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紅壱と乃蒼を紹介されたのは、幼稚園児のときのことだ。
女性ばかりが暮らすセキュリティの厳重なマンション。私はそのマンションの一室で基本的には母親とふたり暮らしをしていた。
この世界の女性は複婚をした場合、夫全員と同じ屋根の下で暮らすか、夫がひとりひとり妻の元へ通う形になるかのどちらかが多い。
私の母親の場合は後者で、母親と同年代のお隣さんもそうだった。
そんなお隣さんの夫のひとりが交通事故で亡くなられた。そのひとこそ紅壱と乃蒼の実の父親で、息子であるふたりは母親――お隣さん――に引き取られることとなった。
通い婚の場合、子供が生まれると基本的に娘は母親のもとで暮らし、息子は父親のもとで暮らす。
けれどもその父親が亡くなり、かつ天涯孤独であったために遺されたふたりの引き取り手が父方にはなく、母親が暮らすマンションにやってきた、というのがことの経緯だった。
さすがに一緒に暮らしていた父親を亡くした紅壱と乃蒼は、目に見えて落ち込んでいた。幼くとも、ふたりは死というものがなんたるかをほとんど理解していた。
だから私はついついふたりを気にかけるような言動を取った。
成人女性として生きた記憶が今よりもまだ色濃く残っていたために、幼いふたりを放っておけなかったのだ。
……まあ糠に釘というか、当初の私はあまりふたりに相手にされていなかったところはある。
そんな感じでどちらかと言えば最初は私のほうがふたりに引っつき回っているという感じだったのに、だが今ではなぜか逆転してしまっている。
後悔しているわけではないし、その行動が間違いだったとは思っていない。
傷ついたふたりを前にして知らん顔して放っておくよりは、ずっと良かったと思っている。
けれども、なんというか、こう、もうちょっとどうにかならなかったのかなと思わなくもない。そういう、複雑な心境だ。
ふたりが私の引っつき虫になる少し前の、きっかけなのかなと思っている出来事がそれぞれある。
『ね、ねえ……なんでおれの味方してくれたの?』
幼稚園児同士の揉め事なんて日常茶飯事だ。それに意地悪さを隠さないというか、隠すという発想のない園児だっている。
なぜか前世の記憶を持っていた私は、そんないざこざに巻き込まれないように小ずるく立ち回っていたが、他の園児たちは当たり前だがみんな人生一周目。もちろん紅壱だってそうだ。
そんな紅壱は園児たちの中では体つきがしっかりとしていて、背も一番高かった。
けれども身体の成長が速いからと言って、精神のほうもそうかというとそんなことはなく、あるとき紅壱はずる賢い園児によって濡れ衣を着せられてしまった。
大人しい女の子をいじめて泣かせた男の子が、やってきた先生に紅壱が泣かせたと言い出したのだ。
引っ越してきて、転園したばかりでまだ周囲に馴染めていなかった紅壱を、弁護する園児は出てこなかった。
いじめっ子の園児に目をつけられたくなかったからとか、罪を追及してくる先生が特別厳しく怖かったからというのもあるだろう。
紅壱も、今と違っておしゃべりなほうではなかったから、ただ体を強張らせて涙を浮かべることしかできなかったようだ。
『先生、ちがいます。こういちくんはなにもしてません。……そうだよね、まりちゃん』
私はとっさにいじめっ子の稚拙な嘘を否定して、泣きじゃくって上手く話せない被害者のまりちゃんに優しく声をかける。
いじめっ子は顔を真っ赤にして私のことを「嘘つき」と金切り声で叫んだ。
普通の園児であればそれで泣いてもおかしくはないが、私はそんな叫びに負けることはない。
常日ごろから手のかからない子供で、冷静に言い返す私と、叫ぶように私を罵るいじめっ子とでは、どちらが信じるに値するかは火を見るよりも明らかだ。
最終的に紅壱の冤罪は晴らされ、いじめっ子は先生からお説教されることとなった。
『ありがと……えっと』
『私は桐山亜白』
『えっと、あじろちゃん……ね、ねえ、なんでおれの味方してくれたの?』
『特に理由はないかな』
『えっ』
『紅壱くんが悪いことしてないのを私は知っていたから、それをありのまま先生に言っただけだよ』
『あのいじめっ子にもムカついたし』と私があっさり言ってのければ、紅壱は予想外だったのかぽかんとした顔をしていた。
それからだろうか、私の存在になんて興味がなさそうだった紅壱の目の色が変わったのは。
以来、「あじろちゃん、あじろちゃん」と私といっしょに遊びたがるようになった。
前世の記憶がまだ強く残っていた私からすると、幼稚園児のするお遊びを同じ目線でするという行為は少々耐えがたいものだったので、内心「勘弁してくれ」という気持ちだった。
前世から特別子供好きだった、というわけでもないし……。
慕われるのは悪い気はしないし、子供としては紅壱は可愛いほうだとも思ったけれども、「同じ幼稚園児として遊べ」と言われるとちょっと困った。
だが、そんな風に紅壱が引っつき虫をする対象である私をよく思わない者もいた。
紅壱の双子の弟である乃蒼だ。
『こういちを盗らないで!』
タチの悪い風邪にかかって長く休んでいた乃蒼は、登園初日に私のところまでくると、そう叫んだ。
……ちなみにこれは現在の乃蒼からすると黒歴史らしく、兄弟げんかをしたときに紅壱にその出来事をいじられると即バチギレするレベルのネタである。
そんな風に乃蒼から叫ばれた私はと言えば、特に堪えることもなく。しかしそんな私の態度は乃蒼の悪感情へ火に油だったらしく、私は彼からえらく嫌われてしまった。
『おれはあじろちゃんとあそぶの!』
『やだよ! やめてよ!』
『やだ! のあ、あっち行けよ!』
そんな風に私をあいだに挟み、紅壱と乃蒼の応酬……というか、言い合いが繰り広げられるのが日常となりつつあったころ、私たちは少し離れた場所にある公園へ遠足に行くことになった。
その道中でも私にばかり話しかける紅壱に、泣きそうな顔をする乃蒼という光景が見られたことは、わざわざ言わずともわかることだろう。
遠足先の公園に着いても、紅壱と乃蒼の言い合いは終わらなかった。
『こういちのバカっ!』
それどころか言い合いはいつになくヒートアップし、紅壱が言ってはいけないひとこと――『のあなんてキライ!』を口にしてしまったがために、乃蒼は耐え切れなかったのか森に向かって走って行ってしまった。
当然、現場は大騒ぎ。先生や、ボランティアで同行してくれていた他の園児の父親たちを巻き込んでの捜索が始まった。
私は乃蒼のことが心配であったものの、今はいち幼稚園児。できることなどなにもなく、残った大人に見守られつつ、その場で待機するしかなかった。
いや、乃蒼がいなくなった上、キツイ言葉をかけてしまい、いなくなるきかっけを作ったことにショックを受ける紅壱を慰める、という役割はあった。
だがそんなときにもやってくるものはある。
尿意だ。
私はその場に残っていた先生のひとりに連れられ、少し遠い場所にある公衆トイレへ向かった。
今でもハッキリと思い出せる、どこにでもある年季の入った小汚いトイレだ。
急いで女子トイレに入ろうとしたところで、私は乃蒼の声を聞いた。
それは同行してくれた先生も同じだったが、声がした男子トイレのほうにためらうことなく突撃するのは私のほうが早かった。
男子トイレにひとつしかない個室の扉は開きっぱなしだったが、そこに乃蒼と――不審者がいた。
泣いている乃蒼を見て私は頭に血が上った。
不審者の股間を容赦なく蹴り上げるまでの時間は、一瞬だった。
……結論から言うと乃蒼は最悪の事態はまぬがれたものの、その心には深い傷が残った。
小汚いトイレでの経験ゆえか、乃蒼は除菌スプレーや除菌シートを肌身離さず持ち歩くようになり、ごく限られた親しい人間の手料理しか口にできなくなった。
見知らぬ他人から触れられるのももちろん無理。しかし、あれだけの経験をしたのだから致し方ないと私は思う。
ちなみに私はあのあとめちゃくちゃ怒られた。
それはそうだ。前世の私だって、今世の私みたいなことをする園児がいれば、「気持ちはわかるけど危ないからだめだよ」くらいのことは言っただろう。
きっかけになってしまった紅壱もかなりのショックを受けて、乃蒼と共にしばらく心療内科に通っていた。それくらいの大事件だった。
けれどもそれから乃蒼の私に対する態度は柔らかくなった。
紅壱と言い争うことは変わらなかったものの、内容は『おれもあじろちゃんとあそぶ!』というものに変わっていた。
こうして引っつき虫がふたりに増えて、取れるどころかますます引っつきが激しくなるばかりで……現在に至る。




