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その五

 清掃業の朝は非常に忙しい。

 曰く、業務開始する前には掃除を終えなけれないけないからだ。

 大きい会社ならば、それだけトイレも掃除する個所も多い。

 それらを出勤時間前にピカピカにしておくことが目的なのだから、悠長に掃除をしている時間など無いのだ。早朝の仕事は正に時間との戦いなのである。

「……にしても、仕事を始めて一番びっくりしたのはこの掃除方法ですけどね」

 小学生の時のトイレ掃除と言えば、ホースで汚れを一気に洗い流し、タイルに粉洗剤を撒いてデッキブラシで擦り、再び水で洗い落として水捌けを良くすれば終了の筈だ。

 天気のいい日は窓を開けて通気性を良くすると早く乾く。

 だが、近年屋内トイレはタイル敷きのタイプが減り、ビニールを床にも敷くようになり、床の排水口を潰す設計となったため、昔からの水をかけた洗浄掃除が出来なくなった。

「お主の事じゃ、子供の頃は洗浄掃除でふざけて水の掛け合いなどしておったのであろう」

「貴方はエスパーですか!」

「主の思考は子供の頃から単純明快の様じゃな……」

 厠神様の呆れたような表情。

「清掃業は効率至上主義じゃからな。いちいち濡らしておったのでは乾くのに時間を取られてしまう。更に最近はタイル敷きも不衛生と思われてビニール式に変わりつつある。まぁ、細菌の繁殖に関してで言えば、どちらでも変わりは無いのじゃがな」

 そこでこの仕事場では、消毒薬を吹きつけて乾いた雑巾で拭く作業で掃除の効率化を図る。

 こうすることで除菌と乾燥の手間が省けるのだ。

 水をまき散らさないので、排水管の有無の必然性はないし、何よりも仕事が早い。

「うっし! 小便器の掃除終わりました」

「よし、ならばお主、小便器にキスをしてみせよ」

「よし、まかせろ……ってオイッ! 出来るかい!」

 危ない危ない。あやうくノリで便器に唇を委ねるところだった。

 嫌でしょ、初キッスの思い出はひんやりと固い感触と塩素の香りって……。

「例え綺麗に掃除したとして、それは出来ないでしょ」

「それ位の愛情が示さぬようで、厠へ敬愛の精神など示せるか~」

 空中で一回転した厠神様が強烈な飛び蹴りを浴びせてくる。

 不意に放たれた一撃に避けることは容易ではなく、後頭部に当たった一撃で頭部はぐらりと揺れ、視界は小便器へと向かっていく。

「さぁ、さぁ、さぁ……。お主の敬愛の示すかの如く、女王陛下に口付けするが如く、小便器の淵に唇を添えるのじゃぁぁぁ」

「絶対に嫌だぁぁぁ」

 淵に両手を据えて必死に堪えているが、後頭部に蹴りを入れている厠神様はドリルの様に自身を高速回転させて後ろからの圧力を高めている。

「喰らえッ! 便器・キス・プレスじゃぁぁ~」

「絶対にするかぁぁぁッ!」

 必死に身体を仰け反って抵抗して見せるが、労働に意欲を見せたとはいえ、ニート期間の長い僕にとって筋肉の衰えは如実に現れる。

 ギリギリギリ……と後頭部の上で周る高速回転ゴマの一撃は確実の僕の体力を奪い、じわじわと便器の淵が近づいてくるのが見えてきた。

 ……このままキスしてしまったほうが、いっそ楽なのではないだろうか。

 必死に綺麗に磨きあげ、消毒を済ませた小便器。基本雑菌は全て【滅菌】されてある。

 特に害は無いので、キスしたとしても何らかの悪影響を及ぼす心配は無い筈……。

「……でも、嫌なもんは嫌なんじゃぁぁぁッ!」

 渾身の力で身体を仰け反らせ、右手で後頭部の厠神様を掴むと床に力いっぱい叩きつける。

「ぷちゅ!」

 変な音が床に押し潰した厠神様から響くが、構っていられない。

 小便器プレスから解放された僕は、手首で額の汗を拭いながら立ち上がった。

 この無駄なやり取りのせいで、掃除の時間がかなりロスしてしまった。

 残りの小便器に消毒薬を吹きつけて拭き上げると、荷物を持ってトイレを出ようとする。

 丁度同じタイミングでトイレに入って来る人影。

 茶髪のロン毛を髪ゴムで一本に束ね、疲れ切った表情で、顎下には無精髭がちらほら見える。

 たまに徹夜明け社員などが洗面所で顔を洗っている姿など見かける事もあるのだが、今回もその類であろうか。ここに居ても邪魔をするだけなので、早々に立ち去る事が得策である。

 ロン毛社員が小便器へと向かうのを確認して、そのまま扉に手を掛ける。

「おい!」

 威圧的な発言に身が縮こまった。

「は、はい……?」

 そっと振り返ると、明らかに苛立っている表情のロン毛社員は不機嫌そうに小さくため息をつき、醜く口の端を上げてこちらを睨みつけてきた。

 ……怖い。喧嘩などした事も無いし、格闘技の経験も皆無である。

 無論絡まれるような環境に陥らないように、至極生活環境においては【無】になる努力を徹底的に行っている。空気と同化し、目をつけられないように目立つべき行動を取らない。

 日陰者が生きていく最善の手段は、敵とならない。

 これが最大の処世術だ。

 だがこの状況下は予期していなかった。これでは空気に徹していても目立ってしまう。

「てめぇ、何、便所掃除にゴム手袋とか使ってんだよ」

「え?」

 僕は扉に触れた手を見た。いつも通りのゴム手袋。

 これの何がいけないと言うのだろうか。

「え、えと……、これはですね……、衛生面で……」

「はぁ? 何言っているか全然聞こえねぇんだけど?」

 怒鳴り散らすような声。

 そりゃこっちはビビって口籠ってきちんと話せてはいないが、威圧的に攻めてくる必然性があるとも思えない。……ま、そう言い返せるだけの気力は僕には無いけど。

「お前、便所掃除にゴム手袋とか使って何考えてんの。それって不衛生って事だろ、不衛生なまま仕事終えて、その手袋で扉触るの? 俺、今から小便するけど、そんな不衛生な所で出来るわけねーよ。お前が出た後俺がその扉触る訳だよ。汚いバイ菌つけたまま次に行くっての?」

「いえ……、このゴム手袋も仕事が終わる度に消毒薬を吹きつけるので扉に触れても清潔ですし、やはり便器を清掃する以上経口感染の心配もあるので、ゴム手袋は常備しておかないと。あ、でも便器は綺麗に掃除して消毒薬を吹きつけたので清潔ですよ」

「じゃ……、舐めて証明してよ……」

 気持ちの悪い蔑んだ表情でロン毛の社員は僕を見据える。

「それは……できません……」

「はぁ? 意味わかんねぇんだけど? お前が小便器は清潔ですとか言ったんだろ。なら清潔かどうか証明して見せろよ。それともその清潔なゴム手袋差し出して俺の小便を便器の代わりに受け止めて見せるか? あぁコラ?」

「いえ……、それは……」

 主張が支離滅裂だ。幾ら徹夜明けの残業で苛々しているからと言っても、この絡みは許されるものではない。……ま、心の中の反論しか出来ないのが情けない所だけど。

「うぇぇぇん。床でおデコ打った~~~」

 すっかり忘れていたが、床から起き上がった厠神様が額をさすさすしながら、ちょこちょこと駆け寄ってくる。

 どうやらロン毛社員にも厠神様は見えていないようである。

「痛いではないか~、痛いではないか~。儂はただ便器への日頃の感謝をじゃな~」

「うっさい! ちょっと静かにしてろ!」

 足の周りでうろちょろする厠神様を怒鳴りつける。悪い方向へのフラグだと感づいた。

 ふと、ロン毛社員へと視線を向けるが、その表情は鬼人の如くであり、クイッと奥へ行こうかと無言のサインを送っていく。

「……No」

 とりあえず「お断りします」と告げてみる。

 対して、ロン毛社員は応える。

「……No」と。

 多分、その意味は「お断りするのをお断りします」という意味なのだろう。


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