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西国の聖女  作者: あすかK
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1、巫女の世話役

 この世界は、東西南北、四つの国によって支配されている。西に位置するエウリア君主国は、四国の中でも最も豊かと言われた国だ。広大な土地は四季に恵まれ、人々は信心深い。神を信じる西国の民衆は、神に祈りを捧げながら、豊かな土地にて恵まれた生活を送ってきた。故に他国に羨まれる。

その西国エウリアの国城は、エウリアの最西端、首都ケトロにそびえたつ。その厳威に満ちた巨大な敷地は、三殿と呼ばれる組織体系によって成り立っていた。

三殿が一つ、宮殿は、エウリア君主国の最高権威である国王を含め、皇室の住まう場所である。宮殿には皇室の人間とその世話を任された下働き、そして国政の頂点に立つ人間のみの出入りしか許されない。

三殿が一つ、政殿は、エウリア君主国の国事を担う中核である。エウリア全土に設置された数々の役所の頂点であり、国の方向性、軍事、国交等、全ての事柄がここで決定されていた。

そして三殿の最後の一つ、神殿は、神事を司るエウリア一神聖な場所であった。宗教国家とも呼ばれるエウリアにおいて、神事は国事にも匹敵するほどの重事である。そして神殿の長「巫女」は、宮殿の長である「国王」と同等の権限を持つ、国の最高権威であった。

西国エウリアでは、国王と巫女が両立している。国王が国事政治の頂点ならば、巫女が神事信仰の頂点だ。

巫女の住まう神殿は、国城の中でも一際異質な空間であった。俗世の人間は、皇室であろうと政治の中核を担う人間であろうと、特別に許された儀式以外では立ち入ることを許されない。そこは、神のすむ天上に最も近いと言われた聖地なのである。その中を知る者は、一握りだ。



神殿の大聖堂の天井は高い。神事があれば例外的に外客を迎え入れ、儀式を行う。高い天窓からはキラキラと日光が差し込み、広間の床に美しい模様を描いた。

 黒髪の美女はゆっくりと雑巾をしぼり、その模様をなぞるように床を拭う。いつ神事が行われるともわからないから、いつでも大聖堂は清らかでなくてはならない。故に、この広間の清潔を保つことは、この神殿に住まう者の務めなのだ。

「――ネイディーン、巫女君がお呼びだ」

 黒髪の美女、ネイディーンという女は、己の名を呼ばれて顔を上げた。ネイディーンは神殿に仕える「世話役」、すなわち下女である。黒い瞳をまっすぐと上げた先には、一人の男が立っていた。彼は「神官」と呼ばれ、ネイディーンのような世話役とはまた異なる肩書きを持つが、仕える主は同じ、巫女である。

「巫女君が……?」

「そうだ。至急、閨房まで来いと仰せだ」

 閨房とは、巫女の寝所である。畏れ多くも、閨房に立ち入ることを許された人間など、この神殿の中にも数えるほどしかいない。

 神殿に住まう人間は、皆、神に仕え、そして神の使いと言われた巫女に仕えていた。彼らは主に二つに分類される。神事を円滑に進めるために事務的な作業を行う「神官」と、巫女の身の回りの世話や、神殿を美しく保つ下働きのような作業を行う「世話役」である。「神官」が全て男の役割であるのに対し、「世話役」は全て女の役割であった。故に、神殿に仕える女のほとんど全てが、「世話役」と呼ばれる。

 「世話役」は「神官」よりも遥かに位が低い。たかが世話役でしかないネイディーンが、閨房への出入りを許されているのは、それだけ巫女からの信任が篤いという証でもある。

「とは言え……珍しいこと。常ならば、何か用事がありましたら、巫女君の方からわざわざ出向いて来られるというのに」

 ネイディーンは、長い黒髪を一つに結わえ上げ、手に握っていた雑巾を畳んで桶に入れると、ゆっくりと立ちあがった。

 世話役の中でも一、二を争う美貌の持ち主と言われるネイディーンであるが、神官を務める男共がおいそれと手を出せるような相手ではない。何しろ、彼女は巫女からの信任が篤い。

 神官もそれを理解しているためか、彼女の横顔に見とれることもなく、渋い表情で大聖堂の天井を仰いだ。

「困ったものだ……世話役を軽々しく閨房に招かれることもそうだが、軽々しく神殿の中を闊歩されることも……巫女たるもの、軽卒に人前に姿を見せてはならぬというのに」

「それでも、ここ最近は神殿の中に留まっておられるのですから、褒めてさしあげなくては。何かあると聞きつけては神殿の外へ飛び出して、政殿やら宮殿やら、他殿を徘徊しておられたこともあるのですから」

 ネイディーンは微笑んで清掃用の桶を持って立ち上がる。神事のときには数百人が入るという大聖堂の清掃は、とても一人で切り盛り出来るものではない。故に、大聖堂の中にはネイディーンの他にも世話役の女が数人雑巾掛けを行っていた。ネイディーンは彼女たちの邪魔にならないようにと桶を広間の端へと移動させた。

 その後ろに渋い顔をした神官がついてくる。

「前代未聞だ。歴代の巫女で、閨房はおろか神殿までも飛び出して国城三殿の中を徘徊しておられた巫女が他におられただろうか」

 ネイディーンはあえて答えることはなく、苦笑した。答えはわかりきっている。当代の巫女はあまりにも破天荒なことで有名であった。本来、巫女は外界の人間はもちろんのこと、神殿に仕える神官や世話役にも滅多な事では姿を見せないものだ。

「……では、神官殿、申し訳ございませんが、広間の清掃は後で行いますので。巫女君の閨房へと参りますわ」

「広間の清掃など他の女にやらせておけ。さして大きな神事もない時期だ。暇にしている女は多いだろう」

 この神殿の中にいる女は、巫女を除いて全てが「世話役」だ。当然巫女のことを「女」などと呼ぶわけもなく、この神殿の中で「女」と言ったら「世話役」を差す。それはこの場所での不文律である。

 ネイディーンは、広間にいる他の「女」共から一斉に険しい目線が投げかけられることを感じながら、目を細め、首を横に振った。巫女に並々ならぬ信頼を置かれるネイディーンに対し、他の「女」共の評価は厳しい。

「いいえ、私の仕事でございますから……巫女君の用事が終わり次第、続きを行いますわ。出来上がりが遅くなることだけは、ご承知を」

 ネイディーンは丁寧に答えて頭を下げると、くるりと踵を返した。彼女は清掃時にのみ結わえる髪をほどいて、長い黒髪を揺らす。それを神官が名残惜しそうに目で追う。

「気品のある、いい女だな……」

 独り言のような神官の言葉を受けても、ネイディーンが振り返ることはなかった。ネイディーンは自分に色目を使ってくる神官たちに興味がない。

 少しの動揺も見せないネイディーンに対して、神官は面白くなさそうに鼻を鳴らす。そして、ネイディーンの気を引こうと思ったのだろう、聞こえよがしに呟いた。

「当代の巫女ではなく、お前が巫女であればよかったのに」

 ネイディーンも思わず目を開いたが、決して後ろを振り返ろうとはしなかった。

 ネイディーンを始め、多くの世話役の女は、かつて巫女になるために不思議な『力』を磨くために修行をしていた。しかし、巫女になるのは一つの代に一人だけ。選ばれなかった女は、世話役となって神殿に仕える。

 すなわち、ネイディーンを始め、多くの世話役の女は、巫女のなりそこないだ。故に、ここに仕える。

 ネイディーンは一言も残さず、大聖堂を立ち退いた。己が巫女になるのかもしれないなどという未来を思い描いていたのは、遠い昔のことである。

(そんな昔のことは、忘れてしまった――)

 心の中でそう呟いて、女は純白の床を踏みしめた。


 神殿は、国城の敷地の三分の一に渡って広がっている。その敷地は決して狭くなく、ネイディーンがそれまで清掃していた大聖堂から、巫女の閨房までは、なかなかの距離があった。「至急」と言われたからにはのんびりしている暇はなく、ネイディーンは神殿の眩しいほどに白い廊下を早歩きで進んでいく。時折すれ違う神官や世話役には軽く会釈をするだけで言葉を交わすこともない。

 「巫女の休息所」と言われるその場所は、いわゆる巫女の私的空間であった。神殿の長である巫女には、巫女のみに用意された私的空間が多々ある。ネイディーンの呼ばれた閨房、食堂、巫女のための聖堂まで用意されており、到底一人で使いこなせるような量ではない。当代の巫女は、あまりにも広すぎる巫女の私的空間を持て余しており、「こんなにいらないわ」とたびたび愚痴のように零した。そのくせ、この広い神殿を飛び出しては外を闊歩しているのだから、奇異なものだ。恐らくは、巫女の求める広さは物理的なものではないのだろう。彼女には、この神殿は、狭すぎるのだ。

(わざわざ閨房まで呼び出して……一体何の用かしら。面倒なことでなければいいのだけれど)

 ネイディーンは白い床を蹴って巫女の休息所の中へと踏み出した。閨房はこの奥にある。そこに控える主は、わずか十九の年、まだ年若な少女だ。しかし年こそ若いが、やることなすこと破天荒で、従者は彼女に振り回されっぱなしである。ネイディーンももちろん、振り回される従者の一人だ。

 休息所に入ったこの辺りから、めっきり人通りが減った。なにしろここから先は、巫女の私的空間だ。神殿に仕える神官とて、巫女の世話や神殿の環境保持をする世話役とて、巫女に許可なくこの奥には踏み込めない。この巫女の私的空間内に、断りなく入ることを許された人物など数えられるほどしかいない。巫女の護衛が一人と、巫女の「世話役」が二人。合わせて三人のみである。――ネイディーンはこの私的空間への出入りを許された三人のうちの、一人であった。ネイディーンの、巫女からの信任が篤いことは明白で、他の世話役たちに疎まれる所以とも言える。

 西国に古くから伝えられる神聖なる文様に彩られた扉の前に立ち、ネイディーンは姿勢を正した。西国の巫女、この国で最も神に近いと言われ、この国の最高権威でもある女の寝間は、この扉の向こう側である。ネイディーンは礼儀作法通りに扉を叩いて「巫女君、ネイディーンです」と上品に伝えると、「入って入って!」と声色高く部屋の中より返事があった。当代の巫女君はいつでも快活ではあるが、それにしても今日は一際機嫌の良いようだ。

 失礼します、と一声かけて扉を開くと、巫女の閨房の中にはいつも通りの光景が広がっていた。

 広い窓の外からはきらきらと夏の日差しが差し込み、白い部屋を目映く照らす。照らされる広い寝台の上に腰掛けて、日差しにも負けぬ明るい笑みを浮かべているのが当代の巫女であった。――その名を「カグワ」という。

 巫女カグワの傍には、無愛想な表情の屈強な男が膝をついて控えている。これが巫女の「仗身」、すなわち護衛であり、この神殿の中で唯一「神官」ではない男であった。

 そして、その反対側に、一人の男が立っていた。ネイディーンはその男の姿を思わずまじまじと見つめる。何しろ、ネイディーンはその男を見たことがなかったのだ。

 ネイディーンは神殿に務め始めて、そろそろ四年目になる。いくら神殿の中が広いとは言え、四年間毎日この場所で生活をしていてそこに仕える人間を覚えられないほど阿呆ではない。そもそも俗世から切り離された空間である神殿では、人の出入りがほぼないに等しい。出て行く人間もなければ、入ってくる人間もない。故に、顔も見たことのない男が巫女の私的空間である休息所に立っていることに、驚愕を隠せなかった。

「ネイディーン、仕事の途中だったのでしょう? 急に呼び出してごめんなさいね」

 にこりとあどけない顔で微笑んだのは、巫女カグワである。神の使いと呼ばれる巫女の姿は、下界では修道院の壁画にもされているというが、全て民の想像の形でしかない。よもや、これほどまでに幼い顔立ちの、可憐な少女であると誰が予想できたであろう。

 ネイディーンは「いいえ」と首を振り、戸惑いがちに目を細めた。大聖堂の清掃中であったため、仕事中であったことに相違はないが、巫女に呼ばれればそちらの方が優先されるのはこの神殿の中では常識である。

 そんなことよりも、この男は、誰だ。

 ネイディーンの戸惑うような表情から彼女のそんな疑問を読み取ったかのように、巫女カグワは続けた。「ネイディーン」と、巫女は彼女の名前を呼ぶ。

「貴女を呼び出したのはね、ちょっと頼みたいことがあるからなの。実はね、新しい神官としてこの人を神殿の中に招き入れることにしたんだけれど……」

 カグワは言って、寝台の横に立つ謎の男に「自己紹介を」と指示した。男はネイディーンに向かって頭を下げる。その仕草には品格があり、そしてその表情からは面妖な色気のような物が感じられた。ただ者とは思えない、妙に気迫のある男である。

「初めまして、ネイディーン殿……この度巫女君に拾われて神殿に務めることとなりました、オレーク・ナイザーと申します。以後、お見知り置きをを……」

 切れ長の奇麗な瞳が微笑みに歪んだ。茶色の癖のある毛が揺れる。ネイディーンは思わず息をのんだ。その上品すぎる様に、畏怖さえ覚える。が、ここで尻込むわけにはいかないと、ネイディーンは怖じ気づく精神に鞭を打って、毅然と答えた。

「私は、当代の巫女、カグワの君に仕える世話役、ネイディーンと申します。神殿に入ったのは、カグワの君が巫女に就任されたのと同時、四年前のことです。まだまだ若輩者ではありますが、こちらこそお見知り置きください」

 すると、オレーク・ナイザーと名乗った男は笑みを浮かべた。

「ええ……巫女君よりお聞きしました。この神殿の中に仕える百にも及ぶ全ての世話役の中でも、最も聡明な女性であると」

 ネイディーンは目を丸くする。

「いいえ、とんでもございません。私など、一介の世話役に過ぎませんから……」

「世話役であろうとも、知徳の備えをするのは己次第。故に、巫女君からの信頼も篤い、と……」

 ネイディーンは返す言葉を失った。巫女の世話役になった四年前より、出会い頭にこうも褒め殺しに遭ったことなど一度もない。「美しい」などと外見を褒められることは少なくなかったが、能力を評価されたことなど、本当に、一度もないのに。

 突然の褒め殺しに閉口したネイディーンを見てくすと笑った巫女は、「オレーク」とその男をたしなめた。

「確かに私がネイディーンを持ち上げたってこともあるけれど……いきなりそんなに賞賛されてはネイディーンもこれから仕事がしにくいわ」

「カグワの君……」

 ネイディーンは気を取り直して、巫女の方を向く。突然の呼び出しを受けてわざわざ巫女のところまで来てみれば、初めて見る男と対峙させられ褒め殺しにあって、何がなんだかわからない。巫女がネイディーンに頼みたいこととは一体何なのか。

 訝るネイディーンに、巫女カグワは微笑む。そして、告げた。

「ネイディーン。貴女に頼みたいことっていうのはね、他でもないこのオレーク・ナイザー神官の、教育係なの」

「……教育係?」

「そう。神官になったばかりで何も知らない彼に、一からこの神殿のことを教えてあげて」

 ネイディーンは目を丸くした。

 基本的に、この神殿の中では、事務的作業を行う「神官」の方が、下働きである「世話役」よりも高位である。神官が世話役に命令を下すことはあっても、その逆はない。その世話役が神官の教育係を担うなど、前代未聞だ。

「しかし、そういうことなら……世話役である私などよりも、他の神官に任せた方がよろしいのではないかと」

 ネイディーンの言葉は神殿の常識に沿った、正論だ。神殿に務める者ならば、皆が皆こう答えるだろう。神官と世話役ではまるで仕事の内容が異なる。世話役が神官に仕事を教えられるわけもない。

 しかし、当代の巫女カグワは、あまりにも型破りなことで有名であった。

「でも私、ここに仕えてるどの神官よりも、貴女の方が優秀だと思うわ。せっかくなら優秀な人に習いたいじゃない?」

 あっけらかんと、巫女はとんでもないことを言う。

 それまで神殿では常識とされていたことが、彼女の手にかかって次々に打ち崩されていく。彼女が巫女に就任してから早四年の月日が過ぎ、今では彼女が常識破りであることも周知の事実であるが、それでも唖然とせざるを得ない。今回も然り、である。

 完全に言葉を失ったネイディーンを見て、神官オレークがくすくすと笑っていた。新人のくせに生意気な、と怒る気力もない。

 カグワはそんなオレークの背中を軽く叩いて寝台の上より立ち上がった。

「そういうわけだから、オレーク、しっかりネイディーンから学ぶのよ」

「はい。仰せのままに」

 まだ若干笑みを讃えたまま、神官オレークはカグワに頭を下げた。唖然としているネイディーンは置いてきぼりにされたままである。

「じゃあ、とりあえずは部屋に戻りなさい、オレーク。後でネイディーンに迎えに行かせるわ。私はまだネイディーンと話すことがあるから」

 少し含みのある言い方をして、カグワはオレークの背を押した。途端、オレークの顔から笑みが消えて、今度は思慮深く何かを含んだ顔をする。が、彼はカグワの言葉に抗うこともなく「御意」と短く答えると、頭を下げて部屋を出て行った。その後ろ姿を見送って、カグワの横にずっと黙ったまま控えていた仗身、すなわち護衛の男が「オレーク殿を送りましょうか」と低い声でカグワに進言する。カグワは「そうね」と頷いた。

「まだ神殿の中に慣れていないでしょうから、迷子になっても可哀想だし……お願い」

 仗身である男は無言で主の命令を承諾し、音もなく立ち上がると颯爽と部屋を出て行った。恐らく、オレークを送るためというよりも、巫女とネイディーンを二人きりにするための口実としてオレークを使って退室したのだろう。巫女カグワの仗身であるあの男は、恐ろしいほどに巫女の意を読み取り、また彼女に忠実だ。

 しかし、今のネイディーンには、そんな仗身の気遣いに感心するほどの余裕もない。

「さて――」

 ぱたん、と扉が閉まり、部屋の中ががらんと広くなった。

 部屋に取り残されたのは巫女カグワと世話役のネイディーンの二人のみだ。

 カグワは再び寝台の上に腰掛けると、ネイディーンにも座るよううながす。ネイディーンはひとまずそれに従って寝台の前に置かれた椅子に腰掛けたが、頭の中は疑問だらけだ。

「いろいろ思うことはあるでしょうけれど、とりあえず、よろしくね」

 肝心の巫女の君は、そんな曖昧なことを言う。ネイディーンは美しいと言われた眉を思い切り寄せて、混乱しながらも身を乗り出した。問いたいことは山ほどある。頭の中を必死に整理しながら、口から出てきた質問は一つではない。

「一体……どういうことです? 世話役でしかない私に教育係を任せることも妙ですが……何より妙なのは、あの男そのものですわ。彼は、何者ですか? 何があって、この神殿に来ることになったのです? 所作は貴人さながら、そのくせ言動はへりくだっていて、奇妙と言わざるを得ません。彼は何者なのです?」

 ぼろぼろと、言葉が溢れ出していく。混乱はしていたが、思ったより支離滅裂な問いかけにはならなかった。最も知りたいのは、あの男、オレーク・ナイザーの身柄である。

 ネイディーンから怒濤の質問を受けても巫女は怯まず、軽く首を竦めただけだった。年のわりに幼い顔立ちをした巫女は、「うーん」と唸りをあげてから、己の黒髪を撫でる。

「なんて説明したらいいのかな……私が昔、とてもお世話になった人なの。行くところがなくて困ってるみたいだったから、だったら私のところで働かない? って」

「……神殿は、そうも安易に俗人を招き入れて良い場所ではありませんわ」

「うん、それについては、もう叱られてるわ」

神殿の長である巫女を叱ることのできる人物は限られている。ネイディーンの他に巫女の閨房への出入りを許された他の世話役の女と、同じく此処への出入りを許されているあの護衛の男のみだ。彼らは巫女がまだ巫女になる前、物心もつかぬような幼い頃からの付き合いであり、巫女にとっては家族にも等しい。神の代弁者とも言われる巫女に直接苦言を呈すことのできる仕え人は、彼らの他にはいないだろう。

その二人からすでにお叱りを受けているのならこれ以上自分は何も言う必要はないなとネイディーンは小言を飲み込んだ。代わりに、口から溢れ出すのは重い溜め息である。

「――なにも、神官として招き入れる必要もないでしょうに。本当に行くところがなくて困っている人間など、彼の他にもたくさんおります。それを許せば、何百人も何千人もの人間を神官として招かなくてはならなくなりますよ」

「まあね、それはそうなんだけど……。彼、とっても頭がいいから、神殿で一緒に働いてくれたら助かるなぁと思って」

「頭のいい人間なら既存の神官の中にもおりますわ」

「たぶん、比べ物にならないわよ。きっとネイディーンもびっくりするわ!」

「……それだけ能力が高いのであれば、どうして行くあてもなく困ることがありましょう? むしろ引く手数多なのではなくて? そもそも彼はもともと何をしていた人間なのですか?」

 ネイディーンがため息混じりに問いかけると、カグワは再びうなりをあげて、少し困ったように答えた。

「あのね、実は……彼、記憶障害になってしまったみたいなの。自分がもともと何をしていたのか、覚えていないみたいで」

「……記憶障害?」

「もちろん私は彼が何者だったのか、覚えているわよ。だけど、自分のことも、私のことも明瞭には覚えていないみたいで……無理矢理記憶を押し付けてしまっても混乱するだけでしょうし……能力自体は劣ってないみたいだから、とりあえずここで働いてもらおうかなぁと思って」

 カグワは、屈託のない笑みを浮かべた。ネイディーンはただただ目をぱちくりさせるのみである。

 ネイディーンは先ほど交わした彼との会話を思い浮かべたが、記憶障害を起こしているようとは信じられないほどにしっかりとした受け答えをしていたように思う。とは言え、ネイディーンは他に記憶障害を起こした人間と面会したことがないため、その症状がどのように表れるのか知るわけでもない。

 故に、ネイディーンが信じることのできる事実は、今目の前で、主である巫女カグワが屈託のない笑みを浮かべたまま、懇願してくるということだけだ。

「ね? お願い。私、彼のことを放っておけないし、それに、できることならこの神殿の中で、神官として能力を発揮してほしいと思っているの。そのためには、他の誰でもない、ネイディーン、貴女に教育してもらうのが一番だと思ってるわ。他の神官に頼んだら、彼に何を吹き込まれるかわかったものじゃない」

 その言葉からもわかるように、カグワは神殿に仕える神官に、絶対的な信頼を抱いてはいなかった。

 カグワは基本的に博愛主義者である。それは神の使いである巫女という役職故かもしれないが、多くはカグワの生来の気性故であろう。誰にでも平等に愛を注ぎ、平等な立場で接する。

 それでも、彼女は巫女であるがゆえに、全ての人間を信頼するわけにはいかなかった。巫女とはこの国では神にも匹敵する最高権威だ。その権威を利用しようと働きかけてくる人間も少なくはない。何しろ巫女が決めたことならば、この国の人間はそれが何であろうと従ってしまう。故に、巫女の心に取り入ろうと思う輩は決して少なくないのだ。

 これが、巫女の私的空間に立ち入ることを許された人間が極端に少ない所以である。ネイディーンはそれを許可されているため、巫女からの信頼が篤いことは明らかであったが、こうも真摯に懇願されると、再確認させられる。巫女カグワは、自分を絶対的に信頼してくださっているのだと。

「ネイディーン、貴女にしか頼めない。彼を、オレーク・ナイザー神官をお願いね?」

 小首を傾げて依頼され、ネイディーンは静かに瞑目した後、肩を落とした。貴女にしか頼めない、などと言われてしまったら、断れるわけがないではないか。このあどけない少女は、こう言えばネイディーンが反論できようはずもないことを知っているに違いない。自ずと嘆息する。

「……わかりましたわ。私にお任せくださいまし」

「ネイディーン!」

 巫女君は喜色を満面に浮かべた。ネイディーンは子供のような巫女の反応に苦笑する。

「そのかわり、下々の小言も受け流さず、きちんと真摯に受け止めてくださいましね。本来なら、貴女の一存で安易に神殿の中へ俗人を呼び込むべきではありませんわ。ここは俗世からは切り離された世界です。貴女は神の使い、巫女なのですから」

「ええ、わかってる。ちゃんとわかってるわ」

「……本当かしら」

 ネイディーンは失笑しながらも、致し方ないと彼女を受け入れた。もとより、ネイディーンにとっては主であるかぐわの言葉は絶対だ。反対することなどできようはずもない。

 ネイディーンはゆっくりと椅子から立ち上がると、部屋を退室するために踵を返した。「後でネイディーンに迎えに行かせるから」と巫女がオレークに言い放ったからには、あの男は神官の宿にてネイディーンを待っているに違いない。ネイディーンとて、教育係を承諾したからには、きちんとその役目を全うするつもりだ。

 では、と言って退室しようと扉に手をかけると、ふと、カグワから小さな声で謝罪が聞こえた。

「ネイディーン、……無理を言ってしまって、ごめんなさいね」

 ネイディーンは扉にのばしていた手を止める。

 ここで謝罪をするのは狡いだろう、と思った。あれだけ強引なことを言っておきながら、今更殊勝な言葉など必要ないのに、と。それでも、カグワはカグワなりに、自分の部下を振り回してしまっていることに引け目を感じてはいるのだろう。

 ネイディーンはふと苦笑して、彼女の方を振り返る。

「――カグワの君、貴女は不思議な御仁ですわ。巫女でありながら、俗世の人間を受け入れ、かと思えば神よりも崇高なお考えをお持ちであり、つかみ所がない」

「……そうかしら?」

「ええ……おかげさまで私を含めて神殿の中にて貴女にお仕えする者共は皆、振り回されっぱなしです」

「んー……振り回してるなぁっていう自覚はあるのよ?」

 自覚はある、といいながら、あまり反省の色の見えない顔である。ネイディーンに対して謝るくらいなら、他の神官や世話役を振り回してしまっていることの方に謝罪してくれた方がありがたいのに、と思う。が、そんなところも含めて彼女らしい。天真爛漫な巫女君だ。

「まあ、致し方ありませんわね。おかげさまで毎日飽くことなく過ごしておりますわ」

 ネイディーンは、玲瓏とした美女と言われるそのかんばせに笑みを讃えて一礼する。巫女は寝台の上に再び腰を下ろすと、満足気に微笑んで、「ありがとう」と短く答えた。

 それで二人の会話は終わり、ネイディーンは巫女の閨房を後にして、白い廊下へと出る。

 さてと、と心の中で気合いを入れた。

 まさか巫女の世話役となってこの神殿に入ってから、誰かの教育係などを仰せつかるとは夢にも思っていなかった。四年間掃除や洗濯など、下働きとしての役割ばかりを果たしてきた所為で果たして人に物を教えるようなことができるかどうかは怪しいが、巫女からの頼みとあっては全力で遂行しなくてはならない。


 この日より、ネイディーンは、オレーク・ナイザーと名乗る妙な男に対し、神殿教育を行うこととなった。一介の世話役として決まりきった毎日の繰り返しをするよりも、ずっと刺激的でやりがいのある仕事だ。

 オレーク・ナイザーに対して覚えた奇異な畏怖は棚上げし、久々に腕が鳴るとネイディーンは勇ましく神殿の廊下を踏み出したのであった。

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