《楼蘭》の町
命からがら逃げかえって美陽に、怪しげなロシア女が声をかける。
日本基地の居住区を離れると、一見中華街を思わせる街が広がっている。
あたしが踏み込んだとき、ちょうど大道芸人がコメディジャグリングを披露し、周囲に見物人が群がっていた。
大道芸を横目にあたしはその場を通り過ぎる。
しばらく進むと、美味しそうな臭いがあたしの鼻腔をくすぐる。匂いはこの先の屋台横丁から漂ってくるのだ。
角を曲がると東南アジア風の屋台が並んだ通りが目の前に現れる。
小惑星《楼蘭》の街は、狭い渓谷の中にあった。
かつてシルクロードに栄えたオアシス都市の名前を与えられたこの小惑星は、宇宙条約によって国家が領有する事は許されず国連の統治下にあった。
そのためにどの国の人間も自由に入ることが許され、様々な人種が住みつくようになり、僅か数年の間に雑多な文化が入り混じった混沌な雰囲気を漂わせる街が、断崖に囲まれた幅百メートル長さ数キロの渓谷の中に形成されていった。
なんでこんな狭苦しいところに街を作らなきゃならないのかというと、この小惑星の特徴が関係してくる。
この小惑星も昔は普通のカイパーベルト天体だったらしい。つまり、彗星の卵のような水の氷を主成分としていたのだ。
それが遥かな昔にマイクロブラックホールと遭遇してそれを取り込んでしまった。
ブラックホールは《楼蘭》を少しずつ吸収していく一方、その発熱によって揮発成分が少しずつ失われていった。
そしていつしか珪酸塩などを主成分とする現在の《楼蘭》が出来上がったわけだ。
元はどのぐらいの大きさだったかは知らないが現在の《楼蘭》は平均半径二十キロ。
その平均半径から数キロ程掘り下げた辺りは重力がちょうど一Gになっている。だから、ここを発見後、深い溝が縦横無尽に掘りまくられ、その谷底がちょうど一気圧になるような人工の大気圏が作られた。
ちょっとしたテラフォーミングだ。
こうしてできた居住可能地帯もほとんどは国際宇宙機関やCFCなどの宇宙開発企業、米国やユーロ、ロシア、中国、インドそして日本など各国宇宙機関の居住スペースに割り当てられ、余ったパブリックスペースにこの街が出来上がったわけだ。
狭いけど、あたしは結構この街が気に入っている。
《楼蘭》に赴任してから三年、この街で友達もできたし、料理だって基地の居住区にある食堂よりずっと美味い。
それは別にあたしに限った事ではないようだ。他国の宇宙機関の職員たちや、宇宙企業の社員たちも仕事が終わるとこの街に繰り出して食事をし、酒を飲み、大道芸を楽しんでいる。《楼蘭》で働く人たちの憩いの場になっているわけだ。
ただ、最近になって知ったのだが、この一見カオスに見える街は、実は心理学者のアドバイスを元に計画的に作られたものらしい。
何もない宇宙空間にぽつんと浮かぶ小惑星。
そんな環境で長期間生活していたら、人間はどっかおかしくなってしまう。
そこで職員たちが息抜きをできる街をつくろうという事になったようだ。
あたしは屋台横丁の中をしばらく歩きフォーの屋台に入る。馴染みにしている店なので「いつもの」と言うだけで、ここのおじさんは鶏肉入りフォーを出してくれる。
「地球へ帰るそうだね」
フォーの丼をあたしの前に出しながらおじさんは言った。
おしゃべりな職員の誰かが喋ったのだろう。まあ、別に秘密にする事でもないが。
「そうなのよ。仕事がなくなっちゃってさ」
あたしがメタンクラゲの衛星から帰ったあの日、《楼蘭》周辺で七つのワームホールが圧壊した。
圧壊したワームホールの共通点は全てシスター工業製の時空管を使っていたという事。在庫の時空管を調べたところ、シスター工業製すべての時空管の強度が巧妙に偽装されていた事が発覚した。時空管に含まれるエキゾチック物質の量が、規定より十パーセント少なかったのだ。
エキゾチック物質は、重力相互作用が引力ではなく斥力になってる以外は通常のバリオン物質とはなんら変わらない。
時空管と言っても百パーセントエキゾチック物質というわけではなく通常物質も混じっている。重力は電磁力や核力と比べると遥かに弱いので、エキゾチック物質の素粒子と通常物質の素粒子は普通に結合してしまうからだ。
有人調査用時空管の場合、規定では九十パーセント以上エキゾチック物質が含まれている事になっていた。だが、シスター工業の時空管はそれが八十パーセントしか含まれていなかったのだ。
シスター工業の言い分では『調査用の時空管なんてどうせ調査が終わったらすぐに外してしまうんだから、少しぐらい強度が落ちても問題ないだろう』という事なのだが、冗談じゃない。こっちは命を預けているんだ。
まあ、実際にそんな戯言が世の中にまかり通るわけなく、シスター工業の社長は逮捕された。
それはいいのだが、困った事に時空管の市場占有率七割はシスター工業が占めていた。
現在のところ生活・産業用のワームホールは三百近くある。
これに有人調査用も含めるとその数は二千以上。その中でシスター工業製時空管が使われてるワームホールは、全て時空管を架け替えなければならなくなった。
試算ではシスター工業以外の時空管メーカーがフル稼働しても、それだけの量の時空管を製造するには三年かかるという。
つまり、向こう三年間、新しいワームホールを開く余裕はなく、その間あたしら調査官の仕事もないとうわけだ。
隣の席に別の客が座ったのは、二杯目のフォーをお代わりしたときだ。
西洋人の女のようだ。
「牛肉入りフォー一つ」
女の喋ったロシア語を翻訳機がベトナム語に変換するのに数秒のタイムラグがあった。
ちなみにあたしはベトナム語が話せるので、この屋台のおじさんと話すのに翻訳機は必要ない。
女はあたしの方を向いた。
あたしより十センチは高い位置から、青い瞳があたしを見下ろしている。
「こんにちは」
女は翻訳機を使わず日本語で話してきた。
「ズドラストヴィーチ」
あたしも負けずにロシア語で挨拶を返す。
「久しぶりね。佐竹 美陽さん」
ん? あたしは相手の顔をまじまじと見た。
このあたしより若干年上の金髪女は、あたしを知ってるのか?