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その十

「この度は助けて頂いてありがとうございます」

 昼休憩も終わり際の時刻。自分のデスクでスポーツ新聞に目を通していたロン毛の社員の下へ行き、僕は深く頭を下げた。

 トイレ清掃が終わった後は各部署へ頭を下げ続けている。

 特に怒られる事は無かったが、後の仕事を押しての謝罪巡りとなってしまったので、彼へのお礼が一番遅れてしまった。

 僕がトイレの中で汚水処理に四苦八苦する最中、何故タイミング良く西方さん達が道具を持って駆け付けたのか、答えは単純明快。彼がトイレから飛び出して助けを呼びに行ったのだ。

 おかげで一斉に処理をする事ができ、後の仕事にそれほど支障きたさずに済んだ訳だ。

「あ、いや……。ま、俺が流そうと思って詰まらせたのも悪いしな……」

 照れくさいのか、僅かに視線を逸らして頬をぽりぽりと掻いている。

「ま、正直に言うとさ、お前すげぇよと思うよ。俺だったらあの現場は逃げ出してる。ま、事実汚水が溢れて来た時は便座の上に立って避難していたけどな」

「夢中だっただけですよ」

「正直、俺があの状況のまま逃げ出していたらどうなっていたかって考えると、ゾッとするよ。だから、冷静に処理していたお前がちょっとだけ格好良く思えて、俺も何か協力しなきゃと思ってよ。外に行った俺と違ってお前はあのキツイ状況でずっと一人で処理していたけどな」

「……それが仕事ですから」

「羨ましい心掛けだな」

 僕はもう一度頭を下げて、作業に戻る事にした。

 彼はひらひらと手を振って照れくさそうに笑みを浮かべた。


「どうしたのじゃ? 疲労と激務で頭がおかしくなったか?」

「どういう意味ですか?」

「先日まで疲れ切って心まで病む表情をしておったのに、今日はいつもよりも激務なのに、いい表情をしておるからじゃ。……遂に疲労で頭までおかしくなってしまったのかのぉ」

「頭までって……」

 額にジワリと滲んだ汗を拭いながら、一息つく。

 今日は遅れた分、いつもよりも時間が押し迫って忙しい。

 おかげでマトモに昼休憩を取る暇が無いほどだ。

 疲労は身体にべったりと張り付いて、膝周りなんて悲鳴を上げそうになっているし、汗をかいているので早めにシャワーを浴びたい気分にもなる。

 疲れに関してはいつも以上だ。特に精神面の疲弊は尋常じゃない。

 ……でも、反面、心地の良い疲れのように感じるのも事実な訳で。

 ニート時代には味わった事の無いこの爽快な疲弊に、僅かに頬も緩む。

「でも僕はまだ将来どんな職に人生を費やせばいいのか、明確にはわかりません」

「それも人生じゃろうて」

 ……そうだ。これは僕の人生であり、僕が生きるために費やす模索の時間なのだ。

 ただぼんやりと毎日を過ごす事が社会人ではない。

 金を稼ぐだけが社会人ではない。

 仕事に誇りを持ち、全力を持って費やす人生こそ、本当の社会人なのではないだろうか。

 今の僕は額に汗をかきながら、クソの臭い混ざる制服に身を通しているのがお似合いだ。

 それは卑下の言葉ではなく、誇りとしての言葉。

 今の僕が社会人として精一杯生きるために、僕は臭くて汚いトイレ掃除を続ける。

「たった一度の人生じゃ。曲がりくねった回り道をしてみるも悪くは無い。己の人生じゃ。その重ねた経験が今後何に行かせるのか、それを常に頭の端にでも残しておきながら己の道を邁進するが良い。主の道筋は主自身が決める事じゃて」

 だからこそ僕は決めた。

 もう迷わない。

 この仕事を誇りに思い、精一杯の努力をしてみようと思う。

 自分自身がそこにやりがいを見つける事が出来たのなら、全力で投じる事も出来る。

 人生はそこに何を見出したかによって大きく変わっていくのだと思う。

 きっとそれはどんな職種であっても。

 全力で仕事に投じ、その労働に従事する爽快感を得たいから……。

 理由なんて、とりあえずそれでいいんじゃないだろうか。

「……さて、主も大きく成長したようであるし、儂もそろそろ退散するかの」

 空中にふよふよと浮かんでいるくせに、よいしょと膝を立てて立ち上がる動きを見せる。

「儂の仕事はようやく花を咲かせる事が出来た。後はお主に託しても問題はなかろう」

「……厠神様?」

 ぐぃ~と両手を伸ばして背伸びをする厠神様は、ちらりと僕を一瞥する。

「良き面構えとなったな」

「……はい」

「儂の役目は厠の必然さを説く事、そして道迷うものを手助けする事じゃ。主は人生の岐路に迷い儂と出会った。まぁ色々紆余曲折はあったが、主も無事、己の人生の道筋を己の力で進む事が出来たようであるからのぉ……。ここらでお役御免と言うのが筋であろう?」

「いや、そんな……。僕はまだ迷う事も多い筈です。まだ厠神様の力をお借りする事だって」

 鼻っ柱に小さな扇子が突き付けられる。

「儂は言うたではないか。主の人生は主の物であると。己の意志でその人生を歩む。それが本当の意味での責任ある大人になると言う事なのじゃ。そこに儂の手助けなど無用……」

「責任ある大人……」

「言葉で言うのは簡単じゃな。二十歳過ぎれば認識はそうなる。しかし本質として大人とは本来そうあるべきであろう。それは年齢とは別物であり、己が人生を己の選択で歩む事を決した者にのみ与えられると儂は思うておる。……主はこれより大人になった。これからは己の人生に責任が生じる。重々理解して歩む事を心掛けよ。儂からの最後の訓戒じゃ」

「最後って、そんな……」

「悲しむ事ではあるまい。儂は道迷うものへ筋道を照らす役目。主にその必要はないと認識しておる。然らば別れの時であろう。主は己の人生を切り開くが良い。儂は今一度道に迷ったものにその筋道を照らす任へと赴くだけじゃ……」

 ……ここが最初の分岐点。

 これからも幾度か訪れる別れと、次へと始まる人生の岐路。

「……僕は、まだまだ至らぬ人生かもしれません。でも、精一杯頑張って人生を歩んで行きたいと思います。今までのご指南、ありがとうございました」

「別れは神になったとて、辛いものであるの……。ここは互いに背を向けて別れようぞ」

「……はい」

 僕と厠神様は互いに背を向け、それぞれの道を歩み始めた。

 僕は僕自身の人生を歩むために。

 ふと、振り返ると、そこにはもう厠神様の姿は無かった。

 きっと、又新たに道に迷う人の所へと行ったのだろう。

 僕は再び前を向き、歩き始めた。

 ここから僕の人生が始まる……。



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