査定価格(ねだん)のない記憶
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記憶には、市場価値がある。
そんなの常識だろ?
幸福な思い出は高く売れ、辛い記憶は買い叩かれる。膨大な知識データは高額で取引され、何の変哲もない一日の記憶は二束三文。実に分かりやすい世界だ。
俺、佐久間奏は、その市場の片隅で、今日も息をしている。
「……で、その記憶の査定価格は?」
放課後のファミレス。
俺は目の前で俯く依頼人ーー同じ高校の制服を着た、見知らぬ女子生徒に、事務的に問いかけた。テーブルの上には、彼女のスマホと、俺の旧型タブレットが並んでいる。
彼女は、二週間前にフラれた恋人との『幸福な三ヶ月間の記憶』を売りたいのだという。
「……あの、本当に、全部忘れられるんですよね?一緒に聴いた曲とか、彼の好きだったものとか……思い出すと、まだ苦しくて……」
「ああ、完全に消去できる。あんたの脳から該当データを削除し、ウチのストレージに移すだけだ。まあ、副作用で、ふとした時に理由もなく泣けてきたりするかもしれんが」
「……」
「言っておくが、ウチは心の穴埋めまでは請け負ってない。記憶を消したところで、ぽっかり空いた穴はあんた自身でどうにかするしかない」
俺はマニュアル通りに説明を続ける。
彼女のような依頼人は、もう何人も見てきた。
記憶を消して楽になりたい。その気持ちは分かる。だが、それで得られるのは、痛みのない、空っぽの時間だけだ。
「……それでも、いいです。お願いします」
彼女は震える指でスマホを操作し、記憶データへのアクセス権を俺に転送した。
タブレットの画面に、色とりどりの光の粒子が万華鏡のように映し出される。
これが彼女の『幸福な三ヶ月間』。他人の記憶を覗き見るのは、いつまで経っても気分の良いものじゃない。
データの質、鮮明度、感情の振れ幅……いわゆる『希少価値』を冷静に分析する。
初デートの記憶。誕生日プレゼント。些細なことで笑い合った放課後。……なるほど、確かにキラキラしている。陳腐な言い方だが、宝物みたいだ。
「あんたが捨てたいその記憶、誰かにとっちゃ宝物かもしれないぜ」
思わず口から滑り出た言葉に、彼女が顔を上げた。俺は慌てて付け加える。
「……まあ、少なくとも俺じゃないがな。さて、査定は出た。三ヶ月分の包括データで、七万円。ここから手数料を引いて、あんたの口座には六万三千円が振り込まれる。どうする?」
「……はい。それで、お願いします」
取引は数秒で終わった。彼女のスマホから輝きが失せ、俺のタブレットのストレージ残量が少し減る。
彼女の目から、何かが抜け落ちたように光が薄れた。
「毎度あり」と呟いて席を立つ俺に、彼女はもう何の反応も示さなかった。
◇
ファミレスを出ると、強い風がびゅうと吹き抜けていった。この街特有の、湿り気のない、どこか乾いた風だ。どこかの学校の吹奏楽部が練習しているのか、クラリネットの頼りない音階が風に乗って聞こえてくる。
くだらない感傷だ。俺は稼いだ金で、自分の失くした記憶を探さなければならない。他人の思い出に浸っている暇はない。
そう自分に言い聞かせ、駅へ向かう足を速めた、その時だった。
ふと、今まで聴いたどんな音とも違う、澄み切ったフルートの音色が耳に届いた。
それは、雑多な街のノイズを突き抜け、まるで俺の心臓だけを的確に撃ち抜くみたいに、真っ直ぐに響いてきた。一つ一つの音が、確かな輪郭と、切ないほどの色彩を帯びている。
なんだ、この音は。
まるで何かに導かれるように、俺は音のする方へ歩き出す。
駅とは反対方向の、古い市民会館の裏にある小さな公園。
夕暮れのオレンジ色に染まるその場所で、彼女は一人、フルートを吹いていた。
うちの高校の制服だ。風に煽られた黒髪が、夕日に透けてキラキラと光っている。
そして、彼女が奏でるそのメロディはーー
俺が知るはずのない、しかし、体の奥底で鳴り響いてやまない、ピアノの旋律と瓜二つだった。
頭の奥が、焼けるように熱い。知らないはずの鍵盤。知らないはずの指の動き。
忘れたはずのーーいや、そもそも俺が持っていたかも分からない記憶の断片が、ノイズ混じりにフラッシュバックする。息が詰まる。
俺はその場に立ち尽くし、ただ呆然と、彼女が奏でるメロディを聴いていた。
やがて、曲が終わり、静寂が訪れる。
彼女はゆっくりとフルートを下ろし、ふう、と一つ息をついた。
そして、俺の視線に気づくと、少し驚いたように目を丸くして、次の瞬間、花が咲くように、ふわりと微笑んだ。
その笑顔に、値段をつけるとしたら。
……くだらない。俺は一体、何を考えているんだ。
長編シリーズものです。永らくお付き合いください。