4、正体不明の男
現世とは隔離された神界との交差点。巫力と呼ばれる不思議な『力』によって支配される、聖域。只人の立ち入りを許さぬその場所を、人は「神殿」と呼ぶ。神の降り立つ殿は、今日も静かに国城から西国を見下ろす。
その神殿の敷地内において、謎の多い男が神官として聖域を踏みつける。ある日突然、巫女が「新しい神官だ」と言って連れて来たその男のことを、誰しもが知らない。彼は、何者なのか、何のために神官に抜擢されたのか――。
神殿の中には様々な風説が飛び交っていた。ある者はその神官のことを、政殿から送り込まれた密偵ではないかと言った。神殿の中は外界には伝わらない。政殿に務める大臣たちですら、神殿の中で何が行われているのかは知らないのだ。故に、それを探るための密偵ではないのか、と。
また、ある者はその神官のことを巫女の男妾ではないかと言った。その男はとても整った顔立ちをしていて、他の神官たちにはない妙な色気があった。そんな男を巫女が独断で神殿の中へと招き入れたのだ。勘繰る者は後を絶たない。
また、ある者はその神官のことを他国の刺客ではないかと言った。今、彼らの住まう西国エウリアは、隣国との戦のまっただ中にあった。雲の上とも言われる神殿にはその片鱗も見えないものの、国土は戦の炎に焼かれている。故に、突如現れたその男は隣国の刺客なのではないかと噂する声もあった。しかしこれはあまりにも突飛な意見であり、多くの人は信じなかった。
さまざまな流言蜚語が飛び交う中、神殿の女官であるネイディーンに与えられた使命は、新入りの神官であるオレーク・ナイザーの教育をすることであった。
渦中の人物オレークは、自分に関する噂をどこまで知っているのやら不明であるが、自分に与えられた役目をしっかりとこなし、真面目であった。新入りらしく謙虚でありながら、仕事に熱心で、よく働く。ネイディーンは依然として彼の正体を知らないが、職務にひたむきである彼を邪険にする理由もない。彼の正体が気にならないと言えば嘘になるが、それよりも彼を教育することに熱を注いだ。
「今日は、西国の歴史について、話しましょう」
秋も暮れ、まもなく冬が来るという頃なのに、少し季節外れな陽気の差す昼下がり。
神殿の澄んだ窓辺から差し込む陽光を浴びながら、ネイディーンは白磁の机に手を置いて、背筋をぴしと伸ばした。
白い机を挟んで向かいに座る男はよくできた生徒で、興味津々といった風にこちらをじっと見つめてくる。その真剣な面差しは、どことなく妖艶だ。そういえば何人かの世話役の女たちが彼にすっかり惚れ込んでしまっていたなとそんなことを思い起こす。と、途端に彼の視線に気が散って、妙に落ち着かない心地になった。
「ネイディーン殿?」
講義を始めず、押し黙ってしまったネイディーンに、新入りの神官オレーク・ナイザーがそっと問いかける。その低く上品な声色にはっと我に返り、ネイディーンは慌てて邪念を振り払った。自分の役目は彼に神官の心得や、神官として知っておくべき最低限の知識を覚えさせることだ。ぼんやりとしている暇などない。
急いでネイディーンは姿勢を正しなおすと、気を取り直して口を開いた。本日の講義は、西国エウリア君主国の成り立ちと、その歴史についてだ。
「西国エウリアの国土は、歴史にもならぬような遥か何千年もの昔に、神より与えられたと言われております。史記よりも遡ってはるかに昔のこと、故にその事実は神話としてしか残されておりません」
「さすがに宗教国家ですな。国土を創成したのは神であると」
「ええ。ですがこの手の神話は我がエウリア国だけでなく、どの国にもあるものです。国土の生誕の由来など、我ら人間の知り得ぬところですから。結局、人外の力、すなわち神によって作られたと伝えるしかないのです。ですから、大概どの国にも神の創世記は語り継がれておりますよ」
「ふむ、なるほど。人の知恵で解決できないものは、神の仕業と呼ぶ、と」
「まあ……そう言うこともできますね」
ひねくれた解釈であるが、間違ってはいない。
ネイディーンは失笑しながらも、白磁の机の上に、紙を一枚置いた。講義をするときは言葉のみで伝えるよりも、筆記した方が相手にも自分にもわかりやすい。西国に古来より伝わる鳥の羽でできたペンを執り、黒のインクに浸して紙の上へと走らせた。
「むしろ、我が西国エウリアが宗教国家と呼ばれていたのは、その統治体制によるものが大きいと言えます」
「呼ばれていた? 今は呼ばれていない、と?」
「いえ……今もかつての名残で西国エウリアを宗教国家と他国は呼んでいるとは思いますが、それでも、宗教はかつてほどの強大な権力を握っていないと言えるでしょう」
「何故です? 国城の中に神の下る神殿があるというのに? 巫女が王にも匹敵する最高権威であるというのに?」
「そうですね、今でも神の使いである巫女はこの国の象徴であります。それでも、かつてほどの権力を巫女は持っていないのです。その最たる理由が、修道院制度の崩壊です」
「修道院制度……?」
「ご存知なくても無理はありません。今のエウリアには修道院という機能はありませんから。かつて、と言っても最近のことです。今より三年前までは、この西エウリア君主国には修道院制度という統治体制が敷かれておりました」
「三年前……? 本当に最近の話ですね」
「ええ。修道院制度が崩壊したのは、当代の巫女カグワの君が巫女に就任してわずか一年後のことです」
ネイディーンは言いながら、紙の中央に「神殿」の図を描いた。その頂点に、「巫女」を描く。
「三年前まで敷かれていた修道院制度とは、神殿を頂点とした封建制度のようなものです。首都ケトロの国城に置かれた神殿、そしてその長である巫女が主権を握り、国を統治します。けれども、エウリアの国土は広大で、巫女一人で全てを統治しきれるものではありません。そこで、エウリアのそれぞれの地域に、大修道院を置き、それぞれの大修道院を大司教に任せました」
「神殿」の下にいくつもの「大修道院」を並べ、それぞれの修道院の上に「大司教」の文字を連ねる。これがかつての神殿を頂点とする封建制度、すなわち修道院制度だ。
「それぞれの地域を統べる大司教は、己の統括下にある数多の修道院を管理します。それぞれの修道院には修道士がいて、自分の地域の大司教に従い、その地域を統括してきました」
「なるほど、本当に封建政治のようだな。しかし、宗教は政治とは関わらないことがこの国の原則だったはずです。政治的支配力を持たない修道院が、地域をどのように統括していたというのです?」
「そうです。問題はそこなのです」
このオレーク・ナイザーという男は聡明で、理解が早い。故に、教育係として講師をするネイディーンは、彼に講義する時間が嫌いでなかった。
「三年前まで、この国には、莫大な権力を持つ修道院がありました。それらの長となる大司教は神の宣下や信仰を理由に、民衆から供物と称して数多の財を受け取っていました。故に、修道院には並々ならぬ経済力があったのです」
「ほう、大司教は神の名を借りて民衆から財を巻き上げていた、と。しかしそれだけでは財力を持つことはできても政治的権力を握ることはできんな。その財力を理由に、政治的権力を持つ人間が寄ってくることでもない限り――」
「その通り。圧倒的な財力を持つ大司教は、裏で、この国の政治的権力者である内大臣と密通していたのです」
ネイディーンは「神殿」の横に「政殿」を描き、その下に「内大臣」を描いた。そして、内大臣と大司教とを線で結ぶ。
「内大臣とは、国王の補佐をすることが役目です。国王の勅命を文書として国に交付したり、各官僚たちに国王の弁を伝えたりする。我が西国エウリアの国王トゥアイド・ギル陛下はまだ御年六つ。当時は二つでございました。故に、政治的決定を下すのは難しく、実際には内大臣がその役目をも司っていたと言えます」
「つまり、たった二つの齢であった国王陛下に変わり、政治的主権を内大臣が握っていた、と」
「そういうことですね。その内大臣と、大司教が密通していたわけです。内大臣は政治的権力でもって大司教を優遇し、大司教は内大臣に莫大な財を献上する。彼らはそうして互いの利益を高めていたわけです」
「派手な背任行為だな。それでも民衆は大司教に供物を差し出していたのですか」
「民衆は大司教の潔白を信じて疑いませんでしたから。修道院とは聖域、そしてその中にいる大司教は神にも近い存在だと思っていたのです。民衆にとって神は絶対でした。ところが――」
ネイディーンは「政殿」の下、「内大臣」の隣に「国務参謀」の文字を付け加える。
「当時の政殿には、内大臣の他にもう一人、絶対的な権力者がおりました。それが、国務参謀です」
「国務参謀……国王の相談役のような地位でありましょうか。国策の案を提示したり、国王の宣下に知恵を貸したり」
「ええ。参謀の本来の役割は国王の相談に乗ることです。そこから転じて国策の案を議会に提案することなどもありますが、本来、国王の補佐である内大臣より権力を持つ地位にはありませんでした。ですが、当代の参謀は傑物で、内大臣にも匹敵する権力を持っていたのです。当然、内大臣はいい顔をしません。そこで、政殿の中にて衝突が起きるわけです」
「内大臣は参謀を罷免したい、参謀は内大臣を罷免したい、と。そのような状況下において、内大臣の背面好意は参謀にとって格好の口実となりましょう」
「その通り。参謀は大司教との密通を口実に、内大臣を罷免しようとお考えになったのです。そこで、手始めに、大司教を頂点と定める修道院制度の廃止を議会に提案なさいました」
「なるほど……修道院制度がなくなれば、大司教は全ての権限を失う。そして、大司教を財源としていた内大臣の力も削がれると」
「ですが、そうそう簡単に廃止できるものでもありません。当然、内大臣からの圧倒的な反発もありましたし、なによりこの宗教国家エウリアにおいて修道院を廃止するというのは信仰を否定することにも直結しておりました。そのため、政殿だけでなく、神殿からの反発も免れない、はずだったのです」
「はずだった……?」
「ここで登場するのが、我らの長でもある巫女君、つまり、カグワの君です。当時、神殿を取り仕切っていたのは、まだ就任一年目の若い巫女、カグワの君でございました。当時十六の年でございます」
ネイディーンは「巫女」の文字の隣に「カグワの君」と追記した。
「カグワの君は、神殿として、参謀に反発することはなさいませんでした。彼女が心の中で何を思っていたのか、私にはわかるべくもありませんが……。とにかく、参謀は修道院制度の廃止を押し進めようとしておりました」
「しかし、例え神殿が反発をしなかったとしても、いわばそれは信仰の弾圧、神を信仰する民衆からの反発も避けられないはずだと思うのですが」
「そこが、参謀の傑物たる所以です。参謀は修道院制度の廃止を信仰の弾圧とは言いませんでした。彼は、大司教の悪事を民衆に暴いたのです。そして、大司教こそが神を冒涜している卑劣者だと扇動し、民衆の怒りの矛先を修道院へと向けました」
「賢いな。民衆を味方につけたのですね」
「そこからはあっという間のことでした。民衆が修道院で大暴動を起こし、それを見た内大臣はあっさりと大司教を見捨てた。つまり、議会で修道院制度の廃止の法案が議決されたのです。内大臣は大司教を庇う理由を失ったわけです」
「ふむ……しかし腑に落ちませんな。そこまで民衆が修道院に対して敵意を持ったならば、修道院の長であった神殿ならびに巫女への怒りも免れないはず。修道院制度とともに神殿も廃棄され、巫女さえ罷免されてもおかしくないのでは? それなのに何故今、巫女君はこうして神殿に君臨しておられるのです?」
「その修道院への大暴動を鎮圧なさったのが、巫女君本人であったからです」
ネイディーンはゆっくりと自分の座っていた椅子を引くと、立ち上がった。
神殿の広間の床は純白の色に磨かれており、光沢を放っている。ネイディーンはその光沢の上を一歩一歩進み、そのたびにカツンカツンと冷たい音が広間中へと響き渡った。
「古来より、巫女には護衛がつくと決まっております。巫女の護衛のことを「仗身」と呼ぶのですが、その「仗身」を務めるのは、必ず獣人であると決められております」
「獣人……人畜のことですな」
「オレーク殿、それは差別用語です。口を慎みなさい」
厳しい顔をして彼の方を振り向くと、オレークは微かに笑って「そうですね」と答えた。彼は椅子から立ち上がり、ネイディーンの後を追う。
彼の食えない表情を見て、ネイディーンは、「試されたのだな」と心の内に思った。人の心を持たない獣人のことを、「人畜」と呼ぶ者もいるが、それは差別用語である。とは言え、下界の人間はほとんど獣人のことを「人畜」と呼ぶ。オレークはネイディーンがこの神殿の中に仕える世話役として、差別用語を厭うかどうか試したのだ。
試されたのだと思うと気分は良くないが、彼にそれだけの分別があるのだと思えば許容できた。
ネイディーンは気を取り直して、前を向くと、広間の壁際の方へと向かって進む。
「巫女の護衛はいにしえより、獣人であることがしきたりとなっております。獣人は確かに只人ではありません。人間の何倍もの力を持ち、攻撃力を持つ。故に、護衛には最適なのです」
「しかし、理性のない獣人を、いかにして従えるのです?」
「それが巫女の『力』、すなわち巫力です。巫女は不思議な『力』でもって、獣人の獣性を封じます。故に、巫女の護衛は普段は人間と同じ姿をして巫女の後ろに控えております。そして、巫女に危険が及ぶと、人間の姿を解いて、獣の姿へと変化し、巫女をお護りする」
「さすがは巫女、というべきか。獣人を従えるなど、常軌を逸脱している」
「ええ、民衆にとっては獣人は猛獣と同じ、人を食らう怪物でしかありません。そのため、獣人を従える巫女は、神にも等しく見えたことでしょう」
ネイディーンは広間の壁際に立って、足を止めた。窓辺から差し込む陽光によって、壁にかけられた大きな絵画が照らされている。二十尺はありそうなその大きな絵画には、天空をかける獣と、その獣に跨がる白装束の少女の姿が描かれていた。この絵画は、ここ数年の間に描かれた比較的に新しいものだ。西国エウリアの中でも有数の画工職人から当代の巫女カグワへと献上された。
「カグワの君は、己の護衛である獣人に跨がって、修道院の大暴動の中へと飛び込みました。そして、暴動を起こした民衆へと語りかけたのです。『神は無能である』と」
「ほう? 巫女が自らそのようなことを?」
「はい。神は無能である、故に民衆に情けはかけれども、民衆を救うことはできないのだと。民衆は愕然としながらも、神を真っ向から否定した巫女君に、陶酔しました。何故なら、「神に祈ればお救いくださる」などと説いた修道士たちよりも、彼女の言葉の方がずっと重厚に思えたからです」
「なるほど、興味深いな」
「以来、民衆の間には、かつての神信仰から巫女信仰なるものが派生するようになりました。無能である神だけでなく、神を支える巫女を崇拝し、巫女に祈りを捧げるものです」
「では、この絵画は巫女君と獣人を描いたものか」
「その通りです。『巫女の神殺し』と呼ばれるその一件以来、各地の修道院には修道士はいなくなり、代わりにこのような巫女と獣人の絵が飾られるようになりました」
「当代の巫女君は、歴史を大きく変えてしまわれたわけだな」
神官オレークは感心したように微笑み、その絵画を見上げた。
どこからともなく突然現れた謎だらけの神官は、絵画の向こうに何を見ているのだろうか。懐古するような顔つきで絵画を見上げるその横顔は、思わず背筋が震えそうになるほどに凛々しい。広間の天窓から差し込む光が、彼の茶色い癖っ毛を輝かせる。わずか数ヶ月前から着るようになったはずの神官装束が神々しいほどに似合っていて、ネイディーンは思わず目を細めた。
一体貴方は何者、と問いたいが、それは決して問うてはならぬ禁句のように思えて口が開かない。
この男の教育係を、と仰せつかったネイディーンはしかし、彼については一切の情報を与えられなかった。巫女があえて言わなかったことを、わざわざ聞くような無粋なことはネイディーンにはできない。故に、何も知らないのだ。ネイディーンはこの男のことを、一切知らない。
秋の暮れ、そろそろ空気も寒くなろうという季節である。人肌恋しい気候になったためであろうか。
ネイディーンは巫女の絵の前で、暖かな日差しに守られながら、一抹の寂しさを抱え込んだ。