君の幸福の原価
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俺が音楽室のドアを開けた瞬間、それまでそこにあったはずの全てが止まった。
練習中だった楽器の音が、不協和音を最後に不自然に途切れ、数十人の視線が一斉に俺という異物を捉える。好奇、訝り、そしてあからさまな非難。それらが無数の矢となって、俺の体に突き刺さった。
「あんた、昨日もいたよね?」
「部外者はとっとと出てって!」
数人の女子部員が、守護神のように舘山寺詩の前へと進み出て、俺を睨みつける。
彼女たちの友情は本物なのだろう。だが、彼女たちが守ろうとしているその笑顔が、どんな犠牲の上になりたつ脆いものであるかを、彼女たちは知らない。
俺の視線は、その輪の中心にいる一点だけを見つめていた。
舘山寺詩。
彼女はフルートを胸の前で握りしめ、その指が白くなっているのも構わずに、ただ俯いている。助けを求めるようにさまよった視線は、誰からの救いの手も得られず、今は力なく床の一点に落ちていた。
これ以上、彼女をこの好奇と善意の監獄に閉じ込めておくわけにはいかない。
俺は、周囲の雑音を頭の中から消し去ると、まっすぐに彼女の元へ歩み寄った。
「あんたに、忘却屋として依頼がある」
俺が言葉を紡いだ途端、詩の肩がびくりと跳ねた。
周囲の部員たちが「忘却屋……?」と怪訝な顔で囁き合う。
「あんたが持ってる『才能の記憶』の出所を教えろ。言い値で買う」
それは、この世界の裏側を知る人間にしか通じない、決定的な最後通牒。
詩の顔から、血の気が引いていくのが手に取るように分かった。
もう、言葉はいらない。
俺は彼女の細い手首を、ためらいなく掴んだ。驚くほど冷たい。
「来い、舘山寺」
「え……っ、いや、佐久間く……待って……!」
「話は、ここで終わりだ」
抵抗する彼女の体を、ほとんど無理やりに引く。「何すんのよ!」という非難の声を背中で受け止めながら、俺は彼女を音楽室から連れ出した。
夕暮れの赤い光が長く伸びる廊下を抜け、一番端にある、今は使われていない化学準備室に彼女を押し込む。薬品のツンとした匂いが、微かに鼻をついた。
バタン、と重いドアが閉まる音が生々しく響く。
世界から、俺たち二人だけが切り取られたようだった。
二人きりになった途端、詩は俺の手を振り払った。そして、必死に、本当に必死に、いつもの笑顔を顔に貼り付けようとする。口角は上がっているのに、瞳は全く笑っていない。夕日でできた自分の影のように、その笑顔は頼りなく揺れていた。
「さ、佐久間くん、何の冗談かな……? 私、練習に戻らないと、みんなが心配しちゃうよ」
「……あんた、嘘をつくのが本当に下手だな」
俺は、壁に寄りかかりながら、冷たく言い放った。
「レンタル料、一回15,000円。コンビニとファミレスのバイト代じゃ、すぐに底をつく。違うか?」
俺の口から放たれた具体的な数字が、彼女の最後の抵抗を打ち砕いた。
詩の顔から、笑顔が剥がれ落ちる。表情が抜け落ちる。まるで能面のようだった。
「あんたのロッカーにあったノート、見た」
俺は、逃げ道を塞ぐように、言葉を続ける。
「母親の薬代のためなんだろ。だから、記憶を売るしかない。だが、あんたには売れるような幸福な記憶がない。だから、自分で創り出すことにした。吹奏楽のコンクールで優勝して、その『最高の成功体験』を商品にする。……違うか?」
その一言が、最後の引き金になった。
彼女の大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。それはもう、ポロポロなんて可愛いものじゃない。ダムが決壊したように、次から次へと熱い雫が頬を伝い、床に染みを作っていく。
膝から力が抜け、糸が切れた操り人形のように、彼女はその場に崩れ落ちた。
「なんで……なんで、そこまで……知ってるの……っ」
嗚咽が、言葉にならない声が、静かな教室に響き渡る。
「そうだよ……そうだよ! 幸福な記憶を……創って、売るしか、なかったの……っ。お母さんを助けるには、それしか……方法が、なくて……!」
「音楽が、好きだったはずなのに……いつからか、値段のことしか考えられなくなって……っ」
「大丈夫!なんとかなる、なる!って、ずっと思ってたのに……! もう、無理だよぉ……っ」
彼女は、子供のように泣きじゃくった。
それは、俺が今まで『商品』として見てきたどんな悲しみの記憶データよりも、ずっと生々しくて、ずっと人間臭くて、どうしようもなく胸を締め付ける光景だった。
同情? 憐れみ? 違う。
俺は、この無謀で、健気で、あまりにも馬鹿正直な彼女の計画に、魂ごと心を奪われていた。
やがて、彼女の嗚咽が少しずつ小さくなり、しゃくりあげる声だけが残った頃。俺は静かに口を開いた。
「……話は、それだけか」
俺は彼女の前にゆっくりとしゃがみこみ、涙で濡れた瞳を、まっすぐに見つめた。
「その計画は、今日限りで終わりにしろ。あんたの幸福の原価は、そんなに安くない」
「……え?」
掠れた声で、彼女が俺を見る。その瞳には、もう何の光も残っていなかった。
「俺があんたのスポンサーになる。才能のレンタル料は、今後、俺が全て払う」
「……なんで……佐久間くんが、そんなこと……」
「勘違いするな。これは投資だ」
俺はわざと視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。照れ臭くて、彼女の顔を直視できなかった。床の埃を眺めながら、続ける。
「俺は、忘却屋だ。価値のある記憶には鼻が利く。そして、あんたの『最高の演奏』っていう記憶には、それだけの価値があると判断した。有望な商品に先行投資するのは、ビジネスとして当然だろ」
俺はもう一度、彼女に向き直る。決意を込めて、その瞳を見据えた。
「だから、あんたは余計なことを考えるな。金の心配も、母親のことも、コンクールのプレッシャーも、今は全部忘れろ。あんたはただ……ただ、あんたが本当に奏でたいと思う音を、最高の音を、奏でることだけ考えろ」
そして、俺は彼女に、この世界で最も身勝手で、最も馬鹿げた契約を持ちかけた。
「そうして手に入れた『本物の幸福』は――その時、俺が、言い値で全部買い取ってやる」
予想外すぎる提案に、詩の嗚咽が嘘のように止まった。
彼女は、涙の跡が残る顔で、ただ、信じられないものを見るように、呆然と俺を見つめ返していた。
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