(4)
『検査の結果、桐山亜白様は大変妊娠がしにくい体質だということが判明致しました。』
白い紙に印字された文章を見る。
何度も見たが、もちろんその文章が最初に見たときから変わるなんてことはあり得なかった。
下校して帰宅すれば、暗い顔をした母親がうなだれていて、おどろいてどうしたのかと問えば、差し出されたのは政府からの郵便だった。
その内容物は、高校へ入学する前に行われた健康診断の結果。
『検査の結果、桐山亜白様は大変妊娠がしにくい体質だということが判明致しました。』
もう一度その文章を目で追ったが、やはりその文字列が変わるなどという非現実的な出来事は起こらなかった。
前世の記憶を持ってパラレルワールドへ生まれ変わるなんてことが現実に起こったのだから、またたく間に文章が変わるとか、それくらい非現実的な出来事も起こっていいと、どこかとんちんかんなことを考えた。
「亜白ちゃん……大丈夫よ、相性のいい男性と出会えたら、亜白ちゃんだって子供を産めるんだから……」
涙ぐむ母親を見て、私は申し訳ない気持ちになった。
政府からの郵便物には、遺伝子などで相性を診断するマッチングサービスへ登録することを促す書類もあった。
恐らくそこで相性がいいと診断された男性とならば、妊娠する確率は上がるんだろう。
こんな世界で女性に生まれついた私が選べる選択肢なんてたかが知れていると理解していたが、思っていたよりもその選択肢の数は少なかったらしい。
「おはよー亜白」
「おはよ……」
朝から元気いっぱいの紅壱と、寝起きで普段よりさらにテンションが低い乃蒼。
例の政府からの通知書類を受け取っても、日常とは地続きなわけで、一歩家を出ればふたりが待っていた。
「なんか元気ない?」
「……体調悪いのか?」
ふたりの顔を見るのがなんだか情けないような、申し訳ないような気持ちになって、一瞬だけ目をそらす。
たったそれだけの行動で判断したわけじゃないだろうけれども、ふたりとも目ざといなと思う。
「えー? 昨日ちょっと夜更かししちゃったからかなあ。元気ないように見えた? 大丈夫だよ」
夜更かししたと言うか、寝つけなかったのは本当だ。
深夜になってもスマートフォンで延々検索していたから。
けれども検索結果を漁っても、出てくるのはお定まりの暗い未来ばかり。一筋の光も届かないような深海の中に、突然叩き落されたみたいな不安な気持ちを魔法みたいに払拭する文章は、当然のごとく見つけられなかった。
「え、珍し」
「ほどほどにしとけよ」
「わかってるわかってる。……それじゃ学校行こ」
無理に明るく振舞っている自覚はあったが、ふたりともそれにはあまり突っ込んでこなかった。
当然ながら、紅壱も乃蒼も、私が「妊娠しにくい体質」だと診断されたことを知らない。
母親は伯母――母親の実姉――にだけは相談したようなのだが、結果は「政府のマッチングサービスを利用して出来る限り相性のいい男性を探す」という、当たり前の言葉しか返ってこなかったようだ。
母親はなんだったら私よりもショックを受けて、落ち込んでいる。
自分の話ではなく娘の話で、自分ではどうしようも出来ない領域の話だからこそ、かなり動揺して落ち込んでいるといった感じに私には見えた。
前世もあわせれば私は母親よりも歳上であったが、こういうときどういった言葉をかけるのが適切なのかは、残念なことにさっぱりわからなかった。
前世とは世界の常識が違うこともあったし、単純に私の成長する気配のない社交スキルも影響していた。
だから結局、家の中がお通夜みたいな空気のまま、私はいつもより急いで朝食を胃に収めて、薄情なことに早々に家を出ることにしたのだった。
紅壱だけはクラスが違うため、別れて乃蒼と自教室に入る。
乃蒼は最後部の席で、私は運の悪いことに最前列。けれども今はそれだけ距離があることに、どこか安堵している自分がいた。
こっそりとスマートフォンを取り出し、画面に目を落とす。
昨晩インストールしたばかりのアプリのアイコンを見る。
それは政府が主宰するマッチングサービスのアプリで、インストールしたもののまだ一度としてタップしてはいなかった。
――前世でもマッチングアプリ使ったことなかったから、まずは使い方とか空気感とか事前に調べておきたい……。
教室に入ってくるクラスメイトたちが増えてきたので、私はあわててスマートフォンをスリープ状態にする。
黒い画面に、不安そうな眉毛の私が映る。
その顔はなんだかものすごくブサイクに見えた。
放課後、週に二度ある家庭科部の活動に顔を出す。
一方ふたりは委員会に出ていて、もし私の部活動のほうが先に終わったら図書室で待っていることになっていた。
そしてどうやら私の部活動のほうが先に終わったらしい。
私はスクールバッグに簡易なラッピングをしたブラウニーを詰め込み、先輩たちに別れを告げて図書室へ向かうことにした。
「おーい、桐山ー」
名前を呼ばれて振り返れば、同じ中学校に通っていた男子生徒が立っていた。
今はクラスが違うので接点はないはずの男子生徒は、なぜかにやにやと見るものを不愉快な気持ちにさせるような表情を浮かべている。
なんだか嫌な予感がしたが、決めつけるのもよくないと、そんな直感を脇へと押しやり、近づいてくる男子生徒を見上げる。
けれども結論から言うと、そのときの私は直感のほうを信じるべきだった。
「話があるんだけど」
「それって、今じゃないとダメな話?」
「お前がさー、『最低ランク女性』になったってマジ?」
……『最低ランク女性』。それは「妊娠しにくい体質の女性」や「妊娠できない女性」に対する、インターネット上で用いられている蔑称だ。
昨晩、延々と検索をしていて何度も見かけた言葉だ。
私は一瞬、なにを言われたのか理解できずに固まってしまう。
それを男子生徒――どうしても名前を思い出せない――はどう受け取ったのか、下卑た笑みを深めた。
「え? マジなんだ?」
「違うけど。だれに聞いたの?」
「え? お前のイトコだよ」
「イトコなんてたくさんいるんだけど」
「えー、お前と同じクラスのさあ」
私と同じクラスにいるイトコはひとりだけ。――ミリカだ。たびたび乃蒼に絡んでは、すげなくあしらわれている彼女の顔が浮かぶ。
そう言えば母親は伯母……ミリカの母親にだけは相談したと言っていた。
伯母が娘であるミリカに故意かうっかりかで洩らしてしまったか、あるいはミリカがメッセージを盗み見たか。
「そんなことよりマジなの?」
「……ミリカの言ったことなら嘘だし、仮にそうだったとしてもあなたには関係ないと思うんだけど」
「えー? 協力してやろうと思ってさ」
「は?」
「子作りは回数が重要だろ?」
――最悪だ。
あまりにも最悪すぎる物言いに、私は絶句してしまった。
名前も思い出せない男子生徒への好感度はゼロどころか、地を突き破って今やマイナスに落ち込んでいる。
「……私、紅壱と乃蒼と待ち合わせしてるから」
けれどもこの手の輩に真面目にこちらがなぜ不愉快な気持ちになったか、などを説いても大した効果は得られないだろう。
私はそう判断し、踵を返そうとした。
「おい、待てよっ」
「――痛っ」
しかしそれは叶わず、男子生徒が乱暴に私の二の腕をつかむ。思わずうめくくらいには力強く、私はますます不愉快な気分になった。
「こっちが親切に協力してやるって言ってるのにさー、その態度はないんじゃねえの?」
「……ご親切にどうも。でも、今はその協力は必要としていないので」
「虚勢張ってる場合かよ。なんだよ、俺が子作り手伝ってやるって言ってあげてんじゃん」
「だから、必要ないって――」
私の言葉尻は人体をぶん殴る鈍い音に気を持っていかれ、形にならなかった。
簡単に状況を説明すると、私に最悪な物言いをしていた男子生徒の後頭部を紅壱が殴った。
階段付近でのやり取りだったから、角の向こうから紅壱が恐ろしい形相を覗かせるまで、だれかが近づいてきていることに気づきすらしなかった。
私の二の腕から、男子生徒の手が離れる。
男子生徒は床にうずくまるようにしてかがみ込んでいたが、その丸くなった背が今度は蹴り上げられた。
再び、鈍い音が私の耳にも届く。
男子生徒を蹴り上げたのは乃蒼だった。
「――なにを手伝ってやるって? もういっぺん言ってみろよ」
床に転がった男子生徒に馬乗りになり、紅壱がその胸倉をつかみ上げる。
「最悪最悪最悪。亜白になに言ってんの? マジ死んで欲しい」
恐怖に引きつった顔をする男子生徒へ、乃蒼が冷たい軽蔑の眼差しを向ける。
「……なあ、もう一回言ってみろよ」
「――ひ、ひいっ」
「『ひい』じゃなくてさ~……なに言ったかわかってんだろ?」
男子生徒に詰め寄る紅壱を見ていれば、乃蒼がそっと近づき、その背に隠すようにふたりと私のあいだに立つ。
「亜白……大丈夫、じゃないよね?」
「いや、あの、あの男子のほうが遥かに大丈夫じゃない感じだよね?」
「は? あんなゴミカスのことなんて今はどうでもいいでしょ」
「ゴミカスには同意するけど、暴力沙汰なんて起こすほうがまずいから……!」
私が上目遣いを意識して、「お願い乃蒼、紅壱を止めて」と言えば、乃蒼は深い、それは深いため息をついて、渋々紅壱のもとへと向かい、なだめるようにその肩を叩いた。
「……なに、乃蒼」
「紅壱、暴力はよくないって亜白が言ってる」
「は? こんなゴミカスどうなってもよくね?」
「……学校では駄目。ね? こいつは後で……」
「……わかった……後で……して……」
後半のふたりのやり取りはほとんど私には聞こえなかったが、ぜんぶ聞かなかったことにしたほうがいいような気がしてきた。
紅壱は乱暴な手つきで男子生徒の胸倉から手を離し、馬乗りの状態をやめる。
男子生徒は紅壱から解放されるや否や、恐怖に引きつった顔でどこかへ走り去ってしまった。
これであきらめてくれるならいい。というか、あきらめてくれないと男子生徒の身のほうが危険な気がしなくもない……。
「亜白ー! 大丈夫か?!」
紅壱は先ほどから一転し、明るくお調子者といった声で私のことを心配してくれる。
私はそれにどうにか笑顔で返すことに成功する。
「紅壱と乃蒼がきてくれたから、大丈夫だよ」
「腕、大丈夫? つかまれてた」
「大丈夫大丈夫。それよりふたりとも委員会終わったんだよね? じゃあ帰ろう」
「そうだな。今日はもうさっさと帰ろう!」
ふたりに家庭科部で作ったブラウニーを渡していないことに気づいたのは、家に帰ってからのことだった。
すぐにスマートフォンを手に、メッセージアプリから『そっちの家に行ってもいい?』とお伺いを立てる。
既読はすぐに『2』とついて、了承のメッセージが返ってきたので、制服から私服に手早く着替えたあと、簡易なラッピングをされたブラウニーを手に家を出る。
ガチャリと玄関扉を開けると同時に、隣からも同じ音がした。
扉を閉めてお隣を見れば、紅壱と乃蒼が玄関扉を開けて立っている。
「オレたちがそっちに行くほうがいいかなって思ったんだけど、遅かったかー」
「え? なんかごめんね?」
「……いや、おれらがさっきの出来事でナイーブになってるっていうか……」
「あ、ああ、うん。さっきの、あれね」
「気分悪いでしょ?」
「まあたしかに最悪な気分になったけど、紅壱と乃蒼のお陰でそんなに? 暴力はいけないことだけど、正直スカッとしたし……」
「その話も含めてどっちかの家でしよう?」
「えーっと、じゃあ、そっちにお邪魔してもいいかな?」
「おけおけ」
「いいよ」
そうしてふたりに挟まれた状態で、私は勝手知ったる隣家に足を踏み入れた。