3、巫女カグワ
――あ、ネイディーン! 見て見て!
――あら、どうしたの、カグワの君。
――さっきね、そこで、黄金の蝶を捕まえたの!
それは遠い昔の記憶の中に、残された輝かしい言の葉の記録である。
キラキラと輝く目映い世界の中で、不安も恐れも何一つ考えなくてよかったあの幼き日々のこと。少女は楽園の中を、鳥のように飛び回っていた。楽園に住まう女は皆美しくとも刺があり、少女に牙を向く。そんな中で、一人の女だけは、少女のことを暖かく迎え入れてくれた。少女はその美しい女のことがとても好きだった。
「黄金の蝶?」
「そうよ。ケニーの爺が言っていたの。伝説に、黄金の輝きを持つ蝶がいるんだって!」
ケニーの爺とは、この楽園に住まう奇妙な知識人であった。あまりにも万物を知り過ぎているため、周囲に恐れられ、「変わり者」と呼ばれている。故に彼の言うことは絶対であった。
「その黄金の蝶をね、見つけたの!」
「まあ……」
「今空に放つから、見ていて! 本当に綺麗なの!」
そう叫んで少女が楽園の空へと向かって両手を大きく開放させると、一匹の蝶がヒラヒラと舞い上がった。純白の蝶であった。その羽は薄く、太陽の光を透かしてしまそうなほどである。
少女たちを空を見上げ、蝶を目で追い、しかしそれだけであった。伝説の蝶とは、思えない。
「……美しい蝶ね。けれども、私の目には白い蝶にしか見えないわ」
「本当だ……おかしいなぁ。確かに捕まえた時には、黄金の光を放っていたのに」
まだ幼い少女がしょんぼりと肩を落として俯くと、美しい女は空に解き放たれた蝶を見上げ、柔らかな笑みを浮かべる。
「では……カグワの君。あの蝶は、貴女にだけ見える奇跡を見せたのかもしれないわね」
「奇跡……?」
「そう……。他の誰にも決して見せない、黄金の輝きを。貴女にだけ見せたのかもしれないわ」
そう呟いた女の横顔は、同性ながらに見とれてしまうほど、麗しいものであった。少女はこの偏った楽園の中で、歪んだ花園の中で、気高く美しく凛とする、その女のことがとても好きだった。
少女よりも年上のその美しい女の名を、ネイディーンと言う――。
白昼の中、突如ぼんやりと眠りに誘われるように見る、白昼夢。
白い霧の中をゆっくりとかきわけてようやく浮上した世界が現実だ。
少女から女へと成長するまっただ中にいる黒髪の女は、我に返ると辺りを見回した。
黒い大理石の床が冷たくどこまでも広がっている。高い天井は球体になっていて、人の足音を幾重にも反射させた。
広大で、何もない暗い空間の中央に、女、カグワは立ち尽くしていた。嗚呼、そうだ、此処は、と思い出す。この広大すぎる大聖堂は巫女の修行の間だ。「巫力」と呼ばれる不思議な『力』を高めるため、巫女は此処に篭ることを許されている。
巫女カグワは、とある実験を試みるため、早朝よりここに閉じ篭っていたのだ。
「――かぐわの君!」
切羽の詰まった低音で名を呼ばれる。
コンコンコンと幾重にもこの空間に反響している足音は、その低音の持ち主がこちらへ駆け寄ってくる音だ。
くるりとカグワが振り返ると、背の高い黒髪の青年が包み込むように、覆い被さってきた。屈強な体を装衣と呼ばれる布一枚で作られた単純な服で包み、その上から巨大な数珠玉を巻いている。どこの民族衣装とも異なる珍奇な風貌をしているが、それはこの男がただの人間ではないことの証だ。
「ゆたや……」
その男の名を呼んでから、ようやく気が付いた。カグワは重力に従って、そのまま横転しそうになっていたらしい。ユタヤという名のその大柄な男が、身を張ってそれを防いでくれた。
「かぐわの君、これ以上はやめましょう……お体に触ります」
「ゆたや――夢を見たのよ、懐かしい夢」
「かぐわの君」
「まだ、あの楽園にいた頃……巫女になる前、聖女だった頃の夢よ。毎日、巫力の修行をさぼって、よく叱られたわ……ネイディーンが出て来たの。ネイディーンはとても素敵な聖女で、私の憧れだった」
「かぐわ様!」
カグワの体を腕の中で支えたまま、男、ユタヤが叫んだ。どことなく虚ろなカグワの様子に、危ういものを感じたのだろう。カグワは切迫した彼の表情を見上げ、くすと笑う。そして彼を安心させようと、そっとその雄々しい顔を撫でた。
「大丈夫よ……懐かしい夢の余韻に浸りたかっただけ」
そう呟くように答えて、カグワは男の腕を離れ、一人大理石の床の上に立ち上がった。
あまりにも広すぎるこの空間は全て、彼女の物だった。彼女のために用意された空間、彼女のために用意された物、彼女のために用意された人、彼女のために用意された世界。――彼女、カグワは此処では絶大な権力を握っていた。何しろ彼女はこの国の信仰の長、神の使いとも呼ばれた、巫女である。
巫女はこの国においては、国王にも匹敵する権力を握っていた。国に住まう市民のほとんどは巫女を神にも等しい存在として、崇める。だがその実は、ただの一人の女でしかない。何も食べなければお腹もすくし、少し気を張れば疲れてしまう。
巫女カグワは広い天井に向かって大きく伸びをすると、大聖堂中に響き渡りかねない大きな溜め息を吐き出した。
「あぁー……でもさすがに疲れちゃったなぁ……やっぱり、慣れないことはするものじゃないわね」
言ってカグワが手招きをすると、それだけで傍に控えていたユタヤという長身の男は彼女の意図を汲んでくれる。男は広い大聖堂のど真ん中に堂々とあぐらをかいて座ると、巫女を見上げた。巫女は満足気に微笑んで、その大腿部を枕にして大理石の上に寝転がる。
「まだ巫女になる前……聖女だった時でさえ、こんなに真面目に修行したことなんて滅多になかったし……」
さも当然のような顔をして己の太ももに頭を乗せてきた巫女君を見下ろして、しかしユタヤは嫌な顔一つしなかった。
「そうですね……それについては、否定のしようもございませんが」
生意気なことを言うこの男、ユタヤは巫女の護衛であり、忠実な僕だ。「仗身」という肩書きを持つこの男は、ただの人間ではない。今でこそ人間の形をしているが、その真の姿は野獣のような見目をした獣人であった。
巫女カグワはくすくすと笑いをこぼし、仰向けになって人の形をした獣人を見上げる。
「よくあの頃は、こうやって修行をさぼったわね……ひなたぼっこのできる四阿の屋根の上に寝転んで、心地良く昼寝なんてしながら」
「……おかげで、私はよく叱られたものです」
「私の修行を邪魔したって?」
「それも当然そうですが……獣人の分際で、聖女の君と寄り添って寝るなどけしからん、と」
巫女はふと笑うのを止め、その男の顔をまじまじと見つめた。
この男は、確かに、獣人であった。獣人は本来、野獣と同じ性質を持つ。生まれた時こそ人間であるが、成長とともに獣になっていく生き物だ。その獣性を『力』でもって封印し、己の護衛として侍らせることが巫女の古くからのしきたりとなっていたが、いくら護衛とは言え、常に傍には置かない。本性が獣である獣人は穢れである故、神聖な巫女の傍には近付けないというのもまた、しきたりだ。
だが、巫女カグワはそれを良しとしなかった。
まだ巫女に選ばれる前、巫女修行をする「聖女」という巫女の予備軍であった頃から、カグワは己の仗身である獣人ユタヤを常に傍に侍らせた。カグワは彼のことを穢れだなどとは微塵も思っていなかった。いつ何時いかなる時でも己を信じ、守ってくれる彼のことを、厭えるわけもない。
「そう……今も、こんな風に寄り添っていたら、怒られるかしら?」
どちらかと言えば無骨な顔をした、その男を見上げて呟くと、彼は無骨ながらも柔らかく微笑んで、答えた。
「いえ……何人たりとも、此処を覗くことは、適いませぬゆえ……」
言ってから、照れたように微かに赤面する、彼のそんな不器用さがカグワを安心させる。「そうね」と答えてカグワは紋様の描かれた球体の天井をぼんやりと眺めた。
巫女に選ばれるために必要とされる「巫力」と呼ばれる不思議な『力』は、人間の理屈では説明しきれない神秘的なものだ。例えばカグワが従者である獣人の獣性を封印しているものであったり、例えば他人の心を読むものであったり、例えば声なくして人に言葉を伝えるものであったり、例えば未来を予知するものであったり。その種類は無数であり、巫女に選ばれたカグワとて、その全てを知るわけではない。
故に、巫女には「修行の間」と呼ばれる大聖堂が用意されていた。此処は外からの一切の影響を遮断し、決して妨害を受けることがない。それこそ不思議な『力』による技を使ったところで、この中を覗くことさえ適わないのだ。その仕組みは巫女本人にもわからないのであるが、これもまた、不思議な『力』による細工なのだろう。
「……しかし、突然いかがされたのですか? 修行の間に篭って、巫力を高めたいなどと……修行嫌いのかぐわの君の言葉とは思えぬ……」
獣人の男が、低い声色でぼそと呟いた。
その独り言のような彼の本音を聞いて、カグワは微笑みながら目を閉じた。巫力には、「先見の技」と呼ばれる技がある。目を閉じて未来の夢を見る。――予知夢を自ら得る技だ。
「最近ね――あまり良くない予感がするの」
「予感……」
カグワに枕にされているユタヤの体がぴくりと緊張したように強張った。彼は主であるカグワの先見の技に絶対の信頼を置いている。巫女が「良くない予感」と言ったからには必ずや不吉が起こるのだろうと彼はそう信じているのだ。
「まあ、予感は予感でしかないから……どうなるかはわからないけれども……エウリアの国の上に暗雲がたちこめているわ」
巫女カグワの支配下とも呼べる西国エウリア君主国に、不吉の影がよぎる。彼女の見た未来は、実に不穏なものであった。
ますますユタヤの体が強張る。
「それは……他国との戦によるものでありましょうか……?」
「わからないわ……ただ、エウリアの、皇室に……なにか良くないものが近付いているような気がするの」
「皇室……」
ユタヤが息を呑んだのがわかった。
エウリアの国では、巫女と皇室が両立した統治体制となっている。皇室が国政に絶対の権力を持つのに対し、巫女は信仰に絶対の権力を持つ。両者は互いに不干渉であり、相手の権力を阻害しない。だが、無関係かと言えばそういうわけでもなく、皇室の代替わりと巫女の代替わりは同時であることが定められている。――つまり、皇室に不穏な動きがあり、万が一にも国王が崩御することがあれば、巫女も同時に崩御となる。
「だからって私が少し巫力を高めたところでその不穏を除けるものでもないでしょうけど……」
巫女は言って、その黒い瞳をパッと開いた。そこに未来は見えない。見えるのは現実ばかりだ。
「でも、今備えなければ、全てを失ってしまう……そんな気がするの」
ゆっくり上半身のみを起こして、獣人の顔を見上げれば、とてつもなく険しい表情が浮かんでいた。カグワは彼の顔の皺を少しでも和らげようと、その強張った頬を手のひらでそっと撫でる。
「そんな顔しないで……? この世の終わりが来るわけではないんだから」
「かぐわの君になにかあれば……それは私にとって世界の終焉と同義です」
「何もないわ。――私にはね」
含みのある言い方をして、ゆっくりとカグワは立ち上がった。巫女装束は本来厚手の生地で作られた非常に重々しい衣装であるが、彼女はそれを好まない。薄手の純白の布で作られた衣装の長い裾を軽く流して、「さてと」と大聖堂の出口の方へ向かって歩き始めた。それを追うようにして、ユタヤが立ち上がる。
「その、不穏の正体は……オレーク・ナイザー神官とは……無関係なのでありましょうか?」
彼の声はいつもに増して遠慮がちで、まるで何かを恐れているかのようだった。――オレーク・ナイザーという男を新しく神官に重用したのは巫女自身だ。畏れ多くも、巫女の選択が過ちであったかのように言っていると、彼はそう思っているのだろう。
「オレークは、不穏には、関係ない」
カグワは明瞭にそう言い放った。
神殿の中で巫女に仕える神官は、そうそう安易に雇えるものでもない。学識があること、篤信家であること、気性が穏やかであること、様々な条件を経るための試練があって初めて重用される。――それなのに、オレーク・ナイザーは巫女の一言で神官にと抜擢された。異例の事態であり、禁忌であるという見方さえできる。
だが、巫女にはそれでも、彼を抜擢する必要があったのだ。
「むしろ、オレークは……最後の砦となるわ」
「この神殿の、ですか……?」
「いいえ」
「では、このエウリア国の?」
「いいえ――この世界の」
そう答えてカグワが後ろを振り向くと、彼女の後ろにぴったりと着いて歩いていた男の眉をひそめているのが見えた。全くわからない、とその顔には書いてある。カグワは思わず、ふふふと笑った。
「実は私だってよくわかっていないのよ! 今まであまり真面目に修行をしてきたわけではないから、見える未来だって断片的だし、世界の情勢もさっぱりわからないし……まあ、しょうがないわねー、それでも私は巫女だから」
ユタヤは不服そうに首を傾げている。「どういうことだ」と言わずとも知れる彼の表情を前に、巫女は踵を返し、再び大聖堂の出口へと歩み出した。
「まだ巫女になる前、聖女だった頃は、修行の方法を教えてくれる先生がいたり、わからないことを聞ける相手がいたわ。でも、私は巫女になってしまったから……立場上、私よりも強い力を持っている人はいなくなってしまったの」
実際はそんなことないんだけどねー、と軽い口調で言って、巫女は大聖堂の巨大な扉の前に立った。遥か高い天井まで続くその扉は、どんな大男が力づくに押そうと引こうと開かない。この扉を開くためには、この聖堂にかけられた封呪を解く必要がある。
「有識者だったケニーの爺やにも会えず、一の君と呼ばれていたネイディーンも今は巫力を持たない。私は私の力を頼らざるを得なくなった」
カグワは扉に描かれた錆びた銅色の紋様を手のひらでなぞる。途端に、錆び付いていた金属の紋様が新品の真鍮のような輝きを放ち、震えた。そしてカグワが両手の平を外側に向かってゆっくりと開くと、それに合わせて重々しく扉が開いていく。
「それが、突然私が焦って修行を始めた理由」
「ね?」と言って振り返り、カグワは従者の手を取って大聖堂の外へと踏み出した。聖堂の封呪は解かれ、外部の干渉を受ける。それまで無音であった空間に、神殿の外を飛び交う小鳥の声が響いた。
四季折々美しい気候の西国エウリアに、春が到来する。そろそろ花の蕾の開く頃だ。