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その六

「お主よ、男ならクヨクヨと考え込むものではないぞ」

 一応気を使っているのか、付かず離れずの位置に居る厠神様は無言で昼食を取る僕を気にしながら励ましの言葉をかけている。

「はぁ……」

 生返事とは正にこの事だろう。無論、厠神様の言葉など、頭の中にまで入って来ない。

 あの時、次の現場へ来るのが遅い事を心配した西方さんがトイレに来なければ僕は何をされていたのだろうか。あの時は突き飛ばされただけにすぎなかったが、あんな怖い思いはもうしたくないと言うのが正直な思いでもある。

「あの男も今一つ要領の掴めぬ男じゃな。ゴム手袋をつけて清掃する事が不衛生に感じるとは。それは奴の感受性の問題であろうに……」

「そうはいいますが、あれだけ怒鳴り散らされた状況下ではこちらも反論できませんよ」

 乾燥機で乾いた雑巾を畳みながら僕は告げる。

 早朝の掃除が終わったから今日の仕事が終わる訳ではない。

 朝の仕事で使い終わった雑巾を洗濯して乾燥機にかけ、乾かしている最中にもう一度トイレ周りを確認する。この時間は昼休憩前なので社員は就業中で遭遇する事は少ないが、朝だけで汚れる事も多いので、この時間は汚れた部分だけを軽く掃除する作業があるのだ。

「あれ? 畳んでくれていたのかい?」

 先に仕事を終えて事務所に戻り、乾いていた雑巾を畳んでいる作業を続けていた折、西方さんが戻ってきた。

 他のメンバーは早々に昼休憩を取ったのだろう。

 特に群生生活に馴染みが無いので、個別行動は苦にはならない。

 この辺はニートの特権だと言えるだろう。

「お疲れお疲れ。僕はまだ事務処理が残っているから、村上君、先に休憩しておいでよ」

「はい。……ではお言葉に甘えて」

 畳んだ雑巾を収納して、事務所を離れようとするが、その歩みを止める。

「西方さん……」

「ん? なんだい?」

 僕の問いかけに事務机で処理をしていた西方さんがひょいと顔を上げる。

「……トイレ清掃の時にゴム手袋は、嵌めない方がいいんですか?」

「何故だい?」

「……いえ。そうお客さんに言われたもので。ゴム手袋を嵌めて掃除していると不衛生な手で扉とか触っていると感じるらしいんです」

「あ~、よく言われるよね~。……それで村上君はどうしたいと思ったんだい?」

「いや、あの……。キチンと消毒している訳であって、衛生面に関しては問題ありませんし、感染予防の意味からもゴム手袋は必須かと思います」

「そうだね。……僕達自身の身を守る事も経口感染の予防にもなるからゴム手袋は必須だと考えている。でも、この業界はお客様が第一だ。お客様あっての職種になる訳だからね」

 反論の余地は無い。

 客商売である以上、お客様第一である事は必然なのだ。

「でも、そのために経口感染してノロウイルスが蔓延したら、元も子も無いじゃないですか」

「そうだね。この仕事で二次感染を引き起こしたとなると、風評被害も多大な物となるね」

 ニコニコとした穏やかな表情で優しく語る西方さんの真意が汲み取れない。

 一体この人は何を言いたいのだろうか。

 普段から比較的温厚で笑みを崩さない人だが、飄々としていて掴めない部分もある。

「この仕事で大切な事は折り合い兼ね合いも見つけ出す事だよ、村上君。――例えるなら、そうだねぇ、仕事中はゴム手袋を嵌め、退室の時には毎回外すようにすればどうだろうか。そうすればこちらも衛生面では基本問題は無いし、お客様側も素手で扉に触れているのだから、不快には思わない」

「確かに折り合い兼ね合いを含めた良案ではあるのぉ……」

「………………」

 含めた思いがあるが喉奥からその言葉が含み出る事は無く、「……そうですね」と応え、僕は事務所を後にした。


 只、ぼんやりと空を眺めて時間を過ごす。

 青い空に千切れた雲がちらちらと、それを追い掛けながら携帯電話の時計をチラリと見るが、一向に与えられた休憩時間を消費しておらず、小さなため息をついた。

 手早く済ませた昼食が終われば、昼休憩にやる事も無い。

 他の従業員は事務所などで駄弁っているが、基本五十代越えのおばさんなので話も合わず、只一人散歩と称して仕事場の外周をたばこの吸い殻などを回収しながら時間を潰す事も多い。

 独りでいる事がそこまで苦にはならないし、口五月蠅い厠神様が四六時中付き纏っているので、それこそ退屈を持て余す事は無いのだが。

「腑に落ちぬという顔をしておるのぉ……」

「いえ、先程の件は、まぁそれでいいんじゃないかと思いますよ。妥協する事が最善の時だってありますし……」

「ならば、お主は何に対し思い悩んでおるのか?」

 厠神様のその問いには、すぐ答えられなかった。

 落ちていたたばこの吸い殻を拾い上げ、ポケットにしまったビニール袋の中に放り込む。

「……貴方は厠の神と言う事が本当に誇りと思えますか?」

「……? どういう意味じゃ?」

「八百万の神が居られる中で、何故あえて厠神になったのかって事ですよ。臭くて汚い厠の神にわざわざ手を上げる気がしれないのですよ……」

「……なんじゃと?」

 声のトーンが変わる。

 これは流石に厠神様もお怒りになられたかと、思わず身構えてしまうが、対して厠神様は肩を震わせたまま腹を抱え必死に笑いを堪えていた。

「そうじゃな。普通ならもちっとマシな神になる事を選ぶ筈じゃ」

 糸目の端に涙を蓄え、それを拭いながら厠神様は笑みを浮かべる。

「厠は臭く汚い。それはいつの時代も変わらぬ言語のようじゃな。じゃが、厠がなければ主等は生活出来ぬと言うのもまた然りじゃ。じゃがの、臭く汚い厠の神であることを恥ずべき理由などどこにもないであろう。人の汚物が混在する場所におる事が恥ずべき事であるのか? その汚物を綺麗にする事が劣った行為であるのか? 儂にはそうは思えぬ。それは臭く汚い場所であるからじゃが、そこを清潔に保つ事もまた必然であろう」

「……でも、普通の人はトイレ掃除なんて劣った仕事と見ていますよ」

「仕事に従事する事に劣ったものなど、何一つ無いであろう。労働に差別など無い。それを劣った職業、高尚な仕事と位をつける事の方がよほど劣った思考と思えるがのぉ」

 厠神様の言いたい事は十二分に理解できる。

 薄汚い厠の神である事を恥とは思っていない。それは己に誇りがあるからだ。

 厠神としての誇りがあるからこそ、臭く汚い場所であったとしてもそこに居る事が出来る。

 だが、僕はどうだろうか。

 ニート脱却目指して労働に従事している訳だが、この仕事に誇りがある訳ではない。

 トイレ掃除を始めた事で仕事に従事する事の大切さと、楽しさを知ることは出来たけど。

 やはりホワイトカラーとブルーカラーでは賃金も違いもあるし、世間の見る目も違ってくる。

 ま、それでも、ニートよりは幾分マシなんだろうけどさ……。

 トイレ掃除が劣った仕事とは言わないけれど、やはり人前で誇れる仕事なのかと尋ねられれば視線を背けてしまいそうな労働と言うのが僕の想いでもある。

 今朝会ったロン毛社員なんかは、見下した感じだったけど。

「儂のように誇りを持てとまでは申さぬ。じゃが、仕事に従事する以上、その責任はしっかり全うすべき事は忘れるでないぞ」

「そりゃ金貰って仕事するわけですからね。キチンと責任持って果たしますよ。でも僕がどれだけ額に汗して働いた所で評価が低いだけだとしたら、モチベーションだって下がりますよ」

「……まぁ分からぬ訳ではないがな」

「まるで階級制度の最底辺の様な扱いに感じるんですよ。臭く汚く醜く劣った仕事、そんな仕事に従事している人は劣った人格の人間だと周りに思われているような気がして……」

「戯け者!」

 落ち込む僕の顔面にドリルキック!

 その衝撃に身体は仰け反り、尻もちをつく。

「他人がどう見ていようが大切なのは己の心と、己の態度じゃ。主は周りの人間の評価を気にして行動するのか?」

「普通はそうでしょう。この仕事は客商売ですよ。他人の評価の上で成り立つ商売だ。そうなれば人の目を気にする事は当然でしょう」

「そうではない。大切なのは従事する事に対し、何を心掛けるかと言う事じゃ」

「そんな事……、わかりませんよ……」

 僕は理解出来ない。だからこそ僕は人の目を気にしている。

「誇れとは申さぬ。しかし、己の動向は己で見定めることが肝要じゃ。それは今の仕事に限らず、これからの人生の岐路に対してでも十分当てはまる言葉でもある。ニーズに合わせる事は必然、しかしながら己を失ってまで他人に合わせる事、是滑稽に過ぎぬと言う事じゃ」

 僕は厠神様の相手をする事無く無言で立ち上がり、パンパンと埃を払う。

 結局の所、何一つ納得出来たものではなかった。

 このトイレ掃除と言う仕事に対し、情熱も無ければ誇りも無い。

 惰性の様なもので動いている僕にとって、この仕事は恥ずかしい事にしか思えず。

 社員さんとすれ違っても、顔を俯かせて違う存在なのだと思い込ませる事しか出来ない。

 臭くて汚いトイレ掃除で働く人は、あの人達とは違うんだって。

「後はお主自身が答えを導くだけじゃ……」

「答えなんて……」

 そこまで告げて、口籠る。

「……そろそろ時間なのではないか?」

 厠神様の一言に黙々とケータイで時間を確認して、踵を返した。

 思いを頭の中で反復させながら、唇を噛みしめる。

 そんなものないと、言い切れない歯痒さを心の中に押し込めて。

 帰り際に拾い上げた紙屑を力強く握り締めていた。


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