その九
「くぅおおおおっ……、頭が痛いぞ、頭がガンガンするぞぉ、主よぉ」
トイレの隅で青ざめた表情を浮かべ、こめかみをグイグイと押さえて苦しんでいる。
厠神様はまだ昨日の酒が残っているようだ。
トイレに吐き戻さないだけマシだが、一応神様なのだから酒量をわきまえて欲しい。
「トイレの神様なら我慢してくださいよ」
「主は何故そうも平然な顔をしておるのじゃ……。儂よりも酒を飲んでいたと言うのに……」
「すぐに分解する体質らしいんですよ。おかげで酔うに酔えないというか、記憶を無くすまでの泥酔状態っていうのにもならないもので……」
「羨ましい体質じゃのぉ……」
「そうでもないですよ」
飲み会になればシラフ状態の僕が解放をする羽目になるし、記憶も無く喚き散らす罵詈雑言を僕だけ記憶していると言うのも、あまりいい気分ではない。
ま、だから極力飲み会には参加せず、一人でチビチビ飲む事が多い。
昨日は久しぶりの友人の誘いからもあり、奢りの酒だったので参加したけど、案の定先に潰れて介抱したのはこちらの役目だった。
「ま、今日の儂はすこぶる不調じゃからな。仕事の方は任せるぞ」
……基本、仕事を手伝ってもらった記憶はありませんけどね。
厠神様はふよふよと浮いたまま身体をごろりと横にして、すーすーと寝息をたてはじめた。
邪魔をしないのであれば、ま、この際どうでもいい。
一つため息をついて、仕事を再開する。
ウォシュレット付きの洋式便器は意外と隠れ汚れが多いのが難点だ。
便座がノズルを出す様に前に出た設計になるため、奥の溝は見落としがちになり、便の汚れがべっとりと付着している事も多々あるので、よくチェックしておけなくてはいけない。
注意が必要なのが【ノズル】である。
ウォシュレット機能は肛門部位に水流を吹きつけて便を落とす機能であるが、ノズル自身を洗浄しなければ汚れていくのは自明の理なのだが、機能が終えると同時に中に引っ込んでいくので、汚れているのを自覚が無いまま使用続けている人は少ない。
最近の機能は【ノズルそうじ】をいうものがあり、それを押すと、水が出ずにノズルが出てくるのでそれで綺麗に掃除することが出来る。
……しかし、まぁ面白いくらい汚れているものだ。
人は直接見えていないものだと、それが汚れていると言う認識が鈍いのかもしれない。
いや、まぁ便座がスケルトン機能でノズルが汚れている様を直視しながらウォシュレットを使えるかと尋ねられれば、それは出来ないと答えてしまうけど。
ブラシでゴシゴシと汚れを落とし、消毒薬を吹きつけて滅菌処理をする。
大腸菌の繁殖しやすい環境だ。なるべく清潔に保っておかないと不衛生になり匂いもこもるし、ノロウイルスなども人体に危害を及ぼす菌の繁殖地にもなりかねない。
トイレ掃除のモットーはスピーディと丁寧さだと思う。
……まったく。初めはトイレ掃除なんて全く興味が無かったけど、今じゃすっかりトイレ掃除のスペシャリストみたいになってしまった。
家の中で腐っていく自分と見比べれば、幾分マシな人生を送っているのかもしれないが、それでも所詮労働条件はブルーカラーであり、ホワイトカラーに比べれば生活水準は落ちてしまうのだが、僕自身がホワイトカラーになってどうしたいかの明確な道筋が見えてこなければ、それは例え願った職種であったとしても、働いていて辛いと思ってしまうのかもしれない。
……労働が僕にとって、一体何に繋がっているのか。
その答えこそが、僕のこれからを意味しているのだと思う。
考えてみれば、就職活動中にそんな疑問を抱いた事はあっただろうか。
ありきたりな社会人マナーを身に付け、ありきたりな質問にありきたりな答えを返す日々。
ホワイトカラーになるために僕は街を方々歩いて、社会人になるために会社を探す。
僕はあの日々の中で、幾度か考えた事があった。
――僕は何故、働かなければいけないのだろうか、と。
や、家に金があるとか、働かなくても暮らしていけるとかそういう意味じゃない。
確かに家賃の半分は親に出してもらっていたが、それでもバイトをしていたし、食べていくために労働は必要だって事は熟知しているつもりだ。その為に安定した職種、ホワイトカラーを選択していた訳なのだから。
だが、疑問にも思う。
労働の目的が無ければ、労働する事に意義を持てない。
無意識の内に労働し、淡々と雑務をこなして一日が終わっていく日々。
そんな生き方を望んでいる訳じゃない。
僕は労働に意味を求めたかった。自分がなぜ働くのか、そこに明確な答えを導き出してから僕は社会人として歩み始めたかった。
……だが、社会にとってそんな個性は不要。
僕は就職できず、腐っていく日々を続ける。
今の自分はどうなのかと尋ねられれば、満足した金を貰っているとまではいかないまでも、充実した一日を送っているとは言える。臭くて汚い仕事場だが、やりがいのある仕事場だ。
ま、人に自慢して言えるかとなると、それは躊躇いが生じるけどね。
労働の意義……となると、未だ答えは出てこない。
金は稼ぎたいという一つの答えもあるが、それだけでは不十分だ。
そもそも僕にとって労働とは何なのか、その答えが導き出されていない。
未だ、答えが出ない状況で僕はもがき続けている。
友人はそれでも働くのだろう。
今日も二日酔いで頭を痛めながら、酔い止めを飲みこんで会社に向かう。
仕事が嫌だと愚痴を吐きながらも仕事をこなしていく。
神経をすり減らしながら、それでもホワイトカラーの仕事を選択し、働くのだ。
恐らくそれは、彼がホワイトカラーの労働に対し、彼なりの答えを持っているからだと思う。
……僕はどうなのだろうか。
便器を擦って、消毒液を吹きかけ、雑巾で丁寧に拭き上げていく。
ドアノブや便座にもしっかり吹きかけて雑巾で拭き上げ、ゴム手袋を外した。
あれ以来、面倒だが掃除の移動の際は毎度ゴム手袋を外す様にしている。
「厠神様、ここ終わりましたから次に行きますよ~」
「もう作業が終わったのか~? 早いのぉ……」
元々糸目だが、更に目を細めて眉間に皺寄せる様は本当に調子が悪そうだ。
二日酔いで……なんて言ってしまうと、職場では冷めた目で見られてしまいそうだけど。
「主よ、梅干しはあったかのぉ?」
「ありませんよ。それに梅干しを何に使う気ですか?」
「知らぬのか? 潰した梅干しをこめかみに貼り付けると二日酔いが治るのじゃぞ」
怪しい民間療法だ。
ま、どちらにしてもここには梅干しが無いので暫く我慢して頂く他ないのだが。
「行きますよ~」
掃除セットを持って扉を開けると、空中をバタ足で泳ぐ厠神様が「待ってたもれ~」と叫びながら必死に僕の後を追い掛けていた。
階段を上がって五階のトイレを目指す。
この箇所は五階建てだがトイレの箇所が階段近くと言う事もあり、エレベーターを使うよりも、階段を使ったら効率が良い。おかげで毎日一万歩以上の歩数を稼いでいる。
「調子が悪いのでしたらこの辺で休んでいたらどうですか? どーせ誰にも見えないし」
「いや、儂の仕事は厠を清潔に扱っておるのかの確認じゃ。これも神の仕事じゃ~」
「や、青い顔して言われても……。とりあえず外で休んでいてください。とりあえずこの仕事が終われば一旦休憩できますから……」
「ぬ~、そうであるか。では暫し休息しておくことにするのじゃ。主よ、儂が見ておらぬからと言って仕事を怠けるでないぞ」
「へいへ~い」
大きなお世話だと口から出かかった言葉を飲み込み、トイレの前でふよふよと浮かびながら横になる厠神様を尻目に僕はトイレの扉を軽くノックして中に入った。
僅かに籠る異臭……。
汚物特有の鼻にくる匂いに、胃の内容物がぐっとこみあげてくる。
ここに来てラスボス登場。
荷物を置いてゴム手袋をぐっと深く嵌め直す。
トイレ中に吐き気を催すほどの空気が充満しているので、換気扇のスイッチを入れる。
あまり意味は無い事は重々承知の上だ。
匂いの元を完全に断たなければ、このきつさは変わらないだろう。
「おい……、誰か……、居るのか……?」
何者かの声。個室の一つを覗き込むと、顔をしかめたロン毛の社員が便座の上に足を乗せたまま中腰の姿勢で待ち構えていた。
……何か、色々突っ込みたいのだが。
「足ッ!」
ロン毛の社員の指摘で足元に視線を送ると、茶色に濁った汚水がじわじわと忍び寄ってきていたので、思わず飛び退ってしまう。
一体、これは何なんだ?
「さっきトイレに入ったらなんか臭くてさ、隣の便座見たらゲリ便が便器中に散らばってて、鼻が曲がりそうなほど臭かったから、レバー回して流したんだけど、詰まって逆流した」
それで未だ水が出続けているわけらしい。
見るもおぞましい茶色に濁った水がじわじわと床を汚染していく。
匂いは床を侵略する度におぞましいほどきつくなり、僅かでも油断したらリバースフードをブチ撒いてしまうかもしれない。
だが、悠長に鑑賞している間も無い。
浸食は未だ進んでいるし、このままだとトイレから漏れ出た汚水は会社のオフィスにまで行ってしまうかもしれない。
そうなれば被害は甚大なものになる。
ここで食い止めなければならない。
トイレ内にあるロッカーを開け、中の道具を探す。
ここにはモップハンドルなどを収納してあるのだが、こういう時の道具も置いてある筈だ。
ゴム製お椀型のカップが付いた柄つき棒を取り出す。
「スッポンなんかどうするんだよ」
「正式名称はラバーカップですよ。これはこういう時に使うんです」
意を決して茶色の汚水に足を突っ込む。仕事用の靴に履き替えてはいるが水が撥ねないように慎重に足を運んでいく。
……臭い。正直匂いの元に近づく度に吐き戻しそうになる。
ゆっくり歩いて茶色の汚物に塗れた便器を発見する。
詰まった状態で流れつづけているのか、便器から茶色の濁った水がゴブゴブと湧き上がっていくのも見つけた。
直視するのが辛い。逃げ出したい。吐き戻したい。
……でも、これは僕の仕事だ。
汚水の湧き出る便器の奥にラバーカップを押し込む。
茶色の固形物と汚水がべしゃっと便器から零れ落ちていくが、気にも留めず二度、三度とラバーカップを押し引きしていると、ゴボボボ……という音と共に汚水が便器の中へと吸い込まれていくのが見えた。
ズロロロロ……という非常に耳障りな音をさせて詰まりは直る。
「直りましたよ」
便器からラバーカップを引いて、隣の便座に居るロン毛の社員に告げると、額に汗を浮かべて顔を歪めてほっと一息ついていた。
「シャレになってねぇよ……」
まだ仕事が終わったわけではない。と、いうよりも後処理がもっと大変なのだ。
「ここを使用禁止にします。滅菌消毒しますから使用の場合は下の階のトイレを……」
僕はそれだけを告げて、ロッカーから使用禁止の札を出してトイレの扉に貼り付ける。
後は汚水を処理しなければいけない。頭が悪臭でおかしくなりそうだが、出勤時間前までに全ての作業を終えなければならないと考えると、今度は頭が痛くなった。
ロッカーからアルミ製のちり取りと箒を出して汚水をすくい取り、溜まった物を便器へと流して、又汚水をすくい取る。この箒とちり取りも漂白剤を吹きつけた後、天日に晒して滅菌消毒するか廃棄処分しなければならないだろう。
せわしない作業にじっとりと制服も汗ばみ、部屋中に満ちた悪臭が制服に染み込んで嫌な臭いを首筋から発するようになった。
……情けなくなって、泣きたくなる。
何で僕が悪臭に塗れ、クソまみれになって汚物の処理をしなければならないのだろうか。
只、黙々と。安い労働力でホワイトカラーよりも劣るブルーカラーと笑われながら。
そんな自分にお似合いの職種だとでも言うのだろうか。
クソにまみれて悪臭の混ざったトイレに居るのがお似合いな労働者。
……皆、そう言いたいのだろう。
「主よ、無事か!」
扉を蹴り開けた厠神様が慌てて飛び込んでくる。
「これは惨憺たる有様じゃな。大丈夫か?」
「へ?」
悪臭に満ちた部屋で頭が茫然としていたのか、厠神様の言葉が暫し頭に入らなかった。
「換気扇は入れたか? 汚水の逆流は止めておるようじゃな。よし早々に汚物を取り終えて滅菌作業に移った方がよさそうじゃな」
「どうしてここに……?」
見当違いの問いかもしれないが、僕は呆然とした表情のまま厠神様に問いかけていた。
「ん? 外で休んでおったら、以前文句を言ってきおったロン毛の輩が一目散に飛び出してきたのを見つけての。何事かとトイレを見れば使用禁止と札が出ておるではないか。驚いて駆けつけてみればこの惨状じゃ。主よ、よく一人で持ちこたえたの」
「必死でしたよ。放っておけば迷惑極まりない状況に陥りますからね。最悪ここを使用禁止にする程度に収めておくことが必然と判断し、詰まりを直して汚水を処理している最中なんです」
「確かにこの汚水が廊下やオフィスに漏れ出たとなると、被害は甚大なものになるからの。主の判断は間違えてはおらぬ」
力にはならないが仲間がいてくれた事で、少し崩れかかった気持ちが盛り返した。
悪臭に塗れ、頭の中も心も悲しく情けなくなった。
……でも、厠神様が来てくれた事で、僕はほんの少し安心した。
「汚水の処理はあともうちょっとです。後は全てを漂白剤で滅菌消毒しないと」
「……どうやら大丈夫なようじゃな」
厠神様は僅かに頬笑みを浮かべる。
「どういう事ですか?」
「ん? や、主の事じゃから切羽詰まった状況に精神が耐えきれず泣きだすか、逃げ出しているのかと思ったのじゃ。まだ主は労働に対する覚悟が決まらず心に迷いがあったようじゃからな。それも仕方無き事と思っておったが、お主は儂の予想を裏切り、覚悟を決め状況の打破に一生懸命に努めていた。主が最も嫌う臭くて汚い汚物に塗れた現場だと言うのに、お主は額に汗して覚悟を決め労働に勤しんだ。……その心がけに儂の心が打たれたのじゃ」
「別に……。自分のすべき最善を選んだだけです」
そんなにベタ褒めされるような事じゃない。
あの状況下、自分の出来る事でこの状況を治めようと身体が勝手に動いただけだ。
トイレの汚水があふれて、その逆流を止め、汚水を黙々と処理をする。
何一つ、特別褒められた事ではない。
当たり前の事なのに……。どこか心の奥が熱い。
「村上君、大丈夫かい?」
唐突に扉を開けて、西方さんが入ってくる。手にモップとバケツを持ち、汚水の僅かに残る現場を見て、僅かに笑みを浮かべて「じゃ、ちゃちゃとやっちゃおうか」の掛け声と共に職場のおばちゃん達が一斉に入り込んで壁やら便器やらに漂白剤を吹きつけていく。
「みんなでやった方が効率的でしょ」
「あ、いえ……。ありがとうございます」
黙々と滅菌作業に移る面々に向かって僕はいつの間にか大声でお礼を述べていた。
「仕事仲間なら協力するのは当然でしょ」
「これで臭い仲だわよね~」
一人のおばちゃんの一言でトイレの中が和やかなムードになる。
僕は胸の奥から込み上げてきたものを必死に抑えて、汚水を取る作業を続けた。
無言で額に汗して汚水を取り除き、便器を綺麗に磨いて床や壁、便器や排水管、トイレの全てに漂白剤を吹きつけて丹念に吹き上げていく。
無我夢中になって働いて、終わって一息ついたとき。
「答えは出たのか?」
厠神様の問いかけに僕は小さく頷くに留めた。