20、脱出
カグワと女官が出て行ったその後を見送り、ネイディーンは呆然とその場に立ち尽くしていた。
次から次に予想外の出来事がおこるため、思考が追いつかない状態であった。
聖女の頃に「最西端の嫌われ者」と呼ばれていたケニー老翁が実は神官長であったことや、ケニー老翁が恐ろしいほど強い『力』の持ち主であったこと。カグワが巫女でなくなると同時に神殿を追い出されることや、最後の最後まで型破りな巫女であったこと。「世界の根源を解き明かす」だなどと予想もできないほど無辺際な目標があること。驚くべきことはいくつもあったが、ネイディーンの思考を何より揺らがせていたのは――オレーク・ナイザーが生きていたことだ。
「後は任せたわ」とカグワに言われたオレークは、何やら懐から一枚の紙切れとペンを取り出すと、床の上に屈み込んで文字を連ね始めた。カグワと打ち合わせをし、やらねばならないことがあるのだろう。
ネイディーンはその姿をまじまじと見つめていた。――紙切れを見ると、思い出してしまう。大逆の罪を着せられたオレークの無実をなんとかして証明したいと思い、彼の寝所へと飛び込んだ。その部屋の中で見つけた走り書きのことを、思い出してしまう。
「――何故、『私のことは忘れてください』だなんて、そんなことを書き置きしたのです?」
思わず、ぽつりと呟いてしまっていた。まるで独り言のように小さな囁き声であったが、狭い物置の中にはよく響く。
オレークは紙の上に走らせていたペンを一瞬止めて、立ちつくしているネイディーンを見上げた。しかし青年はすぐに下を向き、再び屈み込んでペンを走らせ始めた。
「……あの書き置きを、見つけて下さったのか」
ネイディーンは思わず言葉を飲み込む。彼の寝所に忍び込んであちらこちらを捜索したことを暴露してしまったのだと気付き、何も言えなくなった。自ら彼の無実を暴こうと、むきになっていたとは言え、大胆なことをしたものである。逆に責められても何も言い返せはしない。
「オレーク・ナイザー神官という存在には謎が多かったことだろうから、誰かがあの部屋を捜索しにくるかもしれないと思っていた。だから、『私のことは忘れてください』という書き置きを見つければ、それ以上は捜索する意思も失せるだろうと考えたのです」
涼しい口調でオレークは言い放つ。
確かに、彼の直筆で書かれたあの書き置きを見つけた途端、ネイディーンは気が抜けてしまった。彼は本当に処刑されてしまったのだと思い、何も出来ない自分や何も知らない自分が情けなくて、思わず涙したものだ。そしてその時に、気付いたのである。――自分がいかにこの男を想っていたのかということに。
「……まんまと、乗せられてしまったわけですね」
ネイディーンは溜め息混じりに笑いを零した。こそりと取り出したのは、大切に保管していたその紙切れである。もう二度と会うことも適わないと、そう信じて疑わなかったため、この紙切れは形見として捨てることができなかったのだ。
だが、この男にはわかるまい――。
すらすらと丁寧な文字を連ねて行く男の姿を見下ろしながら、ネイディーンは心の中でぼやく。この男には、どれだけ自分が想いを募らせているのかなんて、永遠にわかるまい。
「ネイディーン殿を騙すことができたのであれば、神殿の中に疑うものなど他にはいなかろう」
彼はそう呟いて、何やら書き連ねた書面を丁寧に畳んだ。そしてゆっくりと立ち上がる。立ち上がればネイディーンより幾分も背の高いその青年のことを、見上げる形になった。綺麗な瞳に見下ろされて、どうにも落ち着かない。
「もしあの部屋まで誰かが捜索をすることがあれば、それは十中八九、貴女だろうと思っていた。――ですから、『美しい人へ』と宛名書きしたのです」
言って、彼は長い指でネイディーンの握り締めている書き置きをなぞった。確かに、部屋に置いてあった書き置きには、『この紙片を見つけてくれた美しい人へ』という宛名書きがされている。しかしそれだけでは、到底ネイディーンに宛てられたものだかどうかなんて、わかるまい。
何を考えているのやら全く読めない彼の瞳を見つめ続けられず、ネイディーンはそっと目線を落とす。すると彼はそれを許さず、今度はその指先でネイディーンの顎を持ち上げ、無理矢理目線を自分の方へと向けさせた。
「私は実に奇特な人生を送ってきたが、貴女ほど気品のある美しい方にはそうそうお目にかかりませんでしたよ」
まっすぐと目を見つめてそんなことを言われてしまっては、何も言い返すことなできなくなってしまう。
触れられた顎先からぞくぞくと震えが走って、気が滅入りそうだ。――本当に、何を考えているのかわからない。
動けないネイディーンと、そんな彼女にふわりと微笑むオレーク、そんな両者のやり取りの一部始終を遠目に眺めていたケニー老翁が、呆れたように言葉を漏らした。
「……気障な男よのう……その気障さに足元をすくわれて、己の身を滅ぼしたら目もあてられぬわ」
「本心を口にしているまで。ご心配には及びません」
ふと笑ってみせて、オレークはネイディーンから離れた。そして彼は「さて」と言う。その手には取り急ぎ書き記した書状が握られており、ネイディーンはその中身を知らない。
「――では、そろそろ動き出さねばならぬな。この書状は、ゆたやに託そう」
主であるカグワがいなくなっても、石のように黙り込んでいた獣人ユタヤは、恐らくもともと無口なのだろう。だが、オレークに声をかけられれば、もちろんそれには応じる。
「……。……了解した」
しばしの間を置いてから、獣人ユタヤは承諾した。そのしばしの間が気になって、ネイディーンは獣人の青年を見上げる。
ネイディーンは、聖女の頃からこの獣人のことを知っていた。昔から型破りな聖女として有名だったカグワは、常に獣人を傍に置いていた。他の聖女たちは自分の護衛とは言え、獣人を傍には置かない。例え人の形をしていてもその本性が恐ろしい獣であるが故に、聖女は獣人を厭うのだ。そのような中で、カグワだけは常に獣人ユタヤを傍に置いていた。自らが獣であることを知りながら、自分を傍においてくれる聖女カグワに対して、この獣人ユタヤがどのような想いを抱いていたか、想像に難くない。
彼は、主であるカグワの最後の巫女の姿を見届けたいのだ、とネイディーンは悟った。しかし、オレークに託された用事もまた、主のためになると知っているため、惑う。故にしばしの間が空いたのだと、ネイディーンは理解する。
ならば、とネイディーンは手を差し述べた。オレークがユタヤに託そうとしていたその書状を横から受け取って、口を挟む。
「その書状、私に託しては頂けませんか?」
差し出した書状を取られ、オレークがきょとんとした表情を浮かべる。獣人ユタヤもまた、仏頂面を浮かべつつも腑に落ちない顔をした。ケニー老翁は相も変わらず面白そうにこちらを見つめるのみである。
「ユタヤ――貴方は、カグワの君の巫女として最後のお姿を見に行った方がいいわ」
そう告げると、ユタヤは自らの心を言い当てられたと思ったのだろう、あまり変わることのない顔に驚きの表情を浮かべた。そんな彼を見上げて、ネイディーンは己の聖女であった時代を思う。聖女であった頃、ネイディーンは自分を守ることで精一杯で、己の仗身が何を思っていたかなんて、考えたこともなかった。ネイディーンの仗身を務めていた獣人は、ネイディーンが聖女でなくなると同時に仗身ではなくなり、おそらくは処分されたのだろう。非情な話である。
「私もかつて聖女であったことがあるけれど……聖女や巫女であるために必要なのは、地位や肩書きではありません。『聖女』だ『巫女』だと思って接してくれる人がいて、初めてその人は聖女や巫女になるのでしょう」
『一の君』と呼ばれ、多くの人間から称賛や妬みの眼差しを向けられていたあの頃、間違いなくネイディーンは『聖女』であった。それは『一の君』という肩書き故ではない。
同じく『三の君』と呼ばれていたカグワを『聖女』にしていたのは、この獣人ユタヤだ。常にカグワの傍にいて、彼女のことを他の誰より敬い慕っていた彼こそが、カグワを『聖女』とし、『巫女』とした。誰がカグワのことを「破天荒な巫女だ」と言って蔑もうとも、ユタヤだけは揺らぎない敬愛の心を向けていたに違いない。そんな彼が最後の『巫女』の仕事を見届けなくては、意味がない。
「貴方が、カグワの君の最後の『巫女』姿を見守ってあげて」
きっぱりと言い放つと、ユタヤは戸惑うように言葉を詰まらせた。
「ですが――」
本心ではカグワの傍にいたいはずなのに、彼が戸惑いを見せるのは、オレークに託された用事もまた、カグワにとって至極重要なことであるためだ。それをおいそれと手放して、カグワの傍に駆けつけても良いものか、迷っているらしい。
そんな彼の心を読み取ったかのように言葉を挟んだのは、ケニー老翁であった。
「行ってくるのじゃ、ユタヤ。こうなることは、カグワも予見していたと思うぞ」
「え……?」
予想外の言葉に、ネイディーン、オレーク、ユタヤ三人の視線が老翁へと注がれる。老爺は皺の多い顔を歪めて、カグワの去って行った方を見つめた。
「カグワは此処を去る時、『ネイディーンとゆたやはまた後で』と言った。ユタヤが自分を追ってくることは自然に想像出来たであろうが、ネイディーンがカグワを追う理由はないはずだ。ネイディーンは神殿に仕える女官じゃ。カグワと違って、巫女が変わったところで神殿を追い出されるわけもない」
確かに、その通りであった。
また後で再びカグワに出会うとしたら、それは神殿の外である。本来、女官は神殿の外に出ることを許されない。許されるとしたら、それは女官を辞めた時だ。
「カグワの君は……私がこの神殿を出ると、予見したのね」
ようやくその事実を悟り、ネイディーンは儀式のために着込んだ自分の衣装を握り締める。オレークは呆然とし、ユタヤは唇を噛み締め、ケニー老翁はきししと笑った。
それぞれがそれぞれの反応を見せた後、口火を切ったのは、オレークだ。
「恐ろしいな……『力』というのは。凡人である俺には、さっぱり読めやしない……が、だからと言って、屈するわけにもいかない」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、彼はその怜悧な眼差しでぎろりとユタヤを睨みつけた。
「であるならば、ユタヤ、お前はカグワの君の傍に行け」
まるで鞭打つような言い方をして、オレークはユタヤの背を押した。ユタヤもユタヤで、そうなれば留まる理由もない。弾かれたように物置部屋を飛び出して、神殿の方へと去って行った。――獣人である彼も、見えないはずの扉を迷わず開いてみせた。獣人にも、凡人にはない『力』が備わっているのだろう。
「……思い切りが良いな、オレーク」
口元を軋ませて、ケニー老翁が笑った。それを受けてオレークはふんと鼻を鳴らす。
「もとより、私はこの書状がきちんと届けば良いのです。必ずしもユタヤに託す必要はない」
この書状、とオレークの指し示す先には、ネイディーンの握り締めた書状があった。オレークが今しがた床の上に屈み込んでペンを走らせたものである。ネイディーンはその内容こそ知らないが、これが彼らの運命を左右するものなのだということだけは理解している。
「……どちらへ、届ければよろしいですか?」
ネイディーンは書状をぎゅっと握り締めて、問いかけた。処刑されたことになっているため、自由に歩き回ることのできないオレークの言葉がそこに記されている。この書状を届けることは、彼の言葉を届けることだ。
「国城が三殿の一つ、政殿におられる国務参謀、ワイズ・レヴィン殿だ。よろしく頼む」
言葉を預かるという重責を抱えながらも、ネイディーンはしっかりと頷いた。
もう後戻りはできない。――ネイディーンはこの神殿の外へ出る決意を固めた




