい新入りのオレーク神官は、優秀さ故にたびたび古き風習を破るのだ。職務の効率化や充実を考えればオレーク神官のやり方は間違いではないのだが、そんな型破りな彼の仕事の方法が、他の神官には気に食わないらしい。
だがその一方で、切れ者である上に見目麗しいオレーク神官は、世話役の女達の中では好評であった。神官たちが口を揃えて非難するオレーク神官の仕事の方法もまた、女達から見れば魅力的である。理に適った方法で手際良く職務を全うする彼の姿は、それはそれは輝いて見えるのだろう。
「昨日はまるで秋の日のような、見事な夕暮れだったでしょう? 大聖堂に連なる廊下の窓から、神官殿が夕日を眺めていたの。その姿がとても素敵でね、わたくし思わず見とれていたのよ。そしたら、神官殿が声をかけてくださって」
「まあ、なんて?」
「窓際の方がよく見えますからもっとこちら側へ、って。だから私、神官殿と二人で窓から夕日を眺めたのよ」
「羨ましい!」
「ただ貴女は神官殿に見とれていただけなのにね!」
世話役たちは声高らかに盛り上がる。ネイディーンはその輪に加わることなく、黙々と大聖堂の水拭きを続けた。
世話役たちの話題はいつもいつも飽きる事なく同じことの繰り返しだ。人気の神官の話をしたり、あるいは嫌いな神官の話をしたり。他の世話役の陰口を叩くこともあり、――恐らくネイディーンの陰口もいたるところで叩かれているのだろう。
よくもまあ飽きないものだ、とネイディーンは桶の水で雑巾を洗いながら、思う。神殿の外の景色が変わろうとも、神殿の中はいつまでも代わり映えがしない。そんな現状を嘆いて溜め息を吐くと同時、突如大聖堂の中の空気ががらりと変わった。
神官の衣装の上に防寒具であるマントを翻らせ、歩武堂々と現れた青年が一人。
大聖堂の掃除をしていた女たちはその青年の姿を見つけ、ふと作業する手を止めた。
「――オレーク神官殿!」
噂の渦中の人物が現れたことにより、女たちを取り巻く空気が一斉に浮き足立つ。大聖堂には背を向け窓拭きをしようとしていたネイディーンも、思わず後ろを振り返った。
「貴女方の仕事の邪魔をする気はない。どうぞ続けて」
颯爽と現れた渦中の人物は、鳶色のマントをなびかせながら、早足で大聖堂の中央を突っ切って行く。そんな彼の後ろ姿を名残惜しそうに見送りながら、世話役の一人がここぞとばかりに声をかけた。
「あのっ、このような頃合いに、大聖堂に何か御用ですか?」
時刻はまだ午前中。何の儀式も執り行われない平凡な日のこの時刻は、世話役の女たちが清掃のために神殿中の清掃を行っている。清掃されている頃合いに神官が聖堂を訪れるのは確かに珍しいが、かと言って、たまたま通りかかっただけというわけもない。
「冬至の祭典の準備のために、調査をしに来ただけだ」
オレークは端的にそう述べただけで、それ以上世話役たちと絡もうとはしなかった。職務のために来たのだから当然なのだが、世話役の女たちは少しつまらなさそうな顔をする。
その様子を遠くから傍観していたネイディーンは、我に返ると雑巾を強く握りしめた。彼は彼の任務を遂行しにきたのだから、世話役たちも自分の任務を遂行するべきである。ネイディーンの任務は、大聖堂の清掃だ。
ネイディーンは床を拭くのに使っていた雑巾を綺麗に洗って水をしぼると、ゆっくりと立ち上がった。大聖堂には外の光を取り込むための広い窓がいくつか設置されている。この窓に曇りがあっては、巫女の威厳も半減するというものだ。ネイディーンはシミ一つ残らないようにと大聖堂の窓を丁寧に磨き始めた。
握りしめた雑巾が右へ左へと窓の上を往復する。するとふと、その窓の向こう側に気になる人影が通り過ぎていくのが見えた。――神殿の外、政殿の丁度裏側だ。あまり人相の良くない中年の男が二、三人、まるで人目を避けるかのように裏道を通り過ぎて行った。
(一体……誰かしら)
ネイディーンは窓を拭く手を止めて、思わずその中年の男たちの後ろ姿を目で追った。
男たちの纏っているのは、政殿に勤める官僚たちの衣装、式服だ。さほど上等なものではないから、上位の人間ではないのだろうが、そこそこ年齢も高いところからすると、上位の人間の側仕えなのかもしれない。――なんにせよ、表舞台から隠れるように移動する姿が気になった。まるで、後ろ暗い事情を抱えているかのようだ。
と、ネイディーンは神殿の外の光景に目を奪われていたため、いつの間にか自分の背後に立っている人影に気づかなかった。ゆえに、突然後ろの人影が声をあげた時には驚きのあまり飛び上がりそうになった。
「――おや、あれは、政殿の最大派閥とも言える内大臣の一派ではないか」
澄ましたような男の声である。
はっと息を呑んでネイディーンが振り返れば、いつの間にか背後にオレーク神官が立っていて、窓越しにいそいそと通り過ぎていく中年の男たちの姿を見ていた。
「……オレーク殿」
ネイディーンは咄嗟に雑巾を握りしめ、目線を下方へとさまよわせた。ネイディ ーンの任務は大聖堂の清掃である。政殿の様子を伺うことではない。
己の任務を疎かにしているとオレークには思われたくなく、咄嗟に目線を落としたわけであるが、オレークはそのようなことは全く気にも留めず、窓の外を眺めていた。
「何か良からぬことを企んでいるな……」
「……」
オレークも、中年の男たちの怪しげな動きに対してネイディーンと同じ感想を抱いたようである。
神官は鳶色のマントの下から手を覗かせて己の顎を撫でると、面白そうに小首を傾げた。
「ネイディーン殿も、政殿の様子が気になりますか?」
「……いえ、私は」
一端の世話役でしかないネイディーンが他殿のことに興味を示すべきではないと、ネイディーンは慌てて首を横に振る。
しかし オレークはにやりと口元を歪めると、窓に手をつき外界を睨みつけた。
「ここのところ、政殿は落ち着かないようですな。最大派閥である内大臣の一派と、新鋭勢力である国務参謀の一派が大きく対立している。直に、何か動きがあるぞ」
「……内大臣の一派と、国務参謀の一派が?」
たまらず、ネイディーンも聞き返してしまっていた。
かねてから、皇帝の相談役である国務参謀と、皇帝の職務の一切を代行する内大臣が対立していることは有名であった。どちらも政殿においては強い権力を持つ立場であるが、両者の意見は相容れない。
一族代々政治家を務めてきた内大臣は、昔からの政殿のしきたりを大切にする保守的な政治家であった。それに対して国務参謀は一代でその地位まで登りつめた切れ者である。政殿古き慣習を嫌い、大改革をやってのけた。
保守派の内大臣と革新派の国務参謀の馬が合うはずもなく、両者は絶えずいがみ合ってきた。
それについては、一端の世話役でしかないネイディーンでもよく知っている。
「一体……何が起きているのですか」
ネイディーンはなるべく声を潜めて、オレーク神官に問いかけた。本来は女である自分が問うべき事柄ではないと存じている。それでも問いかけてしまったのは、面白そうなオレークの横顔が気になったためだろうか。
「デリアト・ホルビナ・トゥアイド・ギル・ルーバンス皇帝陛下。現皇帝陛下は、御年六歳と実に若年でいらっしゃる。当然、政治的判断はまだ難しい。ゆえに、誰かの言葉を借りて政治決定をしてきたわけだが ――ここ最近では、すっかり国務参謀殿にべったりだ」
「国務参謀に?」
「そのため、皇帝陛下の権限を国務参謀が掌握しているも同然――当然、対抗派閥である内大臣一派がそれを喜ばしく思うわけもない」
「では……内大臣一派も、何か手を打つつもりなのでしょうか」
「おそらくは。あまり美しい手ではなかろうが」
そう答えてオレーク神官は結わえた長めの癖っ毛を手で払いのけた。
ネイディーンは小首を傾げ、まじまじと青年の横顔を見つめる。涼しい顔をしてこの国の内情を語るこの男は、つい数か月前まではこの国の仕組みさえ知りえなかった。だというのに、あっという間に他のどの神官にも劣らぬ傑物となっている。
「……よく、ご存じですのね」
その早すぎる成長が気になって、ネイディーンは思わず指摘せずにはおれなかった。
「政殿の内情まで知ることも……神官の役目なのですか?」
余計なことを言ったという自覚はある。世話役と神官とでは当然、神官の方が位は上だ。世話役が神官の仕事云々に口を出すなど言語道断だ。
しかしオレークは嫌な顔一つせずに、ちらりとこちらを一瞥すると、明瞭な声で答えた。
「神官の役目ではない。当然、政殿の内情など気にする必要もなければ、誰から教えてもらえるものでもない」
「では、何故……」
「誰から聞かなくとも、なんとなく予想はつく。政殿で決議された議案については、神殿へも紙媒体で送られてくるからな」
だとしても、膨大な量に上る政殿の議案の内容などいちいち確認している神官は珍しいだろう。
「……オレーク殿、冬至の祭典の準備はよろしいの?」
そもそも、彼がこの大聖堂を訪れたのは、ネイディーンと政治談議をするためではない。気にかかって尋ねれば、その答えもまた、明快であった。
「もう終わった。祭典の企画を練るのに、大聖堂の図面が欲しくてな。測量をするために、まずは自分の足で広さを確かめたかった」
ここには大聖堂の図面もないんだぞ、とオレークは呆れた口調で語る。ネイディーンには神官の仕事の内容はわからないけれども、おそらく今までは古参の神官の経験則で適当に企画を練ってきたのだろう。
神官としての従来の務めを果たしながらも、新しい任務をも遂行し、その上で政殿の議案の内容まで逐一確認している。この男は、非常に優秀だ。 かつて、この男を連れてきた巫女が語ったように、彼はとても優秀である。
だからこそ、ネイディーンは不思議でならないのだ。これほどに能力の高い男が何故、記憶を失って路頭に迷っていたのだろう。そして彼の本来の居場所は、どこなのだろうか。
「あなたは……記憶が、ないのよね?」
気づけば、疑問が口をついて飛び出していた。まるで彼の記憶障害を疑うかのような口調であるが、オレークは少しも不愉快そうな顔をすることなく答えてくれた。
「ええ、残念ながら」
青年は邪気なく笑う。妙に色気のあるその微笑みに居心地の悪さを覚えながら、ネイディーンは小さな声で付け加えた。
「記憶を、取り戻したいとは、思わないの……?」
これこそ、余計な問いかけである。
もしもネイディーンが何もかも記憶を失ってしまったら、なにがなんでも過去を思い出したいと願うはずなのに、実に余計なことを聞いてしまった。
それでも青年は嫌な顔せず、静かに窓辺を離れた。
「さあ、どうだろう。記憶がないからこそ、過去への執着も湧かないのかもしれない。なんにせよ、今の私には、私なりの役割というものがある。それを遂行することに、迷いはない」
そう答えて、青年は踵を返した。ひらりと長い鳶色のマントが宙を舞う。ネイディーンはなんとなくその布きれの先を目で追いながら、唇をきゅっと噛みしめた。
――貴殿には貴殿の役割がある。
もう何年も昔、聖女であったネイディーンにそう告げたのは、聖女の園に住まう謎の老人であった。最西端の嫌われ者と呼ばれ、倦厭されていたその男の言葉を、しかしネイディーンはずっと心に抱いている。自分には自分の役割があるのだと自身に言い聞かせることで、ネイディーンはここまで迷うことなく生きてこられたのだ。
あのオレーク・ナイザーという謎の男が、ネイディーンと同じように「己には己の役割がある」と言ってのけたことが、何故だかとてもむずがゆかった。まるで彼と思考が同調したようで、面映ゆい。
冬至の祭典のための調査という目的を終えたオレークは、振り返ることなく大聖堂をまっすぐ去って行った。ネイディーンはその後ろ姿を目で追ってから、はっと我に返って慌てて雑巾を窓に強く押し当てる。物思いにふけっている場合ではないのだ。ネイディーンの仕事は政殿の内情を案ずることでもなければ、ましてや神官の背中を見送ることでもない。
そんなネイディーンの落ち着かない様子を見やり、他の世話役の女たちが何かしら小声で噂をしていたが、あいにくこの時のネイディーンの耳には全く入って来なかった。仕事をしなくては、と自分に言い聞かせることで、いっぱいいっぱいだ。
それは秋風も吹かなくなった寒い日のことであった。もうまもなく、西国エウリアに極寒の季節がやってくる。