表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

その三

「厠掃除にもっとも大切な事は【滅菌】じゃ。大便や小便と言った老廃物を廃棄する場所じゃからな。当然雑菌も繁殖しやすい環境に陥り、それが厠特有の嫌な匂いを発する要因となるのじゃ。昔は汲み取り式であったが故にメタンガスも溜まりやすくての。昔の人間は灰を撒いて雑菌の繁殖を抑える工夫をしておった。こうすると肥料にする時にアルカリ成分が加わってより効率的な肥料となるからの」

「いえ、ウチの便所は水洗式ですから……」

「ならば先程申した通り、熱湯に漂白剤を入れ便器に流すが良い」

 早速便所掃除をする事になったのだが、子供の時は掃除の時間トイレ掃除が割り当てられた時はサボって遊んでばかりいたので、掃除の手順が分からない。とりあえずと物奥に放り込んだままにしておいたトイレ掃除の道具を出して、洗剤を便器に振りかけていたら後頭部を蹴られたのだ。

「繁殖した雑菌はその程度では滅菌出来ぬ。一度厠を完全滅菌させるために漂白剤を用いるのじゃ。塩素系の漂白剤の場合は注意致せよ。トイレ用洗剤の酸性薬剤と混ぜると、塩素系漂白剤に含まれる弱塩基である次亜塩素酸が遊離、分解して塩素ガスが発生するのじゃ。大量に吸うと死ぬぞ」

「死ぬ様な物を作らせないでくださいよ……」

 いや、ちょっと前まで死のうと考えていたけど、トイレで死ぬのは嫌すぎる。

「トイレ用洗剤や漂白剤にもキチンと明記されておるわ。それにノロウイルスなどの毒性の強い菌を【滅菌】するには、消毒薬程度では意味が無いからのぉ。それだけ汚れて雑菌も繁殖しておるのならば漂白剤の力に頼るほかないわ。主、ゴム手袋はしておるか?」

 バケツに漂白剤を入れ熱湯を注いで薄めた物をトイレに流し込む。

 独特の異臭がトイレの中に満ちて、扇子を仰ぐ厠神様はパチンと換気扇のボタンを押す。

「窓が無いのならば換気は十分に致せよ。あとマスクも嵌めておけ」

 グニグニとゴム手袋を嵌めて見せた僕は疑問に思いながらもゴム手袋とマスクを嵌める。

 傍から見れば、明らかに不審者だろう。

「ゴム手袋は不衛生な便器を拭くので理解出来ますけど、マスクは?」

「ノロウイルスなどは経口感染じゃからな。手で触れた菌を口へと運ぶ事もあれば、直接口へと付着する事もある。それを防止するためにゴム手袋とマスクは必須なのじゃ」

「……あまり聞きたくは無いのですが、それは菌を持つ便も口に……って事でしょうか?」

「そうならないように防護するのであろう」

 ……やっぱり聞かない方が良かったかもしれない。

 とある文豪は、ドイツ留学をした際に顕微鏡で細菌を見てしまったが故に極度の潔癖症になってしまったというが、その理由が今わかった気がする。

 明日からトイレではゴム手袋とマスクを装着して用を足すかもしれない。

「ブラシを漂白剤に浸けて、溝裏を丹念に磨くのじゃ。目に見える所ばかり磨いていても清潔にはならぬからの」

 厠神様に言われた通り溝裏を丹念に磨いていく。

 熱湯の漂白剤を流したことで汚れが剥がれやすくなり、ボロボロと気持ちの悪い物が剥がれ落ち汚水と混ざっていく。見た目も悪いし、マスクをしても漂白剤と混ざった気持ちの悪い匂いは立ち込めて幾度も胃を絞り上げていくような感覚を覚える。

 幾度か汚れを流して、雑巾を薄めた漂白剤に浸して絞った物で丁寧に吹き上げてトイレ掃除は終わった。

「どうじゃ。厠を綺麗に磨き上げた事で、心も清くなったであろう」

「いえ、思いの外重労働だったもので疲れました」

 比較的屈む動作が多かったせいもあり、腰への負担が半端ない。

 だが、そのおかげで直視する事もままならなかった不衛生な便器も今ではピカピカだ。

「今回は【滅菌処理】をしたから漂白剤を用いたが、普段は重曹を水に溶かしたものや、クエン酸を薄めたもので定期的に掃除すると良い。地球にも優しいしのぉ」

「へいへい……」

 ゴム手袋とマスクを外して、額にじっとりとかいた汗を拭う。

 久方ぶりの労働は身体をべっとりとした疲労感で一杯にさせ、冷蔵庫で冷やされた缶ビールをごきゅりと音を立てて飲みたい衝動に駆られる。

「労働も爽快な物であろう」

「これで金がもらえれば言う事無しですよ……」

 結局これでは自己満足だ。

 働いて金を得る。このシステムが無ければ労働とは言えない。

 現実は人材溢れる就職浪人。

 意欲だけでは成り立たないと言うのも現実な訳で。

「……と、言う訳で暫しお主には厠掃除のバイト経験をしてもらう事にした」

 厠神様はひらひらと一枚の書類をちらつかせて見せる。

「これ、トイレ掃除のバイトじゃないですか。しかも面接明日だし!」

「この業界は汚いイメージが先行して働きに来る若者も少ないからのぉ。主も厠掃除の働きなどと小馬鹿にしておったであろう。然らば実際に働き、その実情を知る事もまた必然じゃて」

 ……そう言う訳で、ニート街道を必死に進んでいた僕の人生は加牟波理入道の出現と同時に臭い便所道へと進む事になった。

 労働には幾つかの道がある。人に注目を浴びる花形もあれば、縁の下の力持ちタイプもあるし、この仕事みたいに人がやりたがらない職種だってある。

 そんな道だからこそ、知る必要があるのではと、トイレ掃除をしただけで思う様になった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ