その四
「小便器は皿の裏側を洗わなければ、雑菌の繁殖を抑えられぬぞ」
背後で口五月蠅く注意する厠神様に命じられた通り、小便器の皿を外して丹念にブラシで擦る。ネバっとした汚れがブラシに張り付いて思わず悲鳴を上げそうになるが、汚れを全て取り除きたいというよくわからない使命感に満ち、僕は一心不乱にゴシゴシと磨き上げていた。
厠神様に命じられてトイレ掃除のバイトに入って、早一ヶ月。
ようやく仕事の手順にも慣れ、無駄な動きの無い効率的な仕事をできるようになったのだが、相変わらず厠神様の目は厳しい。
「つか、やっぱ仕事のトイレ掃除は違うものですね~」
大きなポイントは全部で三つ。一つは男子女子が別れている事だろうか。今までは当たり前と思っていたが、こうやって仕事に従事しているとその違いにもびっくりさせられる。
男子トイレはやはり小便器周りが汚い。女子トイレは鏡が大きく設置され、水回りの汚れが多いのも特徴的である。
次に汚れの頻度。一人暮らしの家ともなるとトイレの使用回数も少ないのだから、二週間の一度程度の掃除でも問題は無い。だが会社のトイレは使用頻度も高く、掃除をしても次の日には汚れているので、毎日掃除が必要になる。数が多ければその分掃除の回数も増やさなければいけないのは当然だと言う事だ。
最後に様々な種類の便器があると言う事。一般的な家屋はそれこそ洋式便器が多いが、会社ともなると男子トイレの小便器、和式トイレ、洋式トイレと種類も様々であり、これにウォシュレット付きなんてのも含めたら、数もかなり多くなる。それぞれ掃除の仕方も違うのだから、覚えるのも結構大変だったりするのだ。
「お金を貰って掃除をするのだから、しっかり働くのじゃぞ」
「……にしても、小便ってこんなにベトつくものなんですか?」
「人間の尿の殆どは水じゃ。あとはタンパク質の代謝で生じる尿素が含まれる程度じゃな。その他には微量ながら、塩素、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、リン酸などのイオン、クレアチニン、尿酸、アンモニア、ホルモンなどが含まれる。……ちなみに排出された直後の尿は健康な腎臓であれば細菌をこすので、無菌状態なのじゃ。飲尿療法と言うのもあながち間違いではないと言う事じゃな」
「でも小便器や床に散らばったものは、べとついて匂いもきついですね」
「尿素は細菌の好物じゃからな。排出と同時に細菌により分解されアンモニアが発生し、あの独特の匂いを放つのじゃ」
今までトイレに駆け込み不快にしか感じなかった匂いも、そう聞かされると納得してしまう。
「つか、小便器の周りに飛び散り過ぎなんですよ。壁にまでべっとりついているし」
「主等、男は尿道管が長い癖に下手くそじゃからのぉ」
「下手くそ扱いしないでください。勢いよく水を噴出したホースは暴れるの法則です」
「空港や駅のホームなどの公衆トイレなどは小便の汚れを少しでも軽減させるために、小便器の中にあえて汚れや羽虫を描いておくそうじゃ」
「う……、男の性分で狙い撃ちますね……」
「ちなみに滅多に見ないが、女子用の小便器と言うのもあるのじゃ」
コンコンとノック音。
ドアをきぃと開けて壮年の男性が入ってくる。
物腰の柔らかそうな雰囲気とニコニコとした笑顔を浮かべ、僕の仕事手順を黙々と眺めていると、洗面台を前に首を傾げたり屈んでみたりして鏡の汚れを見ている。
西方さんは僕の働く清掃会社の上司で、この担当区域のリーダーでもある。
優しく指導してくれるいい上司だが、仕事に関しては一切の甘さを見せない。
トイレ掃除のプロフェッショナルでもある。
厳しい様に思えるが、この仕事ではこれが当たり前なのだ。
「村上君もすっかり仕事は覚えたようだねぇ」
「はぁ……。ありがとうございます」
ちなみの僕の背後で厠神様はふよふよと飛来しているが、西方さんには見えていない。
どうやら厠神様を見る事が出来るのは僕だけの様だ。
それで何一つ得をしたことは、無い。
「この仕事は地味だし臭くて辛い仕事だから、若い人はなかなか入って来なくてねぇ。君のような若い人が入ってくるのは大歓迎な訳だよ」
面接のとき、西方さんはニコニコとした笑顔でこう話した。
曰く、この仕事にマイナスはあってもプラスはないのだと。
綺麗にして当たり前の世界。それがトイレ清掃業。汚れがあれば怒られるし、綺麗でも褒められることは無い。それが当然であるからだ。
「最近は昔と比べてもトイレを綺麗に使おうと人が少なくなくなってきているからね。この仕事は大変なんだよ。どんなに人前で綺麗に取り繕っていてもトイレの使い方が汚い人はその本質が見えてくるからねぇ」
似たような事を厠神様も仰っていましたよ。
当の本人は云々と首を幾度も傾げて感心していますけどね。
「じゃ、後は任せてもいいかな。僕はフロア清掃のヘルプに行くからね」
そう言って西方さんはトイレから立ち去った。