続々「黒猫」と「独り言」
やっと終わりが見えてきた。
俺はオフィスで大きく息を吐き出す。
デザインプロダクションから、もうすぐ修正済みのPDFがメールで送られてくるはずだった。それに問題がなければイラストレーターのデータを取り寄せて、そいつを印刷会社に渡せば業務は終了となる。
時間はすでに深夜の一時を回っている。静まり返ったオフィス内には俺の他に誰もいない。販促用のカタログに修正が入ったタイミングが悪く、予想外に時間がかかってしまった。
俺はゆっくりと椅子の背にもたれかかった。
その時だった。目の前のデスクに黒猫が寝そべっていることに気がついた。まるで最初から、そこにいたように。
黒猫は寝そべりながらも俺の顔を凝視している。
俺は軽く溜息をついた。すると黒猫は不満げに鼻を鳴らして口を開いた。
静かなオフィスの中で、大きくも小さくもない黒猫の声だけが響く。
「前にも言ったかもしれないが、人前で簡単に溜息をつくもんじゃない」
人ではないだろうと思ったが、話がややこしくなりそうだったので、俺はそれを口にはしない。
「いや、悪気はなかった。ただ、お前はいつも電車の中にいるものだと思ってたんでな」
だって前に会った時、お前は電車の網棚にいたじゃないかと俺は思う。
「電車の中?」
黒猫は不思議そうな声を上げて、言葉を続けた。
「電車の中に住んでいる猫なんているはずがない」
まあ、そうだろうと俺は思う。俺だってそんな話は聞いたことがない。ついでに言えば、オフィスの中に住んでいる猫もいないはずだった。
「それにしても、また随分と疲れた顔をしている」
「さあ、どうなのだろうな。でも、さすがにこの時間だ。少し疲れたのかもしれないな」
自分はどんな顔をしているのだろうかと思いながら、俺は黒猫に返事をする。
「まだ帰れないのか? 終電もなくなった時間だろう?」
その言葉に俺は首を左右に振った。
「いや、もうすぐ帰れそうだ。電車はないから、タクシーで帰るさ」
「ほう、それはよかった」
何がいいのか分からなかったが、取り敢えず俺は曖昧に頷く。
そこで少しの沈黙が訪れた。深夜のオフィスは、まるで世界から音が失われてしまったかのように静かだった。
音が消えてしまったようなオフィスの中だからだろうか。いつかの朝に見た景色が蘇った。
誰かが世界の端をそっと破って、ちぎって貼りつけたような空。それが俺の脳裏で鮮明に浮かび上がってくる。
あの時、俺は何を祈ったのだろうか?
そんな疑問を頭の中で泳がせながら、俺は静寂を破った。
「なあ、何で人は祈るのだろうな?」
「ん? よく分からんな。宗教の話か?」
「そうじゃない。いや、違うのか⋯⋯宗教であろうと、なかろうと人は何で祈るんだ?」
俺の問いかけに黒猫は一瞬だけ瞳を閉じて口を開いた。
「普通に考えれば、神とやらにだろう」
それは俺にも同意できる部分だった。人は神に祈る。それはあたりまえの行為だ。
「俺は信仰らしい、信仰はしてない。神なんて信じちゃいないとまでは言わないが、所詮はそんな程度のものだ」
俺はそこで言葉を切った。黒猫は黙って俺に顔を向けている。その瞳を見つめながら、俺は再び口を開いた。
「そんな俺でも、やっぱり祈る時はある。簡単に言えば、初詣なんかだな。特に何かを信仰をしているわけでもない。それなのに人は何で祈るんだ?」
「生きたいからだろう?」
黒猫はあっさりとそれだけを言った。
「生きたい?」
黒猫の言っていることが分からなくて、俺は言葉を繰り返した。
「生きたいから、人は望む。願うから、それが叶うように人は祈るのさ。死ぬつもりだったら、望みなんてないだろうからな」
願うから、それが叶うように……。
俺は黒猫の言葉を心の中で繰り返した。
「祈りと願いは同じものなのか?」
それは俺の中で単純な疑問だった。意味としての方向は近い気もするが、全く異なる物事であるような気もする。
「祈りと願いの違いなんて、猫の毛並みみたいなものなのさ。猫の毛並みなんて、その日の気分や個体差みたいなものだろう? そこに大きな違いなんてありはしない」
猫の毛と一緒にされても……。
そう俺は思わないでもなかった。黒猫はさらに言葉を続ける。
「対象があるかないのか、対象が個なのか、全なのか。祈りと願いも、そんな違いでしかないのでは? 根っこの部分はきっと同じだ」
黒猫はそこまで言うと、大きな欠伸を一つする。
人前で欠伸なんて随分と失礼だな。
俺はそう思いながらも、確かにそうなのかもしれないと考えていた。
生きたいから、明日もきっと生きてしまうから、こうであってほしいとの望みや願いが生まれる。そして、それらがあるから祈りが生まれ、人は祈るのかもしれない。
「生きたいから祈りが生まれる……だとしたら、祈りは悲しくはないか? 過酷だからこそ祈りが生まれることになる」
そんな俺の言葉に黒猫は少しだけ考える素振りを見せた。
「さあ、どうなのだろうな。人は複雑で正直、俺にはよく分からんよ。そもそも人生が過酷だというのは、お前がそうなだけだろう? 全ての人間が、人生は過酷だと思っているわけじゃない」
撥ねつけるような黒猫の言葉に、俺は無言で肩をすくめた。
「それに過酷であろうとなかろうと、人は生きたいもの。生きるものではないのか? だから、そこに祈りが生まれるのさ」
どうなのだろうかと俺は思う。
やはり俺はあの時、何を祈ったというのか。それは個のための祈りだったのか、全のための祈りだったのか。
それは今でも、俺には上手く言葉にできないままのようだった。
何もできなかった自分がそこにいたから、俺は祈ってしまったのか。
一夜をともに過ごした白に近いような金髪をした少年。その金髪が朝日を浴びていた姿を思い出しながら、俺は自問する。
俺はデスクに放っていた会社のスマホを手にした。
当然、少年からの連絡なんてあるはずもない。
幸せなんて知らないと言っていた少年。そんな少年が祈る時はあるのだろうか。
でも、そうであってほしいと俺は思った。明日も生きたいから祈ってほしいと。
幸せが分からないと言っていた少年。そんな彼に俺は幸せを知ってほしいのかもしれない。
あの朝、別れ際に嬉しそうに笑った少年の顔が、今も頭の中から離れていかない。
底のない思考の渦に飲み込まれていた俺を黒猫の言葉がそこから引き上げた。
「ほら、そろそろデザインプロダクションから、メールが来ているのではないか?」
相変わらず、なんでそんなことを知っているのだ。
そう思いながらも、俺は軽く頷いた。
黒猫の言う通りだった。PCのメールを見てみると、すでに修正済みの確認用PDFが来ている。
「そうか。ならば、俺は眠るとする」
黒猫はそう言って瞳を閉じてしまう。やはりそれまでと同じで、呑気であることに変わりはないようだった。
俺は出力したPDFをプリンターへ取りに行くために立ち上がった。その時、足下に置いてあった鞄を軽く蹴ってしまう。
鞄の持ち手には、クライアントの依頼で作ったばら撒き用のノベルティが付けられている。
デスクの下、暗がりの中でキーホルダーの黒猫が一瞬だけこちらを見た気がしたのは、きっと気のせいだったのだろう。




