1. クレア・ルフェーブルという魔術の天才
「クレア・ルフェーブル!貴様との婚約を破棄する!」
輝くシャンデリアの下、そう声を上げたのはこの国の第二王子ジルザート殿下だった。
麗しいその顔は不機嫌に歪み、目の前の令嬢を睨みつけている。
忌まわしいものを口にするように吐き捨てられた名前。第二王子殿下の婚約者候補、ルフェーブル公爵家の息女、魔術オタクの変人、傲慢で不遜で冷酷な天才―――――クレア・ルフェーブル。
腰までまっすぐおりたなめらかな銀髪。長いまつげに縁取られた宝石のような緋色の瞳。神秘的な雰囲気の美貌を持つ彼女は、こんなときでさえ表情ひとつ変えず堂々としていた。
この国に魔力を持って生まれた貴族ならば、王立魔法学院への入学が義務付けられている。生徒たちは16歳からの3年間を通して、魔力というもの、魔術というもの、貴族としての礼節や教養、それらを徹底的に学ぶのである。
第二王子の突然の宣言は、その王立魔法学院が主催するパーティーの真っ只中に起こった。3学年すべての生徒が王宮の会場に集められ、その年の学業を労い合うことを目的とした、年に一度の大規模な催しである。
卒業を控えたジルザートや来年度から3年生に進級するクレアも例に漏れず出席していた。しかし、ジルザートが婚約者候補であるクレアではなく彼の青い瞳に合わせたドレスを纏ったとある令嬢をエスコートして会場にやってきたことで、会場にははじめから異様な雰囲気が漂っていた。
「もしかして、またなのか……?」「まさか、ねえ……」「いやあり得るぞ、相手はあのクレア様だからな……」と序盤からコソコソ噂していた周りの令嬢令息たちは、とうとう周囲を囲んで堂々たる野次馬である。
「素敵な冗談ね。もう一度おっしゃってくださる?」
普段通りの落ち着き払った平坦な声は、ジルザートの顔をますます歪めさせた。
「っ相変わらず、偉そうに……!ああ、言ってやる!貴様との婚約を破棄し、このアンナと結婚する!俺は真実の愛を見つけたのだ!」
アンナ、と呼ばれた青のドレスの令嬢は「ジル様……」と甘ったるい声を出し、ジルザードの腕にしなだれかかった。彼も満更でもなさそうに細い腰を抱き返し、アンナの絵に描いたような勝ち誇った笑みにも下品なものを見るような周囲の目にも気が付いていない様子である。
「あら……。この、なんというか、頭の弱そうな令嬢はどなたかしら」
「貴様!アンナを侮辱するのは許さんぞ!」
「ジル様……。下級貴族の私のことなんて、クレア様はきっと見下しているんだわ……っ」
初対面で自己紹介すらまともにできず、第二王子を愛称で呼び、人前でベタベタと触れ合い、許可も出していないのに勝手に下の名前を呼ばれたとしても、わたくしはべつにあなたのことを見下したりはしないけれども、とクレアは思う。興味がないのである。
どなたかしら、と聞いたのも彼女の名前が知りたいわけではなかった。
クレアが後ろに視線をやれば、控えていた従者がそっと彼女に耳打ちする。
「クレアお嬢様。この方はアンナ・ロナウディ男爵令嬢ですよ。ほら、先日お嬢様が融資した男爵家の」
「あらそう。それはよかったわ」
よかったわ、という彼女の呟きは従者にしか聞こえていない。
金の瞳を細めてゆったりと微笑む従者は、人間離れした美貌にこの国ではめずらしい黒髪も相まって「クレア・ルフェーブルの美しい従者」として有名であった。
ふたりの物語になど心底どうでもいいクレアは、さっさとこの茶番を終わらせようとジルザートの名を呼んだ。彼は明らかに警戒して身構え、その背に愛する令嬢を庇う。
「婚約破棄の件、承知いたしましたわ。―――もっとも、ジルザート殿下とわたくしはあくまで婚約者候補ですので、許可など取っていただかなくてもよろしかったのですけれど」
ではご機嫌よう、と優雅に一礼し背を向ける彼女をジルザートは「お、おい!待て!クレア!」と慌てたように引きとめた。
「貴様はほんとうに冷酷な女だな!婚約者に捨てられたと言うのに、しおらしく落ち込んでみせる可愛げもないのか?」
「はあ」
「兄上が貴様との婚約を破棄したのも納得だ!貴様のような婚約者など到底耐えられないと、身を持って知ったからな」
ジルザートの発言に周りの生徒たちが一斉にザワッと反応する。それもそうだ。ジルザートの兄、つまり第一王子ベルナート殿下の存在は、社交界では暗黙の了解として、はっきりと口にしてはいけないタブーとなっている。
しかしやはり、これは1年前の再現ではないか、と野次馬の誰もが思った。気づいていないのは兄の名前を出したジルザート本人と隣の男爵令嬢だけである。
「ベルナート殿下との婚約もあなたと同様に候補の段階だったのだけれど……まあいいわ。もうよろしいかしら?」
「待て!まだ話は終わっていないぞ!」
「……まだなにか?」
「アンナは貴様にいじめを受けたと言っている!なので貴様を断罪、」
「名前もクラスも顔も知らない令嬢をいじめることなんてさすがのわたくしにもできないわ」
「え、いやでも、アンナが、」
なぜわたくしが一介の男爵令嬢に、ちまちまとノートを破いて捨てたり私物を盗んで隠したり自分の手を汚して階段から突き落としたり、そんなせこいことをしなければならないの、と心底不思議そうに問うクレアに、さすがのジルザートも反論の余地がない。
王族を差し置いて国内一の魔力量を持ち、ルフェーブルの至宝と呼ばれるこの魔術の天才ならば、この冷酷な女ならば、不快と感じた人間相手にもっととんでもないことをしてもおかしくはない、それこそひとつの証拠も残さずに―――――ジルザートはこの場の主導権を握っているのが誰なのか途端にわからなくなった。
おかしい、こんなはずでは。焦るジルザートの腕に男爵令嬢はさらに強く絡みつき、くすん、と鳴き声を上げる。
「公の場でそういう発言をするということは、確固たる悪事の証拠もルフェーブルを敵に回す覚悟も、きちんとお持ちなのですよね?」
「い、いや、その」
「私、嘘なんてついてません……!クレア様にずっと嫌がらせを受けてました、でも誰にもいえなくて、っ」
「……あ、ああ!アンナが嘘なんてつくわけがない!クレア・ルフェーブルという女は、昔から不遜で冷酷な人間なんだ。微笑みのひとつもできない欠陥品のくせに、人よりも魔力が多いというだけで調子に乗っているのだろう、幼い頃から王族である俺のことすら見下して……!四六時中魔術のことばかり考えているから、きっと人の心がわからな――――」
パリンッ
ジルザートの言葉を遮るように高い音が会場に響いた。会場のバルコニーの窓が割れ、風が吹き込むと同時に破片が中に飛んでくる。
突然のことに生徒たちは戸惑うような声を上げ、男爵令嬢はジルザートにか弱く抱きついた。
パリンパリンッバリンッガシャンッ、
次々に窓や照明、グラス、しまいには中心にある大きなシャンデリア、とにかく会場のガラスというガラスがすべて割れていく。
シャンデリアの真下に立っていたクレアは防御魔法を発動し、降り注ぐ破片は彼女に届くことなくパラパラと床に落ちていった。照明が落ちて暗闇となったなかで、混乱状態の生徒たちと会場の護衛にも彼女がついでに防御魔法を発動させたが、それにすら「ヒッ」と怯えたような声が上がる。
クレアの青白く光る魔術が、人形のような美貌を照らしているの見て、ジルザートは心の底から恐怖を抱いた。
「っき、貴様、ッ!」
「……わたくしじゃないわよ!」
「こ、こんなことするのは、いや、できるのは、貴様の魔術しかないだろう!」
ジルザートが怯えのこもった目でクレアを睨みつけた。
婚約破棄を告げられて怒り狂って暴れているとでも思っているならとても心外である、事実無根だ、とクレアは思う。しかしこの現象の原因に思い至るところはあった。
はあ、とため息をついて、主人も守らず突っ立っているだけの従者に視線をやる。金色の瞳が猫のように細まるのを見て、クレアはほとほと呆れた。
「本日は風が大変強いようですね、クレアお嬢様」
「……そのようね」
クレアの防御魔法のおかげで幸い怪我人は出なかった。しかし会場内は照明が割れて暗闇になり、吹き込む風と舞っているガラスの破片と右往左往する護衛や避難する生徒たちでごった返していて、この調子ではパーティーは続行不可能だろう。
第二王子の婚約破棄―――――つまり魔術の天才クレア・ルフェーブルの2度目の婚約破棄は、すっかり興味を失われたのだった。
「では、ジルザート殿下。もうお会いすることはないでしょうけれど、そのご令嬢とお幸せに」
クレアの口元にはめずらしく薄い微笑みがたたえられ、月明かりに照らされた艶やかな美貌にジルザートは思わず息を呑んだ。
言葉の意味を理解していないふたりに背を向け踏み出したクレアの足元では、割れたガラスの破片が音を立てていた。
――――――後日、第二王子ジルザートは王位継承権を失ったらしい、と国中に噂が流れた。