その八
「んじゃ、とりあえず再開を祝して乾杯~と言う事で」
プシュンと気の抜けたビールの缶を叩き合わせると、小気味の良い音が部屋に響く。
夜十八時。酒宴を始めるには早い時間帯かもしれないが、僕の仕事は十五時には終わるし、彼も早い時間から始めたいと言う事なので、夕方から始まったのだ。
さすがは人生の成功者。僕の住むオンボロアパートに比べれば、彼の住むマンションの心地良さは格段に違う。白い壁、リモコン式の照明器具、簡素ながらもシステムキッチン、風呂とトイレは勿論別々で、上からの不気味な物音なんてしないし、近所からのやかましい喧嘩の音なんて聞こえても来ない。
……これがホワイトカラーの生活水準。
ごくりと久しぶりに発泡酒ではないビールを飲んで、上層階級の暮らしを堪能する。
友人はネクタイを外し、Yシャツを着崩したラフな格好でビールを無言で呷る。
学生時代の面影はあるが、僅かに残る目尻のクマと、くたびれた形相。
哀愁漂わせる雰囲気は活気溢れていたあの頃に比べれば、幾分小さくなったのかもしれない。
「……今、バイトしてるんだって?」
「あ……? いや、うん。就職戦線から離脱したからな。先立つ軍資金が無ければ戦線復帰も出来ないだろ。今は金を稼ぐために汗水流しているよ」
彼とは学生時代、同じバイトで汗水流し合った仲だ。
ブルーカラーの労働なんて、肉体疲労度に比べて割合が取れないほど少ないものだが、それでも汗水流して働いて、その日貰った日給片手に牛丼かきこむなんてものは、いい思い出な訳で、金を稼ぐのならホワイトカラーの職種というのは僕等の夢で、僕達は金を稼ぎ成功するために就職の道を選んだ。……結果、彼は成功し、僕は未だクソに塗れて汗水流している訳だ。
ま、恨みとかそう言う感情は持ち合わせていないけどね。
小さなコップにトプトプトプとビールを注いで傍らへと置いておく。
いつもよりもピッチの早い友人に合わせたせいで、乾きものに手が届く前にビールが二缶ほどあいてしまう。これだけ酔えば妙な行動があっても酔いに任せてごまかせるはずだ。
「今の内です」
僕の合図で厠神様はコップをひょいと机の下に持ち込んでぐびりと呷る。
「くぅあぁぁぁ~~。生き返るのぉ~。酒は百薬の長じゃて」
一気に飲み干した厠神様は頬をほんのりと朱色に染めながら、絶叫する。
小さくて子供みたいなモノだが、一応神様だし、飲酒もいいでしょう。
御神酒ではないのだが、厠神様もぷは~と満足そうに飲み上げている。
「麦酒もいいものじゃな。主の家にある発泡なんとかよりも旨いぞ」
「へぇへぇ。こちとら酒税のかかる高級嗜好品には手が出ませんよ」
ま、こちらもおつまみ持参でビールが飲めるのだから、十二分に有難い状況と言えるのだから、何一つ文句は言えないのだけどね。
板わさをチビチビと食べながら、友人はぐいぐいビールを呷っていく。
学生時代よりもピッチが速いので、こちらも付き合うだけで大変だ。
「村上~、ホワイトカラーの職種は辛ぇよ~」
唐突な絡み酒。すでに顔まで真っ赤になって目が据わっている。
「ピッチが早すぎるぞ。ゆっくりいけよ。急性アルコール中毒になるぞ」
「うるさ~い。飲みたくて飲んでいるのに文句言うな~」
妙に子供染みた反論。窓を開け外に向かって「ばかやろ~」と子供っぽく叫ぶ。
「なんじゃ、奴は酔うと子供っぽくなるのかの?」
子供っぽい厠神様にだけは言われたくないと思うのだが。
とか何とか口走ってしまうと、ドリルキックを喰らいかねないので聞こえないふりをする。
「仕事って何なんだよ~、もう何が何だかわかんねぇよ~。死にたいよ~」
「主よ、死にたいと喚き散らしておるぞ」
「そうですね~」
僕はスモークチーズを食べながら適当に相槌を打つ。
「介錯せんでいいのか?」
「ぶっ!」
思わず口の中のスモークチーズを吹き出しそうになる。
「なんで死ぬ=切腹の図式になるんですか?」
「古来より自決は切腹と相場が決まっておる。しかし江戸中期より切腹作法をキチンと行えるものも少なくなっての。形式として扇子の上に手を添えたのが切腹の現れとなり、介錯人に斬って貰うのが通例であったらしい。主よ、一撃で仕留めぬと苦しむばかりじゃぞ」
何故僕は酒宴の席で切腹作法の話など聞いているのだろうか。
酒が不味くなるばかりだ。
「今じゃ、介錯人もいませんよ。殺人ほう助で罪になりますからね。それに酔った席の戯言は無視するのが通例ですよ」
一々相手にしていたらキリがない。酔っぱらいは記憶も吹っ飛んでいるのでこういう時は適当にあしらうのが一番だ。
因みにコレもバイト先で覚えた知恵だったりする。
「金は稼げるよ……。でも、みんなセコセコしているし、隙を見せないように互いに互いを監視し合っているようで息が詰まりそうになるんだよ……」
「肉体労働は【個】の能力が要求されるが、頭脳労働は【和】を求められるからな。協調性を重んじるのが日本の社会システムだろ」
突出した才能よりも平均能力の高い人材を好む人種。ある意味オールマイティな人材の方があらゆる場面で応用が効くと言うのは理解できるが、反して言えば個性を押し潰して歯車に徹するという意味合いでもあり、これから社会生活を歩む者としては、こういった裏の部分の情報は心の奥底に楔のように打ち込まれてジクジクと鈍い疼痛となっていく。
「金を稼ぐのは必要な事だけどさ、不条理な事に耐えたり、無茶な要求すら笑顔で応対するって、それ本当に仕事の一環なのかよ……。なんかも~、わからなくなってきた……」
サラミの切れ端を摘まんで、テーブルの下で口を開けて雛鳥の様に待つ厠神様の口に投擲しながら、ビールの残りをぐびりと呷った。
彼の愚痴は僕が同意しようとなかろうと黙々淡々と続いている。
ま、愚痴の相手なんて同意を求めて欲しいと言うよりも聞いて欲しいだけの事が多いので、適当に相槌さえ打っておけば、それで満足なのだが、まだ酔いの回らない僕にとって彼の愚痴は自分の将来に立ちはだかる壁という状況に僅かながら恐れを感じる。
「村上……、働くってなんなんだろうな……。人間は成人すれば納税の義務と労働の義務がある。働かなきゃメシは食えない。俺達は食うために働く。暮らしを良くするために労働をする。汗水流して働いて、そして旨い飯を食う。ビールを呷って、あ~今日も働いた~って肩を叩きながら体を休めて明日もまた働くんだろ?」
「そうだな……。それが労働だ」
友人は残ったビールをぐいっと呷る。
耳まで真っ赤になり、腫れぼったい顔をテーブルにくっつけながらモゴモゴが何か言葉を続けていたが、そのまま黙ってしまう。
正に泥のようになった有様だ。
「眠ったようじゃな……」
テーブルにうつ伏せのまま寝息が響くのを確認して、厠神様はテーブルへ上ってくる。
「主の友人はどんな酷使される労働環境で働いておるのか? 炭鉱か? それとも蟹工船か?」
時代が古すぎる。今どき炭鉱で働く工夫なんて見かけないぞ。
蟹工船も同様だ。ま、不漁続く漁師の仕事も大変なのだろうけどさ。
「肉体的疲労と言うよりは精神的疲労ですよ。近代労働の主だった役職は事務作業がメインのサラリーマンですからね。密閉された空間での事務作業。精神がすり減っていく環境と複雑な人間関係の中で上手く立ち回れるフットワークの軽さが求められますからね」
「息が詰まりそうな環境下での労働じゃな」
トプトプトプと厠神様のコップにビールを注ぐと、厠神様はスモークチーズを持ち、大口を開けてガバッと一口に飲みこんでモゴモゴと咀嚼している。
「多くの人がこの環境下で人間関係やいろいろな悩みを持ち、鬱病を発症するんですよ」
「なんじゃ、そんな環境は即座に改善しなければならぬし、辞めた方が良いではないか」
「そうもいきませんよ。ホワイトカラーの労働は基本協調性。一人の失態が多くの人の迷惑に繋がってしまう。それにやはり賃金や待遇がいいのもこの職種ですからね。社会保障もされていますし。皆、辛い仕事だってわかっている。それでも神経をすり減らしながら労働している。それはやはりそういうメリットが大きいからですよ」
「……お主もゆくゆくはホワイトカラーの労働を選ぶのか?」
「そうでしょうね。親も安心させたいですし、労働保障もあります。それに金も稼げますし」
「労働とは、金を稼ぐ手段……だけであったのかのぉ」
僅かに悲しげな口調になった厠神様はグイッとビールを呷る。
「労働の義務がある以上、僕達は金を稼ぐ事が労働と捉えますよ。それが違うと言うなら熱心にボランティア活動をすればいい。この世界は沢山お金を稼ぐ事こそが全てなんです。賃金の差異や労働条件の差異は全て劣ったものとみなされる。僕がトイレ掃除をしていたとしても、あの仕事場の会社員たちは自分達と同等とは見なしていません。それは今の僕がブルーカラーだからです。劣った存在として僕を見ていますよ。臭くて汚いクソまみれの劣った労働者。そういう目でホワイトカラーの連中は僕を見続ける。それは僕が同じホワイトカラーになるまで続くでしょうね」
「主は劣った存在と見下される仕事は誇れぬと申すのか……?」
「いえ、仕事は仕事。その仕事に誇りを持つ事は大切だと思います。……でも、皮肉ながらこの世はそれだけでは何一つ認められる事無いのです」
結局のところ、金も地位も権力もある者が成り立つ社会。
それが嫌なら、マルクス主義に陶酔すればいいだけの話になる。
仕事は仕事で、誇りを持って労働に勤しむ事は肝要だ。
だが、労働は賃金。金を稼ぐ事には差異が生じる。その差異を無くすためにはブルーカラーのままではどうにもならない。
結局この世は、十九世紀の支配階級と労働者のままなのかもしれない。
「儂には、主等の気持ちがよく理解出来ぬ。確かに労働条件が良く賃金の払いが良い仕事にありつこうという心理があるのは理解できる。しかしそこに優劣の差異があることがわからぬ。仕事として誇りに思うてくれているのならば、それが嬉しいに越したことは無いが、何故人はそこまでに優劣を求めるのじゃろうか」
優劣を求めなければ、人はそこに存在価値を見いだせないからなのだろう。
子供の時には差別はダメな事であり、優劣を競う事は愚かな考えと教育するけど、結局、社会形成は優劣の有無であり、優れた物が劣ったものを支配する事で成り立っている。
「それにお主の申す優れた者である筈の奴は、ここまで疲弊しきっておる。お主は泥のようになるまで疲弊して労働する彼等を優れた者とみなし、彼等のようになりたいと申すのか?」
「社会に認められているのならば、それが必然ですよ」
「死にたいとまで申す精神疲労を抱えておる社会がか?」
正直、僕にもよくわからない。
正しい答えなんてないんだろうけど、労働を求められる以上、僕は働かなくてはいけない。
ニートの僕はそれを拒絶して、部屋の中で腐れていた。
だからこそわかる。社会から切り離された孤独と焦燥感。
押し寄せる恐怖は、将来への不安。それと……社会への不安。
働いてみて、実感したのは労働の充実感。
生きている証の様な気がして、仕事上がりの発泡酒は格別に旨かった。
でも、それだけではいけない。僕は金を稼がなければいけないのだ。
「儂は主等のように労働の義務は無い。状況も違う。労働賃金の悩みも無い。じゃが厠神である事を劣ったと思う事は無いぞ。この世には万物八百万の神が居られる。臭くて汚い場所は厠じゃが、無論その場にも神は必要じゃ。厠神として任務を全うする事がこの加牟波理入道の労働なのじゃ。優れた訳でも劣った訳でもない。己への自負、それこそが全てであろう」
「……でも、人間は価値観こそが全てです」
「客観的視点は重要じゃが、何よりも己の主観を見失っては本末転倒じゃぞ。ホワイトカラーの労働条件は今のお主よりも遥かに待遇は良いであろう。しかしお主がその職種につく場合、どのような心掛けであるか、その主観をしっかりと見据えておらぬとお主の自負など脆く折れてしまうのではないのじゃろうか?」
働く事は金を稼ぐ事。……それこそが全てである。
だが、そうだとしたブルーカラーだろうがメタルカラーだろうが、ホワイトカラーだろうが金が稼げる訳で、それが目的なんだとしたら僕の見据える目的は脆く崩れていく。
良い暮らしを求めるとしたなら、どうだろうか。賃金の差異、社会保障の優劣。僕と友人を見比べてみても、その差異は大きい。ホワイトカラーを目指す主観的理由として生活の向上を目指し、ハングリー精神で上っていけばいいのではないだろうか。
「……いい暮らしをしている事が、心を満たしてくれるわけじゃないようだけどな」
泥のように酔い潰れ眠り伏せる友人を見て、それを悟った。
いい暮らしをしているから満たされる訳じゃない。
労働を満足するからこそ、その心は満たされるのだ。
かつて肉体労働に従事し、安い賃金で牛丼をかきこんでいた日々。
僕達は金を稼ぎたいと語り合った。金を稼いでいい暮らしをする事が幸せになる事だと。
友人はその願いを叶えた。そして精神をすり減らして疲弊した。
彼は今の労働に満足しているのだろうか。
金を稼ぐ事。いい暮らしをする事。それが幸せになる事。
そう信じて、彼は今の労働に従事する。
精神をすり減らして。
労働に満足がいかなくとも、それが幸せになる手段だと耐えて彼は明日も働く。
僕は……、どうだろうか。
幸せになる方法なんて、僕には解らない。
「……労働が僕にとって一体何に繋がるか、それが大切って事でしょうかね?」
チップスをバリバリと食べていた厠神様は小さく頷く。
「人が労働に向ける理由などそれぞれじゃからな。しかしながら、そこに向ける意志が弱ければ決意も脆く心を壊してしまう事もある。主よ、大切な事は己にとっての未来をしっかりと見据える事なのじゃ。よく肝に銘じておくがよい」
己にとっての未来を見据えるために、僕は労働に勤しむ事にする。
それが、今僕の出来る最大の努力だからだ。
そう心に誓い、僕は最後のビールをグイッと呷った。
明日も早朝から仕事だ。