才能の市場価格
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翌朝、俺は教室のドアを開けるなり、無意識にその姿を探していた。
窓際の後ろから二番目の席。舘山寺詩は、数人の女子に囲まれ、コロコロと笑っていた。昨日、俺が公園で見た、あの花が咲くような笑顔だ。
彼女が一瞬見せた、昏い井戸の底のような瞳の揺らぎなど、まるで存在しなかったかのように。
俺は自分の席に着き、カバンを無造作に置いた。
クラスメイトたちのざわめきが、厚いガラスを一枚隔てた向こう側のように聞こえる。俺の世界は、昨日のあのメロディに完全に調子を狂わされていた。
◇
昼休み。俺はスマホに送られてきた『屋上にて待つ』という短いメッセージに従い、重い腰を上げた。
吹き抜ける強い風が、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。金網の向こうには、楽器の生産で栄えたこの街の、どこか武骨な景色が広がっていた。
「よお、忘却屋。昨日の頼みってのは、一体なんだよ?」
背後から、能天気な声が飛んでくる。
奴は、天竜光。バイクと都市伝説と、どうでもいい噂話が好きな、俺の数少ない友人だ。
「……その呼び方やめろ」
「へーいへい。で、なんだよ? 俺みたいな善良な一般市民に、裏稼業のお手伝い依頼か?」
光はニヤニヤしながら、購買で買ってきたらしい「あなごパイ」の袋を破り、一本を俺に突きつけてきた。
「理屈はいいから、まずこれ食え。糖分が足りてねぇ顔してるぜ」
「……そりゃどうも」
俺はそれを受け取り、一口かじる。サクサクとした食感と甘さが、ささくれた神経に少しだけ染みた。
「単刀直入に言う。舘山寺詩について、知ってることを教えろ」
「……はぁ? 舘山寺?」
光は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「お前が女子に興味持つなんて、アクトタワーからアナゴが降ってくるくらいあり得ねぇぞ。どういう風の吹き回しだ?」
「いいから、早く」
「へいへい、分かったよ……」
光は少し大げさにため息をつくと、情報屋の顔つきになった。
「舘山寺詩、だろ? まあ、俺らの間じゃ『二組の天使』ってとこか。いつもニコニコしてて、誰にでも優しい。吹奏楽部のホープで、もうすぐあるコンクールのソロパートに抜擢されたって話だ」
「……ソロパート」
昨日の、あの天才的な演奏。それなら納得がいく。だが。
「ただな、ちょっと気になる噂もある」
と光は声を潜めた。
「あいつ、結構大変らしいぜ。家庭の事情ってやつか? バイト、二つも三つも掛け持ちしてるって話だ。だから、時々授業中にカクンッて船漕いでる」
「……バイト掛け持ち?」
「ああ。健気だよな。そんな素振り、一切見せねぇんだから」
金がないのか。
光の言葉が、俺の頭の中でパズルのピースをはめていく。金がないなら、高価な記憶データは買えない。昨日の俺の「買ったんじゃないのか?」という質問に、彼女の表情が揺らいだ理由。
それは、彼女が「買う側」ではなく――…
「おい、奏。またヤバいこと考えてる顔してるぞ。言っとくが、舘山寺に手ぇ出すなよ。あいつは俺たちの癒やしなんだからな」
「……分かってるよ」
俺は光の忠告を適当にはぐらかし、ポケットに手を突っ込んだ。
礼を言うのも忘れて屋上を後にする俺の背中に、「あなごパイの代金、ツケとくからなー!」という声が飛んできた。
放課後。俺は一人、吹奏楽部が練習している音楽棟へと向かっていた。
もう一度、聴かなければならない。彼女の演奏を。昨日のアレが、本当に彼女の実力なのかどうかを。
古びた音楽室のドアに設けられた、小さなガラス窓。俺はそこから、息を殺して中の様子を窺った。
フルート、クラリネット、トランペット……様々な楽器が、それぞれのパートに分かれて練習している。その中に、彼女の姿を見つけた。
舘山寺詩。真剣な顔でフルートを構えている。
やがて、指導役らしい上級生が手を挙げ、彼女に合図を送った。ソロパートの練習のようだ。
詩はこくりと頷き、息を吸う。
そして――俺の耳に届いたのは、信じられないほど、平凡な音だった。
いや、平凡以下だ。音程は上ずり、リズムは走り、音色はかすれている。
昨日、俺の心を撃ち抜いた、あの色彩豊かな音の粒はどこにもない。
「……こら、舘山寺! そこ、半音ズレてる!」
「最近どうしたのよ、全然音出てないじゃん」
「ソロ、交代してもらうよ?」
周囲から、厳しい声が飛ぶ。
詩は「ご、ごめんなさい! もう一度、もう一度お願いします!」と必死に頭を下げていた。その顔は、悔しさと焦りで歪んでいる。昨日見た完璧な笑顔も、俺をからかった時の余裕も、そこにはなかった。ただ、必死にもがいている、一人の不器用な高校生の姿があるだけだ。
なんだ……?
なんだ、これは。昨日の演奏は、一体なんだったんだ……?
才能の有無、というレベルじゃない。まるで別人だ。
その瞬間、俺の頭に、一つの悍ましい仮説が浮かび上がった。
非合法なメモリー・トレードの世界で、裏取引される禁断のデータ。
――『才能』の、レンタル。
まさか、あいつ。時間限定で、誰かの『演奏技術』を買っているのか……?
だとしたら、昨日のあの演奏は。
そして、目の前でうなだれている、この無力な姿は。
どちらが、本当の舘山寺詩なんだ?
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