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シン・オジュマ  作者: 神原月人
シン・オジュマ
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アガリコ

 氷結した道に新雪が覆い被さるため、出歩くたびに踏み固めることにしている。屋根から落ちた雪が道を塞いでいれば、それを退かすことも欠かせない。家の周辺を行きつ戻りつを繰り返しているうち、真っ暗闇に包まれたミリクはすっかり方向感覚を失った。


 ミリクのバネ仕掛けの下半身はまともに血が通っておらず、冷たさを感じることはない。それでも冷気はベリリウム銅製のバネを伝って上半身まで這い上がってくる。綿入りの防寒服と耳当て付き帽子を身に着けていても、凍てつく寒さから完全に逃れる術はない。


 ミリクの左肩にちょこんと乗っかったモシュは不満げにふうふう唸っている。もこもこした耳当て帽子の裏地に頬を擦り付けて、ほんの少しでも暖まろうと必死だった。


「モシュも火を吐けたらいいのにね。マザラみたいに」


 寒さのせいでさっきから黙りこくっているモシュに話しかけてみるが、案の定、無反応。いつしか頬擦りさえ億劫になったのか、仮死状態にでもなったかのように身じろぎしない。


「モシュ、生きてる?」


 ミリクはぴくりとも動かないモシュの頬をぺしぺし叩く。モシュは煩わしそうに尻尾を一振りすると、「生きてる。うるせえ」とでも言わんばかりにミリクに頭突きをくれた。


「意外と元気じゃん、モシュ」

「寒い。死ぬ。動物虐待だ。厳重に抗議する」


 マザラのように火こそ吐かないが、モシュは機嫌が悪くなるとぱたりと口数が減る。どこで覚えてきた文句なのか知らないけれど、減らず口を叩けるうちはまだ余力がある証拠だ。


「モシュ、入る?」


 ミリクが防寒具の立ち襟の内側に誘う。立ち襟に守られた首回りは熱気がこもっており、肩の上にいるより数段暖かいのは間違いないだろう。モシュは勝手知ったる我が家のようにもぞもぞと這入り込んできた。出掛けに追いかけっこの喧嘩をしたせいで、防寒具の内側に潜り込んでこなかったが、モシュの定位置といえばここに限る。


「モシュ、暖かい?」

「まあまあだ」


 ふん、と鼻を鳴らして、素直に認めはしないが、モシュはそこそこご満悦らしい。ひねくれ者の空飛び猫を懐に抱いたミリクは、何かと消えやすい松明よりも夜目の利くモシュを頼りにしている。


「モシュ、こっちの方向で合ってる?」


 立ち襟の内側から、モシュはひょっこり顔を覗かせている。


「問題ない。そのまま進め」


 モシュの案内を頼りにいくらか歩くと、アガリコの巨木が群生する裏山に辿り着いた。


 暗闇を歩くうち、薄ぼんやりとだが、木々の位置関係や枝振りを感知できる。心なしか木々が騒めいている気がする。神聖な木を薪や炭に用いる人間の業を無言のうちに咎めているのかもしれない、とミリクは思った。


 アガリコは〈母の木〉とも称される神聖な木だ。多くの山菜や木の実、キノコなどを産し、森に住まう生き物たちを育んでいる。月のない闇夜でさえ、その存在感は際立っている。


 足元さえまともに視認できない濃厚な闇にミリクはようやく目が慣れてきた。見上げるほどの巨木であるアガリコは途中まで一本の太い幹であるが、その上から急に無数の幹が分かたれた不思議な形をしている。ミリクが背伸びし手を伸ばした程度では、まったく届かない高さで枝が分岐している。


 ミリクはバネ仕掛けの両足を踏ん張り、思い切りよく飛び上がった。触手状の枝に着地し、手持ちの斧で枝を切り落としにかかった。アガリコは枝を切り落とした部分が奇怪な瘤のように膨らむ性質がある。そのため木肌を撫でれば、過去にミリクが枝を切り落としたことがあるかどうかが容易に判別できる。


 瘡蓋のように膨らんだ瘤は、ミリクがアガリコを傷つけた象徴に他ならない。持ち帰った枝木は料理の際には炭となり、薪ストーブの温もりを得るためとはいえ、代償として聖なる木に斧を振るう行為にミリクは少なからず負い目を感じた。


 瘤のない無垢な木の枝を落とすべきか。はたまた、瘤ばかりで傷だらけの老いた木の枝を落とすべきか。斧を振るう前にはいつも悩むが、きっと正解はない。瘤の有無で命の選別はしない。そう、ミリクは心に決めている。


 バネ仕掛けの両足が着地した枝を機械的に落とす。そのように決めてからは、薪の補充のために感じていた苦々しい思いがいくらか軽くなった。


 アガリコの森に着いてから、モシュはすっかり寝こけている。道案内したからそれで業務終了とばかりにあっさり沈黙した。ミリクの首回りに巻きついて、何か呪文のような寝言をぶつぶつと唱えている。


 ミリクはなるべくモシュを起こさないように慎重に斧を振るった。だが両手で斧を降り下ろせば、どうしたって首も上下動するのは仕方がない。


「……うるさい。静かにしろ」


 安眠を邪魔するな、とばかりにモシュがむにゃむにゃ寝言を漏らす。寝言ついでのモシュに前足で殴られ、ミリクは心外そうな顔をした。


「もう食べられない……」


 モシュは好物のアナウサギをたらふく食べている夢でも見ているのか、至極幸せそうな表情で丸まっている。モシュは横着な性格なので、ちょこまかしたネズミの狩りを好まない。冬眠を必要とせず、平然と極寒の雪山をうろつくアナウサギは、モシュには格好の獲物だ。


 アナウサギは地面に穴を掘り、巣を作る。そこに餌を溜め込み、厳しい寒さをやり過ごす。しかし、寒さから身を守るアナウサギの生活の知恵はモシュには一切通用しない。夜目の利くモシュからすれば、どんなにアナウサギが巣穴の場所を巧妙に隠そうとお見通しだった。


 アナウサギからすればモシュは天敵にも等しい存在であるだろう。だが、それを言うならアガリコの枝を切り落とすミリクは〈母の木〉たるアガリコの天敵であるに相違ない。


 ミリクとモシュの二人組がアガリコの森を訪れると、木々が警戒するように騒めく。枝が不穏に揺れ、朽ちた葉はかさこそと囁く。きっと〈母の木〉が怒っているのだ、とミリクは思った。枝からどさりと雪が落ちるたび、心がびくりと飛び跳ねてしまう。


 古株のマザラに薪の補充を任されていなければ聖なる木を傷つけずに済むけれど、嫌でも任されてしまったからにはやり遂げなければならない。それが生きるということなのだ。


 ミリクは目を瞑り、「ごめんなさい。許してください」と心の中で唱えながら、斧を鋭く振り下ろした。木肌に斧が食い込む瞬間は、毎度毎度生きた心地がしない。アガリコの太い枝は人間の首に見えてきて、奇形の瘤はだんだんと人間の顔に見えてきてしまうから、斧が木にめり込むまでは何も見ないようにしている。


 なのに、なぜだか今日はうまく目を瞑れなかった。いつもの儀式を欠かしてしまったことが運の尽きだ。あえて見ないように避けていた恐怖を直視してしまった。


 ミリクの両目には、〈母の木〉がはっきりと怒っている様がまざまざと焼き付いた。


 奇怪な瘤は禍々しい緑色に発光し、無数の顔となって虚空を浮遊している。両手に握っていた斧がすっぽ抜けてしまったのかと思いきや、触手のように蠢く枝に絡みつかれ、唯一の武器を奪い去られた。


 ミリクの眼前の太い幹に幾重もの皺が刻まれ、不敵な笑みを浮かべる老人めいた表情が浮き彫りになった。


 あまりの異様さにミリクの気は動転し、全身にへばりつくような悪寒に包まれた。しゅるしゅると伸びてきた触手に雁字搦めにされ、ぎしぎしと締め上げられる。ミリクはすっかり身動きできなくなった。


「助けて、モシュ! 起きて、モシュ! モシュっ!」

「なんだ。うるさいぞ。モシュはもう食べられない……」


 皺がれた老人がにたりと笑い、深い闇がぽっかりと口を開けた。


 あ、駄目だ。食われる……。


 ミリクが直感するのとほぼ同時に、化け物じみた〈母の木〉がばくりと噛みついてきた。


 丸呑みにされたミリクは、モシュもろとも怪物の腹の内に取り込まれた。

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