[ep.1]カエデ・メテオールという少女
室内が、産声で満ちる。
「よく頑張りましたねー! 立派な女の子ですよー!」
その日、メテオール家にひとりの赤子が生まれた。
──私の名は、カエデ・メテオール。
私は、特別な記憶があるわけでも、生まれたときから何かを理解していたわけでもない。
ただの、普通の赤ちゃんだった。
けれど──少しだけ成長が早かったらしい。
言葉を覚え始めたのは、生後十ヶ月頃。
一歳になる前には、短い言葉をなんとなく喋れるようになっていた。
その成長の早さに、周りの大人たちは少し驚いていたみたいだ。
* * *
三歳になった頃、私は剣に興味を持ち始めた。
絵本の中で剣士が魔物を退ける場面が、なぜか心に残ったからだ。
「剣を触ってみたい」とお願いしたこともあったけれど、
「まだ早いよ、カエデ」
「女の子には危ないからね」
と、優しくたしなめられた。
私は、がっかりはしたけれど、すぐに切り替えた。
代わりに、本を読むことは許されていた。
家の書庫には大人向けの本が山ほどあって、私はその背表紙を片っ端から引き抜いて読んだ。
剣術や魔術の本だけじゃない。
歴史、地理、医学、法律、魔物の生態や政治の構造まで、手に入る知識はすべて読んだ。
やがて五歳になる頃には、家の蔵書はほとんど読み終えていた。
そんなある日──父に呼び出された。
* * *
「そろそろ、お前に訓練の許可を出そうと思ってな」
「え……訓練、ですか?」
「そうだ。剣術でも魔術でも、どちらでも構わん。お前が望むなら、今日からでも始めていい」
頭が少し揺れるような感覚だった。
本当に、この日が来たのだ。
「でも、なぜ今なんですか? まだ早いと……」
父は一度視線を窓に向け、それからゆっくりと言った。
「カエデ、お前は今年で五歳になる。あと二年で七歳だな」
「……はい」
「その年で、エストレーラ学院に入ってもらうつもりだ」
「……っ、え?」
聞き間違いかと思った。けれど父は真剣なまなざしで私を見ていた。
──エストレーラ学院。
この国で最も格式が高く、剣術・魔術・学問すべてにおいて才ある者しか入学を許されない、名門中の名門。
「……そんな……私は、まだ訓練も始めていないのに……」
「心配するな。基礎はこれから叩き込めばいい。魔術も剣術も、どちらに進むかはお前が決めろ」
「でも……そんな短期間で、本当に……」
「ちょうどいいタイミングでカナデも長期休暇に入る。あいつが戻ってくる。
しばらくは、お前の訓練に付き合ってもらうつもりだ」
「兄上が……」
──カナデ・メテオール。
私の兄。そして、エストレーラ学院に史上最年少で入学し、今では学院でもトップクラスの実力者だと聞いている。
「分からないことがあれば、兄に聞け。あいつは教えるのも上手い。手加減も、きっとしてくれるさ」
「……はい。頑張ります」
「それでいい」
父はうなずいた。
「カエデ、お前の知識と理解の深さは、間違いなく“才”に届いている。
だが──知識だけでは、この先に起きる出来事には立ち向かえない」
「……“出来事”?」
「詳しいことは今はまだ話せない。だが、私たちは備える必要がある。
剣と魔法は、そのための力だ」
「……わかりました。今日から、訓練を始めます」
こうして私は、初めて“力”のための一歩を踏み出した。
* * *
翌朝。私は日の出より早く目覚め、庭に出た。
まずは走る。
体力がなければ、剣も魔術も意味をなさない。
走って、呼吸を整えて、素振り。
本で学んだ知識を、体に馴染ませるように繰り返す。
それが、私の「日常」になっていった。
* * *
訓練を始めてから一週間後。
「こんにちは、カエデ」
庭で剣を振っていた私の背後から、やわらかな声が聞こえた。
振り返ると、そこに兄が立っていた。
──カナデ兄さん。学院の制服を脱いだばかりのような服装で、少し旅のにおいを残している。
「兄さん……?」
「うん。ただいま」
それが、私たち兄妹の初めての会話だった。
「今、訓練中だった?」
「はい。まだ形だけですが……」
「もしよければ、少し見せてもらってもいい?」
「……はい」
私は一度うなずいて、再び構えた。
剣を振る。風を切る音が、庭の空気を割る。
「とても、きれいだったよ」
兄はそう言って、構えを優しく修正してくれた。
手の位置、足の開き方、重心の置き方。
ひとつひとつ、穏やかに教えてくれる。
* * *
その日の午後、兄は魔術の訓練も見てくれた。
「“灯火”という初歩の魔術がある。手のひらに、小さな光を灯す技だよ」
私は目を閉じ、魔力を感じることに集中する。
自分の中にある“気配”を、手のひらに集めるイメージ──
──けれど。
「……っ!」
魔力が暴れ出す。
熱く、鋭く、抑えがきかなくなっていく。
「……あ──!」
そのとき、兄がすぐに私の手を包んだ。
「大丈夫。落ち着いて。深呼吸、してみて」
兄の手のぬくもりが、暴れる魔力を静かに鎮めてくれた。
「……ごめんなさい。失敗しました」
「ううん、大丈夫。最初はみんなそうだよ。
でも、感じられただけでもすごいことなんだ」
私はそっと、自分の手のひらを見つめた。
──まだ、できない。
でも、できるようになりたいと思った。
明日も、訓練をしよう。
もっと学ぼう。
強くなる。
それが、私の「普通」だった。
* * *
こうして、私の鍛錬の日々は始まった。
そして──二年後。
私はエストレーラ学院へと足を踏み入れることになる。
まだ知らない仲間たちとの出会い。
運命を変える試練。
そして、試される覚悟。
だが、それはまた別の話。
これは、始まりの章である。