その七
女子トイレは男子トイレに比べると、比較的汚れは少ないのだが、鏡周りの汚れに関してはこちらに軍配を上げざるを得ない。
水回りは比較的マシだが、鏡の上部まで滴跡が残る。一体どういう手の洗い方をすれば、自分の身長程ある鏡の上部にまで滴跡を残せるのだろうか。
鏡周りは特に綺麗しておかなければいけない。汚れを拭く時も乾いた雑巾で鏡にグラスクリーナーを少量吹きつけて、直線的に拭いていく。
上から下へ。
体重をかけ過ぎず、真っ直ぐ直線を描くように拭き上げる事で、曇りの無い鏡になる。
鏡周りの掃除の確認は色々な角度からの確認が必要になる。
屈んでみたり、爪先を伸ばして角度を変えても曇りが無ければOKだ。
洗面台周りは水垢を丁寧に拭き上げる事が肝要で、蛇口に曇りを残してはならない。
女子トイレの洗面台の問題点は洗面台の排水口に散らばる髪の毛だろうか。
この会社のトイレは金属キャップが備え付けてあるのだが、取り外し不可の設計になっているのでここで髪を梳かして流してしまうと隙間に髪の毛が詰まり流れが悪くなってしまうのだ。
掃除をする際にも時間がかかって仕方が無いし、ぐっしょりと濡れて排水口内の雑菌がへばりついてベトベトの髪の毛を、針金を使って引っ張りだす作業は心地の良い作業とは言えない。
昼休憩後の簡易作業なのであまり時間を取られてはならず、僕はキリの良い所で作業を引き終えて階段を降りていた。
……仕事は順調に進んでいるが、沈黙を保つ厠神様の存在が不気味である。
や、仕事の最中に口やかましくあれこれと口の挟む事よりもそりゃいいのだが。
ふよふよと宙に浮かんだ厠神様は、糸目のまま無言で僕の後を付いていく。
ま、話す事など無いので、黙っているのならそれでいい。
ブブブブブ……と、ポケットに突っ込んでいた携帯電話のバイブが揺れる。
荷物を置いて、ケータイを開くと、大学時代の友人からの久しぶりのメールだった。
確か僕とは違い、すぐに内定を貰い一流企業の営業部でバリバリ頑張っているのだと、誰かから又聞きした筈だが、何故この時期に僕にメールを送ってきたのだろうか。
なんだ。就職も出来ずニート街道まっしぐらの僕をあざ笑うかのようなメールでも寄越したのだろうか。仕事も順調、合コンで美人モデルの彼女もゲットしちゃったぜみたいな自慢メールだったら、今すぐこのケータイをバキンと逆二つ折りにする可能性があるかもしれない。
興奮する精神をなだめるように深呼吸。
ジト目で厠神様を見るが、無言の厠神様はフイッとそっぽを向いてしまった。
どうやら本当に話す気にもならないと言う事だろうか。
ま、いいけどね。
とりあえず覚悟を決めて、メールを開いた。
文章はたった一文。
至極シンプルな内容。
『もう、死にたい』
そうだね~。これは隠語か何かだろうか。
脳味噌をしっかりコネコネして答えを導き出す。
いや、ほらあれですよ。
「貴方の事が好きすぎて死んでやるんだから、みたいなメッセージですよ」
「なんでそうなるのじゃ!」
厠神様が突っ込みを入れた。
……うん、いつもの厠神様だ。
「大丈夫ですよ。今夜、ソイツの家で飲むってメール送っておきますから。話を聞いてみないとあの言葉に対しどんな返信を送るべきか色々悩むでしょう。そう言う時は直接会って聞いた方がいい」
「ほぉ~、お主も多少ながら人心をわきまえるようになったのか」
「人心どころか、神心までもですけどね~」
厠神様の機嫌を直すのにも一苦労だが、こうやって駄弁る事が出来て僕自身も内心ホッとしている部分がある。僕の前に登場してまだ日が浅いとはいえ、なんだかんだでこの騒々しい状況に慣れてしまっていたと言う事だろうか。
僅かに頬を染めた厠神様は僕の頭を蹴りあげた。
「主よ、あまり厠神をからかうでない。不謹慎じゃぞ……」
そう言ってプイっとそっぽを向いてしまう。
「はいはい。そ~ですね~」
僕はそう言ってため息を吐く。
さて、まだまだ仕事は残っている訳だ。
汗水流してバリバリ働く事にしましょうか。