表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/24

才能の市場価格

毎日12時更新

 翌朝、俺は教室のドアを開けるなり、無意識にその姿を探していた。


 窓際の後ろから二番目の席。舘山寺詩は、数人の女子に囲まれ、コロコロと笑っていた。昨日、俺が公園で見た、あの花が咲くような笑顔だ。

 彼女が一瞬見せた、昏い井戸の底のような瞳の揺らぎなど、まるで存在しなかったかのように。


 俺は自分の席に着き、カバンを無造作に置いた。

 クラスメイトたちのざわめきが、厚いガラスを一枚隔てた向こう側のように聞こえる。俺の世界は、昨日のあのメロディに完全に調子を狂わされていた。


 ◇


 昼休み。俺はスマホに送られてきた『屋上にて待つ』という短いメッセージに従い、重い腰を上げた。

 吹き抜ける強い風が、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。金網の向こうには、楽器の生産で栄えたこの街の、どこか武骨な景色が広がっていた。


「よお、忘却屋。昨日の頼みってのは、一体なんだよ?」


 背後から、能天気な声が飛んでくる。

 奴は、天竜(てんりゅう)(ひかる)。バイクと都市伝説と、どうでもいい噂話が好きな、俺の数少ない友人だ。


「……その呼び方やめろ」


「へーいへい。で、なんだよ? 俺みたいな善良な一般市民に、裏稼業のお手伝い依頼か?」


 光はニヤニヤしながら、購買で買ってきたらしい「あなごパイ」の袋を破り、一本を俺に突きつけてきた。


「理屈はいいから、まずこれ食え。糖分が足りてねぇ顔してるぜ」


「……そりゃどうも」


 俺はそれを受け取り、一口かじる。サクサクとした食感と甘さが、ささくれた神経に少しだけ染みた。


「単刀直入に言う。舘山寺(かんざんじ)(うた)について、知ってることを教えろ」


「……はぁ? 舘山寺?」


 光は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「お前が女子に興味持つなんて、アクトタワーからアナゴが降ってくるくらいあり得ねぇぞ。どういう風の吹き回しだ?」


「いいから、早く」


「へいへい、分かったよ……」


 光は少し大げさにため息をつくと、情報屋の顔つきになった。


「舘山寺詩、だろ? まあ、俺らの間じゃ『二組の天使』ってとこか。いつもニコニコしてて、誰にでも優しい。吹奏楽部のホープで、もうすぐあるコンクールのソロパートに抜擢されたって話だ」


「……ソロパート」


 昨日の、あの天才的な演奏。それなら納得がいく。だが。


「ただな、ちょっと気になる噂もある」


 と光は声を潜めた。


「あいつ、結構大変らしいぜ。家庭の事情ってやつか? バイト、二つも三つも掛け持ちしてるって話だ。だから、時々授業中にカクンッて船漕いでる」


「……バイト掛け持ち?」


「ああ。健気だよな。そんな素振り、一切見せねぇんだから」


 金がないのか。

 光の言葉が、俺の頭の中でパズルのピースをはめていく。金がないなら、高価な記憶データは買えない。昨日の俺の「買ったんじゃないのか?」という質問に、彼女の表情が揺らいだ理由。

 それは、彼女が「買う側」ではなく――…


「おい、奏。またヤバいこと考えてる顔してるぞ。言っとくが、舘山寺に手ぇ出すなよ。あいつは俺たちの癒やしなんだからな」


「……分かってるよ」


 俺は光の忠告を適当にはぐらかし、ポケットに手を突っ込んだ。

 礼を言うのも忘れて屋上を後にする俺の背中に、「あなごパイの代金、ツケとくからなー!」という声が飛んできた。




 放課後。俺は一人、吹奏楽部が練習している音楽棟へと向かっていた。

 もう一度、聴かなければならない。彼女の演奏を。昨日のアレが、本当に彼女の実力なのかどうかを。


 古びた音楽室のドアに設けられた、小さなガラス窓。俺はそこから、息を殺して中の様子を窺った。

 フルート、クラリネット、トランペット……様々な楽器が、それぞれのパートに分かれて練習している。その中に、彼女の姿を見つけた。


 舘山寺詩。真剣な顔でフルートを構えている。

 やがて、指導役らしい上級生が手を挙げ、彼女に合図を送った。ソロパートの練習のようだ。

 詩はこくりと頷き、息を吸う。

 そして――俺の耳に届いたのは、信じられないほど、平凡な音だった。


 いや、平凡以下だ。音程は上ずり、リズムは走り、音色はかすれている。

 昨日、俺の心を撃ち抜いた、あの色彩豊かな音の粒はどこにもない。


「……こら、舘山寺! そこ、半音ズレてる!」


「最近どうしたのよ、全然音出てないじゃん」


「ソロ、交代してもらうよ?」


 周囲から、厳しい声が飛ぶ。

 詩は「ご、ごめんなさい! もう一度、もう一度お願いします!」と必死に頭を下げていた。その顔は、悔しさと焦りで歪んでいる。昨日見た完璧な笑顔も、俺をからかった時の余裕も、そこにはなかった。ただ、必死にもがいている、一人の不器用な高校生の姿があるだけだ。


 なんだ……?

 なんだ、これは。昨日の演奏は、一体なんだったんだ……?

 才能の有無、というレベルじゃない。まるで別人だ。


 その瞬間、俺の頭に、一つのおぞましい仮説が浮かび上がった。

 非合法なメモリー・トレードの世界で、裏取引される禁断のデータ。


 ――『才能』の、レンタル。


 まさか、あいつ。時間限定で、誰かの『演奏技術』を買っているのか……?

 だとしたら、昨日のあの演奏は。

 そして、目の前でうなだれている、この無力な姿は。


 どちらが、本当の舘山寺詩なんだ?

よろしければ、評価お願いします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ