悪役令嬢の妹に転生したので、姉と婚約者を交換して死亡フラグを回避します〜って、溺愛とか聞いてないんですけど!?〜
「リリア、アリア。お前たちに婚約の打診が来ている。当家は、是が非でもこの縁談をお受けしなくてはならない。良いな?」
父親であるアイゼンハワー侯爵から『婚約』という言葉を聞いた瞬間、アリアの頭に突然、膨大な量の情報が流れ込んできた。
こことは異なる世界の記憶だ。アリアは、ここよりも文明の進んだ世界で、仕事をする傍ら、娯楽小説を日々の楽しみとしていた記憶を思い出した。
この世界は、かつてのアリアが愛読していたある小説の世界と酷似している。
現在のアリアは八歳。物語が始まるのはアリアたちが十五歳となり、王立貴族学園に入学する日からなので、今はその七年前ということになる。
「アリア、お前も良いな? 顔合わせは来週だ。くれぐれも殿下方の前でその呆けた顔を見せるでないぞ」
「は、はい。申し訳ございません」
記憶の奔流がアリアに流れ込み、それをかみ砕いて理解するまで、アリアにしてみればほんの一瞬の出来事だったのだが、どうやら呆けた顔をしてしまっていたらしい。
アリアは慌てて父親に謝罪した。
父から告げられた情報をまとめると、アリアと双子の姉リリアに、二人の令息から同時に婚約の打診が来たとのことだ。
片や、この王国の第二王子、アルフレッド・フォーサイス。
片や、陰では王家と同等の権力を持つと言われる、教皇の第一子、テオドール・サンチェス。
今回の婚約打診は政略的な意味合いが強く、第二王子と神殿との結びつきを作るためという背景がある。
現在、貴族の間では側妃の子である第一王子派と、正妃の子である第二王子派、真っ二つに分かれている。
アイゼンハワー侯爵家の双子との婚約も、第二王子派の権勢を高めるための策の一つだ。
原作では、姉のリリアがアルフレッドと、妹のアリアがテオドールと婚約する。だが、アリアはそれを何としても阻止したかった。
「今回の件、どちらがどちらと婚約を結ぶかは、まだ決定していない。だが、王家を立てて、姉であるリリアをアルフレッド殿下に宛がうのが筋であろう」
「お待ちくださいませ、お父様」
父にリリアとアルフレッド、アリアとテオドールの婚約を即決されそうになり、アリアは思わず声を上げた。内心ではとても必死なのだが、アリアはそれをうまく隠して、淑女の微笑みを貼り付ける。
「まだどちらと婚約を結ぶか決まっていないのでしたら、今すぐに決めずともよろしいのではございませんか? お会いしてみて、気が合う、合わないもございましょうし」
「ええ、わたくしもアリアに賛成です。顔合わせの後でも遅くはありませんでしょう?」
「……うむ、それもそうだな。どうせ断ることのできぬ縁談だ。せめて殿下方とお前たち、双方が納得の上で婚約を結んだ方が良かろう。そのように返事をしたためよう」
予想外に姉のリリアも賛成してくれて、父も考えを改めたようだ。アリアはほっと胸をなで下ろす。
*
自室に戻ったアリアは、もう一度状況を整理した。
自分は、アリア・アイゼンハワー侯爵令嬢。現在八歳。
父親譲りの茶髪に暗い緑色の瞳で、モブ顔……それなりに整ってはいるが、地味めな容姿の令嬢だ。
リリアはアリアの双子の姉だが、二卵性双生児だったらしく、アリアとは似ていない。
リリアは母親の色を受け継ぎ、黒髪、紅い瞳という、一見気の強そうな美人顔の令嬢だ。
原作では、姉のリリアは、悪役令嬢と呼ばれるポジションだった。第二王子アルフレッドと婚約し、彼を愛していたのだが、彼から愛情が返ってくることはなかった。
アルフレッドは、学園で出会うヒメナ・コールマン男爵令嬢に惹かれていくのだ。それを見て悲しんだリリアは、ヒロインのヒメナをいじめ、卒業パーティーでの断罪の末に婚約破棄され、修道院に送られることになる。
そして、最終的には、修道院に向かう馬車が事故に遭い、崖から転落して帰らぬ人となってしまう……のだが、実はここにからくりがあった。
それはまた後で語るとして、とにかく、リリアはアルフレッドと婚約すると不幸になる。
次に、原作で姉リリアの婚約者となる第二王子アルフレッド。
輝くような金髪と青い瞳を持つ、美丈夫である。公爵家出身の正妃の子であり、次の王座を第一王子と争っている。
第一王子ウィルフレッドは非常に優秀な人物なのだが、母親が伯爵家出身の側妃であり、後ろ盾が弱かった。
それでも持ち前の優秀さと人柄で、彼の周りには優れた者が集まる。後ろ盾さえ整えば、誰がどう考えても、次期国王としてふさわしいのは彼の方だ。
しかし、そんな優秀な兄を持つと、弟の性格がねじ曲がるのは必然。アルフレッドは兄に劣等感を抱き、身分を笠に着た傲慢な性格になっていく。
特に、彼は自分よりも能力の高い者が嫌いだ。優秀な者を踏みつけてやりたいという思考が見え隠れし、賢く完璧な淑女となったリリアにも劣等感を抱く。
強く完璧なリリアではなく、自分を頼ってくれる弱く不完全なヒメナに彼が惹かれていくのは、当然の帰結だった。
原作ではヒメナに求婚した後のことは描かれなかったので、結局、彼と第一王子のどちらが立太子したのかは不明だ。
続いて、教皇の息子、テオドール。
何を隠そう、彼が最凶最悪の問題児である。
柔らかな銀髪に神秘的な紫色の瞳を持ち、繊細で優しげ、中性的な美貌の男性だが、その本質はヤンデレ中のヤンデレ。
原作では、彼はアリアと婚約を結んだが、実はそれ以前からリリアに惚れ込んでいるのだ。
アイゼンハワー侯爵家の双子と婚約を結ぶことになり喜んでいたが、結局彼の婚約者は、容姿も性格も全くリリアに似ていないアリアに決まってしまう。
それでも彼は、表だってはアリアに手を上げたり、不満そうにすることはなかった。アリアがリリアの妹だからだ。学園に入学するまでは、リリアと会うための道具としてアリアを利用している、という感じだった。
しかし、学園に入学してから、彼は密かに研いできた牙をむき出しにする。
アルフレッドがヒメナに惹かれるように、陰で手を回していたのも彼。
リリアの嫉妬を煽り、アルフレッドに断罪をそそのかしたのも彼。
そして彼の一番の罪は――婚約者アリアを事故に見せかけて殺すことだ。
彼はアリアが死んで悲しみに暮れ、辺境の教会で静かに生きることを望む。もちろん演技なのだが、原作では誰もそのことに気づかなかった。
テオドールは教皇の息子だ。父に頼んで僻地の教会をまるごと一つ貰い受け、学園を卒業したら世俗を捨ててそこで暮らすと告げる。
そして、アルフレッドが件の断罪劇を起こす際に、自分の教会と王都の中間に位置する修道院で、リリアを引き受けるよう提案する。
もうお分かりだろうか?
テオドールは、修道院送りになったリリアの馬車を、事故に見せかけて崖から転落させるのだ。
リリア本人は薬で眠らせて、事故の前に馬車から連れ出し、テオドールが自身の教会へと連れ去る。薬で深く眠っていたリリアは、目を覚ました時、事故のことを何も覚えていない。
テオドールは、教会に向かっている時に偶然、近くに倒れていた彼女を保護したとして、何食わぬ顔をしてリリアを教会の奥に閉じ込め、二人きりの楽しい監禁生活を始めるのである。
結論。
アリアがテオドールと婚約をすると、アリアは婚約者に殺され、リリアはさらに不幸になる。
「つまり……このままだと、全員詰むわね」
原作通りに婚約をすれば、アリアは死ぬ。
リリアは婚約破棄されてテオドールに捕まり、監禁生活。
テオドールは闇墜ちして罪を重ね、リリアを手に入れる。
だが、リリアの心が彼に向くことは恐らくない。その心はずっと満たされないだろう。
アルフレッドは、小説の最後では幸せになったかのように描かれていた。しかし現実で、人前で婚約破棄騒動なんて起こせば、ただの恥である。
心の弱さと傲慢さが露呈し、侯爵家の顔に泥を塗り、ヒメナの妃教育も不十分で、恐らく立太子できない……それどころか廃嫡かもしれない。
ヒメナも、幸せになったように見えるが、それは小説の中だけ。見せかけの幸せである。
現実では、アルフレッドが廃嫡される可能性が濃厚。そうすれば結局、愛はあれども金銭的に苦しい生活を強いられることになるだろう。
「よし。こうなれば、どうにかして婚約者を入れ替えるしかない」
リリアにテオドールとかいう爆弾を押しつけるのは申し訳ない気がするが、彼の起爆スイッチであるリリアがテオドールと最初から婚約していれば、彼の闇墜ちは防げるかもしれない。
どちらにせよ、リリアはアルフレッドと婚約していても最終的にテオドールに捕まるのだから、最初から正当な手続きを踏んでくっつけてしまえば、テオドールもそうそう無茶はしないだろう。
アルフレッドは、きっとヒメナに恋をする。
それは、リリアとアリア、どちらがアルフレッドと婚約していても、きっとそうなる。
なぜなら、ヒメナがヒロインであり、ここはヒメナのための世界だから。
「でも、正直あの王子もかなりの地雷案件よね……結婚したら苦労しそうだし、あっちから婚約破棄してくれるなら、それでいっか」
自分が死にさえしなければ、婚約破棄ぐらい何の問題もない。
ヒメナに悪さをしなければ修道院送りにまではならず、自宅軟禁ぐらいになるだろうから、馬車の事故に遭うこともない。
いや、そもそも原作で馬車に細工をしたのはテオドールだから、彼がリリアとくっついたら、もしアリアが修道院送りになっても、馬車は事故に遭うことなく普通に辿り着けるのではないか。
「ひとまずの目標は、リリアとテオドールを婚約させ、自分がアルフレッドと婚約すること。それから、アルフレッドの不興を買わないように、学園では好成績を取らないこと。ヒメナには近づかず、いじめたと思われるような行動を取らないこと。あとは――絶対にアルフレッドを好きにならないこと」
アリアは日記帳に目標を書きこんで、鍵付きの引き出しにしまう。そして、来週に予定されているという顔合わせに向けて、対策を練ることにしたのだった。
*
そして迎えた顔合わせの日、アリアたちは王宮に招かれた。
保護者たちも交えて互いの紹介を終えた後、アリアとリリア、アルフレッドとテオドール、四人で話をすることになった。
アリアは、アルフレッドに気に入られるためにどうしたら良いか悩みに悩んで、原作ヒメナの性格を少しだけ真似させてもらうことにした。
ヒロインのヒメナは、ピンク色の髪と明るい緑色の瞳をもつ、天真爛漫な令嬢だ。
原作ではアルフレッドの寵愛を受け、リリアにいじめられていたが、それでも純真さを忘れない子だった。
コールマン男爵家の庶子で、入学する少し前までは平民だったにもかかわらず、努力を絶やさず、必死に勉強して最上位のクラスをキープしていた。
だが、マナーや貴族間での暗黙の了解などが身についておらず、時折おかしな行動を取ってしまう。
指摘されればそれを直し謝ることのできる健気な子で、周囲も自然と彼女を守ろうと動いていた――リリア以外は。
ただ、アリアは侯爵令嬢として、これまでの八年間、きっちり教育を受けてきた。
マナー違反やみっともない真似はできないし、突飛な行動を取ればリリアや父に訝しまれてしまう。
そのため、アリアは今日だけ『質問魔』になることにした。
「殿下、このお花は何という名前ですの?」
「殿下、あそこに止まっている鳥は何というのですか?」
「殿下、こちらに植わっている香草は、何に使うのですか?」
四人で王宮の庭園を案内してもらうことになり、アリアは積極的にアルフレッドにくっついて回って、簡単な質問をしまくった。
原作通りなら、アルフレッドは、頼られることが好きなはずだ。
「この花は、薔薇の一種で……品種名はよく知らないんだけど、オレンジが鮮やかで綺麗だろう?」
「あの鳥は、この庭園でよく見かけるよ。意外と大きな声でね、歌うように鳴くんだ」
「ああ、これは私も知っている。ミントといって、デザートにのせたりハーブティーにしたりするよ。すっきりした風味の香草なんだ」
「まあ、すごいですわ! アルフレッド殿下は、とても物知りですのね」
薔薇の品種はアプリコットキャンディ。鳥の名前はコマドリ。
わざわざ尋ねずとも本当は知っていたし、ミントを除いてアルフレッドからちゃんとした答えも返ってこなかったが、アリアは大袈裟に褒めて褒めて褒め続けた。
「ふふ、そうか? アリア嬢は可愛らしいな。次はもっときちんと答えられるよう、勉強しておくよ」
アリアの目論見はうまくいき、アルフレッドは気を良くしたようだ。
内心ガッツポーズをしつつ、アリアは嬉しさを隠すことなくアルフレッドに微笑みかける。
ちらりと後ろを振り向くと、リリアとテオドールも、仲睦まじく散策を楽しんでいるようだった。
テオドールの紫色の瞳には、今のところ、一欠片の闇も宿っていない。
これなら、とアリアは胸を撫で下ろしたのだった。
*
顔合わせの結果は、アリアが目論んだ通りに運んだ。
アリアはアルフレッドと、リリアはテオドールと婚約を結び、今のところ特に困りごとも生じていない。
強いて言うなら、王子妃教育が大変だということぐらいか。
だが、アリアは本当に王子妃になるつもりもないので、講師に「もっと真剣に取り組みなさい」「それではアルフレッド殿下をお支えできませんよ」と怒られても、どこ吹く風だ。
学園に入学したらどうせ成績を低い水準で維持しなくてはならない。今あんまり無理をしても意味がない気がするし、アリアは肩肘を張らずに、出来る範囲で頑張ればいいかと思っている。
テオドールは、順調に、まっとうにリリアと絆を深めているようだった。
原作では、テオドールは婚約者に贈り物をする際に、毎回同じものを二つ用意して、アリアとリリア両方に渡していた。本当は愛するリリアにだけ渡したかったのだろうが、生憎婚約者はアリアだったからだ。
しかし、今はちゃんと心のこもった贈り物を、リリアにだけ用意している。アリアには見向きもしないどころか、リリア以外の人間が彼の視界に入っているかどうかも不明だ。
リリアとの姉妹仲は、原作と同じく良好である。
原作ではリリアはアルフレッドを深く愛しているようだったから、婚約者を交換したことでアリアとの仲がこじれないか心配していたのだが、それは杞憂だった。
今のリリアはテオドールを婚約者として大切にし、彼の想いにきちんと向き合い、順調に愛を育んでいる。
これなら、何か予定外の事件に巻き込まれてリリアに何かが起こるということでもなければ、テオドールが闇墜ちする未来は来ないだろう。
そして、アルフレッドは――。
「どうだい、アリア。王子妃教育は順調かい?」
「あら、アルフレッド殿下。いいえ、それが、全然ですの。私、物覚えが悪くて……」
「そうか。だが、心配することはないよ。私とアリアは夫婦になるのだ、互いに不足を補い合っていけば良いのだから」
「殿下……」
「そろそろ、アルと呼んではくれないか?」
目の前で青い瞳を潤ませて、甘い声色でアリアの手を掬い取る。
流れるように手の甲に口づけを落とされ、アリアは赤面してしまった。
「で、殿下を愛称でお呼びするなんて、その、不敬ですわ」
「どうしてだい? 私とアリアは婚約者だろう。私が許可しているのだから、構わないんだよ」
「……アル」
「っ、嬉しいよ、アリア。ああ、早く結婚したいな」
「あ、アルと呼ぶのは、二人きりの時だけですからね!」
原作ではリリアとアルフレッドはこんなに仲睦まじくなかったと思うのだが。
だからこそ、アルフレッドとヒメナの距離感が近すぎることに、リリアは嫉妬したのである。
それに、アルフレッドは原作とは異なり、現状では傲慢さも鳴りをひそめているし、勉強にも剣の練習にも真摯に取り組んでいた。
やはり第一王子に対する劣等感はあるようだが、だからといって極端に捻くれることなく、ちゃんと王子様らしく成長している。どういう心境の変化だろう。
そんな彼に、アリアは毎回のように愛を囁かれているのだ。
アリアはアルフレッドを好きになるはずがないと思っていたし、間違っても好きにならないようにとずっと自分に言い聞かせてきたが、最近、気持ちが揺らいでいるのを自覚し始めた。
「はぁ……今はああだけど、学園に入学したら、捨てられるのよね。ちょっと……ほんのちょっとだけ、寂しいかもなあ」
王宮からの帰り道、馬車の中でこぼした独り言は、誰にも届くことなく消えていった。
*
そして、ついに運命の日を迎えた。
王立貴族学園の入学式だ。ヒメナのための物語が、ここから始まるのである。
学園では成績順にクラスが割り振られ、全部で六クラス。原作では、アルフレッド、テオドール、リリア、アリア、ヒメナ――全ての登場人物が一番上のクラスに在籍していた。
一番上のクラスでは、高位貴族の子女がほとんどであり、男爵家というだけでも珍しいのに、平民上がりの庶子など特別天然記念物レベルだ。各家庭の財力によって、教育格差があるからである。
なのに、小説ではなぜかヒメナはいきなり好成績を獲得し、最上位クラスで入学する。理由は描かれていなかったが、彼女はどこで最高水準の教育を受けたのだろうか。
しかし、現実では物語と違って、そううまくはいかなかったらしい。
掲示されているクラス分けの表を眺めても、最上位のクラスにヒメナ・コールマンの名前はなかった。
彼女の名前は、最下位クラスに連ねられている。
「……入学試験、うまくいかなかったのね」
「そうかい? 確かにギリギリの成績だが、アリアも私と同じ、最上位クラスじゃないか」
「えっ!?」
アリアが思わずぼそりと呟くと、それに反応する声があった。アリアの隣で表を眺めていた、アルフレッドである。
実のところ、アリアは、入学試験で思い切り手を抜いていた。
ヒメナたちと同じクラスになりたくなかったので、最下位とは言わずとも真ん中ぐらいのクラスを目指して、わざと誤答や白紙解答をしたのだ。
それなのに、確かにアリアの名前は、最上位クラスの下から三番目に記されていた。
「わ、私、見逃しておりましたわ。ほほほ」
「同じクラスなら、これから毎日君に会えるな。学園生活が楽しみだ」
「は、はい……私もです。それより殿下、首席なのですね。流石でございますわ、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
一番上、首席の欄に、アルフレッドの名前が堂々と載っていた。
実は原作では、王家が学園長を買収して、アルフレッドの成績を毎回全科目一位にするように工作されていたのだが――。
「総合では一位だが、剣術と数学では二位、物理学に至っては三位か……まだまだ精進が足りんな」
「充分素晴らしいことですわ」
「いや、だが、兄は全ての科目で一位だったと聞く。私は兄には遠く及ばない」
そう言ってアルフレッドは悔しそうな顔をする。けれど、アリアはそれを嬉しく思った。
彼が全科目で一位ではないのは、学園長が忖度をしていない証拠。そして、彼自身が努力を重ねてきた証だからだ。
「殿下はとても努力なさっておいでです。ふふ、私なんて頑張ってもこの程度の成績なのですよ? 首席なのですから、どうか胸を張ってください」
「アリア……。ああ、ありがとう」
嬉しそうにはにかむアルフレッドを見て、アリアは、もう少しだけ彼と一緒にいたいと思ってしまったのだった。
*
結局、原作とは異なり、ヒロインであるはずのヒメナとはクラスが別々になった。
そのため、アルフレッドが彼女と顔を合わせる機会は訪れないかもしれない――アリアは入学式の日から数日間、そんな風に楽観的に考えていたのだが、やはりというか何というか、平穏な日々は長く続かなかった。
アルフレッドとヒメナは、ついに出会ってしまったのだ。
原作と同じように、廊下の曲がり角でぶつかり、転んだヒメナにアルフレッドが手を差し出すという形で。
「ごめんなさい、前を見ていなくて」
「いや、こちらこそすまなかった。怪我はないか?」
「大丈夫です、ありがとうございますっ!」
二人が手を取り合った瞬間、アリアはアルフレッドのすぐそばにいた。だから、気づいてしまったのだ。
ヒメナとアルフレッドが、一瞬ではあったが、息を詰めて互いを見つめ合ったことに。
ヒロインとヒーローが、恋に落ちる瞬間を、アリアはよりにもよって一番近くで見てしまったのである。
「……怪我がないなら、良かった。以後、気をつけるように」
「はい。すみませんでした!」
ヒメナは元気よく頭を下げて、急ぎその場を去って行った。
アルフレッドはその場に立ちすくみ、ヒメナの姿が見えなくなるまで、彼女を目で追いかけ続けていた。
その表情は、アリアからは見えなかった。
*
それからというもの、アリアの学園生活には影が差し始めた。
ヒメナが、アルフレッドの前に現れることが増え始めたのだ。
やはりこうなったか、とアリアはため息をつく。
リリアと婚約者が交換になっていたり、婚約者とそれぞれ仲が良くなっていたり、ヒメナとはクラスが違っていたり、原作とは変わった部分が多かったので、正直、この流れにならないかもと少しだけ期待していた。
予想外だったのは、リリアとテオドールも、ヒメナの行動に巻き込まれていることだ。
ヒメナは、何故かアリアではなくリリアを敵視し、必要以上に怖がる素振りを見せている。リリアの婚約者はテオドールだから、ヒメナがアルフレッドに接触することで嫉妬するはずもないのに。
一方で、ヒメナはリリアの婚約者であるテオドールに対してはアプローチを仕掛けていない。アリアのことも、リリアのおまけ程度にしか思っていないようだった。
「……きっと、彼女も転生者ね」
アリアはそう結論づけた。
原作のヒメナは健気で純粋で努力家で賢い、好感の持てるヒロインだった。
しかし今のヒメナからは、あざとさが見え隠れしている。ただ男に媚びているだけで、努力はせず、いつまで経っても最下位クラスのまま。
ただ、ヒメナのクラスが上がる様子が全くないので、アリアもテストで手を抜かなくて良くなったのは幸いだった。バランスを考えながら、バレないように手を抜くというのは、実際には満点を取る以上に難しい行為なのである。
閑話休題。
ヒメナは、アリアがアルフレッドの婚約者に変わっているということに気がついていないのかもしれない。
今の彼女には親しくしてくれる友達もいないようだし、アリア、リリア、アルフレッド、テオドールの四人は、いつも大抵固まって行動しているからだ。
ヒメナは「リリアにいじめられた」と嘯き、自作自演で悲劇のヒロインになり切り、アルフレッドの同情と関心を買おうとしている。アリアにはそれがとても滑稽に見えた。
しかし、ただ滑稽だと笑ってもいられない。
問題は、アルフレッド自身がヒメナと恋に落ちてしまったことなのだ。
アルフレッドは徐々にアリアのそばを離れるようになり、テオドールとヒメナと行動を共にすることが多くなっていった。
自然と、アリアはリリアと一緒にいる時間が増える。
アルフレッドにいつか捨てられるかもしれないと覚悟していたアリアと違って、テオドールと愛を育んできたリリアは、少しずつ憔悴していった。
「あのご令嬢、何を考えているのかしら」
「アリア様やリリア様を放っておいて、アルフレッド殿下やテオドール様はどういうおつもりなのでしょう」
アリアとリリアと仲の良い令嬢たちも、憤慨している様子だ。しかし、今のリリアに立ち向かう気概はない。
「皆様……おやめになって。わたくしが……、愛されないわたくしが悪いのです」
「……リリア……。そうよ、私たちが悪いのよ、リリア。婚約者を信じない私たちが」
「アリア……?」
リリアは、紅い瞳に涙をためて、驚いたようにアリアを見た。
「信じましょう。テオドール様は、リリアのことを誰よりも深く愛しているわ。それこそ、リリアがいなくなったら病んでしまうぐらいに。貴女はテオドール様の婚約者なのだから、あの方の愛を信じるべきよ」
「……! そう、よね。わたくしとしたことが、少し弱気になっていたみたい」
「ふふ、少しじゃないけどね。リリアには元気出してもらわないと、私も悲しいから」
「そうね。わたくしも同じ気持ちよ、アリア」
リリアはアリアの手を両手で包む。リリアの手は少し冷たくて、震えていた。
「リリア、大丈夫よ。貴女は絶対に大丈夫」
アルフレッドはアリアを捨てるかもしれないが、あのテオドールがリリアを捨てるはずがない。
「アリア、貴女も、きっと平気よ」
「いいえ。私は……、命さえ奪われなければ、それで充分よ」
「命って……?」
アリアは誤魔化すように笑った。
このままだと、婚約破棄は、確実に行われるだろう。それはもう仕方がないとして、アリアは、回避したはずの死が迫ってこないかどうか、そちらの方が心配になっていた。
――この時、二人の会話を聞いていた令嬢が顔を青ざめさせて自分の婚約者に相談しに行くなんて、アリアは思ってもみなかったのである。
*
そして、終わりの時は、予想よりも早く訪れた。
物語の最終幕は、原作ではアリアたちの卒業パーティーであったが、現実には一年次の終業式の日に引かれることとなった。
卒業パーティーに比べればささやかな場だが、学年ごとに学年末パーティーが催される。
卒業パーティーのように王宮で開かれるわけではなく、会場は学内だ。一年生には剣術用の体育館、二年生にはダンス用のボールルームが会場として開放されている。
保護者も来校していないし、正装ではなく制服での参加となるから、原作の断罪劇の舞台とは趣が全く異なっていた。
「歓談中のところすまない。少し私に時間をいただきたい」
原作小説とは異なり、怒鳴るわけではなく通る声でアルフレッドが宣言し、会場の注目を集めた。
アルフレッドの隣には、婚約者のアリアではなく、ヒメナが。ヒメナを挟んで更に隣には、テオドールが立っている。
「リリア・アイゼンハワー侯爵令嬢、こちらへ」
「……はい」
リリアは凜とした表情を崩さず、中央に進み出る。
アリアは――本来ならば、この場所にいなかったはずだ。だが、今も生きている。アリアは少し逡巡してから、観客たちの輪の後方に陣取った。
「貴女には、容疑がかけられている。こちらにいるヒメナ嬢を虐げたという容疑だ。……ヒメナ嬢」
「はい……リリア様には、強い口調で怒鳴られたり、教科書を破かれたり、こないだなんて階段で突き飛ばされて……! あたし、怖かったんですっ!」
ヒメナはみっともなく喚いているが、誰もやっていないはずのこれらの行動の証拠は、きちんと揃えているのだろうか。
原作ではテオドールの協力がなければ、リリアが実際に行動に起こしていたとしても、証拠は揃わなかったはずだが。
「……こう言っているが、真実か?」
尋ねるアルフレッドの口端にも、嘲るような笑みが浮かんでいる。
いくらアルフレッドがヒメナに惚れているとしても、原作と違い、今の彼は聡明な人だ。真実のはずがないと理解していて、あえて尋ねているのだろう。
おそらく、原作以上に心許せる親友となった、リリアの婚約者テオドールのために。
「いいえ、事実無根でございます」
アリアの想像は、当たらずとも遠からずらしい。リリアがはっきりと否定すると、アルフレッドは満足そうに頷いた。
だが、ヒメナはアルフレッドの様子に気づかず、リリアに言い募る。
「嘘よ! あたしがアルフレッド様と親しくしたから、リリア様は嫉妬したんです」
「お尋ねしますが、ヒメナ様がアルフレッド殿下と仲良くされているからといって、わたくしが何故嫉妬するのでしょう? 貴女は妹のアリアを悲しませていたので、苦言を呈したことはございましたが」
「え? アリア? 彼女は、馬車の事故で死んだんじゃ――」
「いいえ、生きておりますわよ。ねえ、アリア」
リリアに呼ばれて、アリアは観客の輪から抜けだし、中央へと歩みを進めた。
リリアも、アルフレッドも、テオドールも口角を上げて微笑んでいる。
ヒメナだけが幽霊を見るような顔をして、目を見開いていた。
「ご覧の通り、アリア・アイゼンハワー侯爵令嬢は息災だ。誰か、馬車の事故で彼女が命を落としたという話を耳にした者は、この中にいるか?」
会場からは、何の声も上がらない。
「では、質問を変えよう。アリア嬢が何者かに命を狙われている、という話を耳にした者はいるかな?」
この質問には、会場のほとんどの令嬢、令息から手が挙がった。
アリア自身は、実際に命の危機を感じたことがなかったので、会場中から寄せられる心配そうな視線に目を瞬かせていた。
「――実は秘匿していた話なのだが、学園に停めてあったアリア嬢の馬車に、細工がされていた。走行中に車輪が外れる細工だ。この噂を耳にしたテオドールが気づいてくれたから良かったが、もしも気づかずにアリア嬢が馬車に乗っていたら、彼女は命を落としていたかもしれない」
テオドールは、すう、と目を細めた。
その瞳の奥にはほんの少しだけ闇の欠片が見え隠れしており、アリアはなるほどと納得した。
どうやら、テオドールが馬車の細工を見抜いたことにしたらしい。
だが……報告したのもテオドールだが、細工をした実行犯も、おそらくテオドールだろう。
敵に回すと、つくづく怖い男である。
だが、そうなるとよく分からないのはアルフレッドの行動だ。
何のために、テオドールを使って、ヒメナの不利になるような偽証を用意させたのだろうか。
「私は、気がついていた。ヒメナ嬢、君が最初から、私の婚約者、アリア嬢に危害を加えようとしていたことを。あの時……廊下で君にぶつかりそうになって私が避けたら、君はアリア嬢たちの方に勢いよく向かっていこうとしただろう」
アリアは、その言葉に衝撃を受けた。あの時、アリアはリリアとの会話に夢中になって、前をよく見ていなかったのだ。
アルフレッドが、身を挺してアリアを――もしかしたらヒメナが狙ったのは、隣のリリアだったかもしれないが――庇ってくれたのだと気がついたのだ。それで、彼は探るようにヒメナをじっと見ていたのだろう。
「え……? 待って、アリアが婚約者? どういうこと? アルフレッドの婚約者はリリアじゃ――」
「おい、お前、不敬だぞ」
「良い、テオドール。どうせこいつは充分すぎるほど不敬を重ねている」
アルフレッドは、ゴミを見るような目でヒメナを見ている。そこには、アリアに対するときのような熱は一切宿っていない。
「ヒメナ・コールマン男爵令嬢。君は学内の風紀を乱し、リリア嬢の尊厳を踏みにじり――そして、近い未来に王子妃となる、アリア嬢を殺そうとした。幸い、未遂に終わったが、その罪は到底許されるものではない」
「そ、そんな……あたし、知らない。知らないっ!」
ヒメナは首を一生懸命に振って喚いていたが、騎士科の学生が二人で両脇を固めて、出入り口の方へ引っ張っていった。
「ヒメナ嬢。君の罪は重いが、まだ学生だ。君の身柄は、一旦学園長預かりとなる。ご両親にも、そろそろ連絡が行っている頃だろう。しばらく反省するのだな」
こうして、断罪劇は原作とは全く異なるものとなって、物語は幕を閉じた。
「皆、耳汚しをしてすまなかった。しかし、これで学内の心配事は解決したゆえ、今後は皆も安心して学園生活を送ってほしい。さあ、気を取り直して、パーティーを再開しよう」
アルフレッドが宣言すると、皆一様に明るい表情で、歓談を再開した。
アリアたちだけではなく、同級生たちも皆、突飛な行動で学内を騒がせていたヒメナのことが、気になっていたようだ。
パーティーが再開されたのを見て、アルフレッドは小さく息を吐き出すと、アリアの方へ歩み寄り――ぎゅう、とアリアを抱き寄せた。
「あ、アルフレッド殿下?」
「すまない、アリア。寂しい思いをさせた。学内でも大きな問題になっていたし、何より君に危害が及ばないように、私自身があのゴミ虫の監視をしておくのが最善手だったのだ」
「ゴミ虫って」
「その通りだろう?」
アルフレッドが身体を離して、当然のように言う。アリアはくすりと笑った。
「でも、それならそうと言ってくだされば良かったのに。私はてっきり、殿下がヒメナ様を好きになってしまわれたのかと」
「いや、私があんなゴミ虫を好きになる可能性など、万に一つもないが……伝えなかったことに関しては、本当にすまない。ヒメナ嬢と話している時、君が切なそうな顔をして私を見るのが、たまらなく嬉しくて……」
「まあ、どういうことですか、それ!」
「私はいつでも君からの愛情に飢えているということだよ」
アルフレッドはそう言って、アリアの手を取り、その甲に口づけを落とす。アリアの顔が、かあっと一気に熱を帯びた。
「でも、良かった」
ほうと息を吐くアリアの目から、きらめくものが一筋こぼれた。アルフレッドは愛おしげに目を細め、アリアの目元を指先で優しく拭う。
「……私、ヒメナ様がいるからって、自制していたのですわ。貴方のことをこれ以上好きにならないようにって」
「……っ」
「でも、もういいんですよね。私、貴方との幸せを望んでも……貴方の隣で生きていても、いいんですよね?」
「ああ、もちろんだ。一生、私の隣にいて、私を支えてほしい。私は、一人では立てないのだから」
アルフレッドは、アリアのおとがいに指を置く。アリアは、首肯する代わりに、ゆっくりと瞼を閉じた。
柔らかなぬくもりが、唇にそっと触れて、静かに離れていく。
「愛しているよ、アリア」
「私もお慕いしていますわ――アル」
アリアとアルフレッドの抱擁に、あたたかな拍手が巻き起こった。
リリアとテオドールも手を取り合い、肩を寄せて、その光景を幸せそうに眺めている。
こうして、悪役令嬢は、幸せな恋をした。
悪役令嬢を連れ去るヤンデレ男は、闇墜ちすることなく、愛する人を手に入れた。
傲慢な王子は愛を知り、支え合うことを知り、自ら新たな運命を切り開いた。
そして、死ぬはずだった悪役令嬢の妹は、あたたかな輪の中心で、朗らかに笑っていた――。
お読みくださり、ありがとうございました!
【アリア・アイゼンハワー】
転生者。原作では婚約者テオドールに殺される。
アルフレッドと婚約したが、いずれ捨てられると思っていたので、彼に愛情も恋心も抱かないつもりだった。
しかしアルフレッドを質問攻めにしたことで彼の学習意欲に火を点け、無自覚に更生させ、溺愛される。
【リリア・アイゼンハワー】
アリアの双子の姉。原作ではアルフレッドと婚約していたが、断罪の末婚約破棄され、最終的にはテオドールに監禁される。
現実ではテオドールと婚約し、順調に愛を育んでいる。アリアとの仲は良好。真面目で、成績も上位。
【アルフレッド・フォーサイス】
第二王子。公爵家出身の正妃の子で、王太子の位を第一王子と争っている。原作では優秀な第一王子に劣等感を抱き、性格がねじ曲がっていた。
現実では、アリアの質問にきちんと答えられなかったのが悔しくて、勉強に力を入れるようになる。そして、アリアのように他人を素直に頼ることや、苦手を補い合うことの大切さを知る。
第一王子を王太子に据え、自分はその補佐をするのがベストだと今は思っている。
【テオドール・サンチェス】
教皇の息子。ヤンデレ。お見合いの前に実はリリアと出会っていて、彼女に想いを寄せていた。原作では全部の黒幕だったりする。
現実では愛するリリアと婚約できたので、ヤンデレ化していない。ヒメナによってリリアの悪評が立てられたので、心の内ではブチ切れていた。
【ヒメナ・コールマン】
原作ヒロイン。原作ではアルフレッドの寵愛を受け、リリアにいじめられていた。純真、健気、努力家で、周囲が自然と彼女を守ろうとする人たらしだった。
現実ではあざとく男に媚びて、努力はしない。転生者。




