君の笑顔の仕入れ値
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花が咲くような、という陳腐な表現が、これほど似合う笑顔を俺は知らない。
夕日を背負った彼女――舘山寺詩は、俺の視線に気づくと、人懐っこい笑みを浮かべた。
その笑顔に、値段をつけるとしたら。
――くだらない。俺は一体、何を考えているんだ。
思考が現実に戻った途端、気まずさが全身を包む。見知らぬ相手を無言で見つめ続けるなんて、ほとんど不審者だ。踵を返して立ち去るのが正解だろう。
なのに、足はコンクリートに縫い付けられたように動かなかった。あのメロディが、脳内でリフレインしている。
俺が動けずにいると、彼女の方から声をかけてきた。
「あの、聴いていてくれたんですか? ありがとうございます!」
屈託のない、鈴が鳴るような声だった。
フルートのケースを大事そうに抱えながら、ぺこりとお辞儀までしてくる。
「……別に。通りかかっただけだ」
俺は平静を装い、ぶっきらぼうに答えた。心臓が妙にうるさい。早く、本題を切り出さなければ。
「…今の曲、なんて曲だ?」
「え?」
「さっき吹いてた曲だよ。曲名は?」
俺の問いに、詩は「えーっとですね……」と少しだけ視線を宙に彷徨わせた。
その仕草に、俺の疑念が鎌首をもたげる。
「曲名は、まだないんです。私がなんとなく、こー、指が動くままに作ってみた曲なので」
「……作った、だと?」
「はい! えへへ、今日の記憶は『夕焼け色』って感じかな!って思って吹いてたら、できちゃいました!」
詩は悪戯っぽく笑う。今日の記憶は、夕焼け色。
その独特の感性は、記憶を商品としてしか見ない俺には眩しすぎる。
だが、それよりも問題は、彼女の言葉の内容だ。
「ずいぶん複雑な構成だったが、楽譜もなしにか?」
「なんとなく、指が覚えちゃってて。大丈夫!なんとかなる、なる!って感じで!」
まただ。あの、人を食ったような口癖。
その笑顔には一点の曇りもなく、嘘をついているようにはとても見えない。
だが、あり得ない。あれは、素人が「なんとなく」で作れるメロディじゃない。
緻密に計算された和音、胸を締め付けるような旋律の展開。
あれは紛れもなく――天才の所業だ。
俺は、もう一歩踏み込むことにした。
この世界で、あり得ない才能が発現する理由は、大抵一つしか無い。
「そのメロディ、どこかで買ったんじゃないのか?」
忘却屋としての、最大の禁忌であり、核心を突く質問。
その瞬間、今まで完璧だった彼女の笑顔が、ほんのわずかに揺らいだ。ほんのコンマ数秒、彼女の瞳から光が消え、深い井戸の底のような、昏い色が浮かび上がる。
――見つけたぞ。お前の綻びを。
だが、それも束の間。彼女はすぐに元の天真爛漫な表情に戻ると、小首を傾げてみせた。
「え? 買うって、何をですか? 音楽データのこと? 私、そんなお金ないですよー」
完璧な、笑顔だった。しかし、俺はもう見逃さない。
今の揺らぎは、間違いなく図星を指された人間のそれだ。
「……そうか」
これ以上は無駄だと判断し、俺は短く答えた。
日が傾き、公園の照明灯がぽつりと点灯する。そろそろ潮時だろう。
「じゃあ、私、帰りますね。聴いてくれてありがとうございました、佐久間くん」
当たり前のように名前を呼ばれ、俺はぎょっとした。
「なんで俺の名前を……」
「えー、ひどい! 同じクラスじゃないですかー、二組の佐久間くんでしょ?」
詩は少し口を尖らせて、からかうように笑った。そして、「お先に失礼します!」と元気よく言うと、軽やかな足取りで走り去っていった。
一人、公園に残される。クラスメイト……? 全く記憶にない。
いや、それよりも問題は山積みだ。彼女は俺の質問を意図的にはぐらかした。
そして、あのメロディ。あれは一体、誰の記憶なんだ? 彼女が買ったのか? それとも、まさか――。
考えれば考えるほど、思考は迷宮に迷い込む。
俺はポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを起動した。
宛先は、クラスで唯一、俺が連絡先を知っている男。
『天竜光。頼みがある』
送信ボタンを押すと同時に、俺は決意を固めていた。
舘山寺詩。
彼女の笑顔の仕入れ値を、暴いてやる。
今まで書いてきた中で、一番可愛いかも、詩ちゃん。