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シン・オジュマ  作者: 神原月人
シン・オジュマ
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忘却という名の恩寵

 見慣れた煉瓦造りの家にいたのは、火トカゲの獣人マザラだけだった。


「ただいま。マザラ、モシュを知らない?」


 マザラの返事を待つ余裕はなく、ミリクは家中をあちこち探し回った。ストーブに火は付いておらず、傍らでモシュが丸まって眠っていることもない。屋根裏の小部屋、アガリコの木でできた梁、庭先にあるドラム缶風呂、どこを探しても見当たらない。モシュなんて猫は最初から存在しなかったみたいに忽然と姿を消した。


「もしゅ? なんだったっけな、それは」


 食卓の方から、半分寝惚けたようなマザラの声が聞こえた。


「聞いたことはある気がするんだが、はっきり思い出せない。もしゅか。たしか、そんな木があったっけか」

「マザラ、冗談だよね。なにを言ってるの」


 モシュがよく摘まみ食いをする食卓で、マザラが忘却のういろうを頬張っていた。


「駄目だよ、マザラ! それ以上、食べちゃ駄目!」


 ミリクが金切り声をあげ、食べかけのういろうを強引に奪った。マザラが食べたのはまだ半分だけだった。いや、すでに半分も食べてしまったというべきか。


「ミリクも食べたかったのか。そりゃあ悪かったな。まあ、そんなに怒るな」


 マザラがすまなそうに謝った。マザラもシャア・アカシャザ・ビエルと同じだ。モシュの存在を忘れかけている。心の底から怒るべきなのか、嘆き悲しむべきなのか、ミリクの感情はぐちゃぐちゃで、がっくりと崩れ落ちそうなほど全身から力が抜けた。


 モシュはいったい何がしたいのか。付き合いの浅いシャアはともかく、マザラは長年連れ添った大切な相棒のはずだ。それなのに皆、いっしょくたに記憶を失わせようとしている。


「ういろうは誰からもらったの?」


 ミリクが問うと、マザラが薄れゆく記憶を探るような調子で答えた。


「近くに越してきた猫だ。お近付きの印だそうだ」

「その猫、モシュだよね。背中に羽根が生えていたでしょう」

「もしゅ? ああ、あの猫がもしゅという名前なのか」


 記憶の欠落が著しいマザラの反応は、ミリクを落胆させた。


 二周目の〈外郎道(ウイロード)〉で、モシュが口にした言葉は一字一句違えずに覚えている。


「どうでもいい記憶をモシュだけが覚えている。どうしようもない記憶をモシュだけが覚えている。ミリクは忘れていることさえ覚えていない」


 その後に言ったモシュの言葉は、ういろうにではなく心に刻んだ。


「記憶の欠片を安易に手放してはいけない。どうでもいいことほど忘れないでほしい。どうしようもないことほど覚えていてほしい」


 ミリクの脳裏に、モシュの言葉が生々しく蘇る。


「忘却は人間に与えられる恩寵だ。恩寵であると同時に劫罰でもあるがな」


 モシュと暮らした宝石のような日々がどうでもいい記憶であるはずがない。他に何を忘れようとも絶対に失ってはいけない大切な記憶だ。それさえもどうでもいいことだと切り捨てるならば、モシュは記憶というものをあまりにも粗雑に扱い過ぎている。


「ひょっとしてモシュは試しているのかな」


 マザラから取り上げた忘却のういろうを()めつ(すが)めつ眺め、ミリクがぽつりと呟いた。


 モシュは忘却という名の恩寵を与えられなかった猫だ。誰も彼もが忘却の甘い密を甘受するなかで、モシュは放り捨てたい忌々しい記憶さえも忘れられずにいた。


 モシュ以外の下等な生物はういろうを食べたぐらいで大切な記憶さえころっと忘れる。ふん。どうせモシュのことなど誰も覚えてやしないだろう。呆れたものだ。おめおめと忘れ去られるぐらいならば、こっちから忘れさせてやる。皆、消えて無くなれ。


 高慢なモシュならば、それぐらいのことは考えそうなものだ。


 忘却のういろうを手当たり次第ばら撒いて、それでもモシュを覚えているやつがいたら、少しは見所があると褒めてやらんでもないがな。ふん。


 なるほど、そういうことか。だんだんモシュの魂胆が読めてきた。


「マザラ、ちょっと出掛けてくるね」


 半欠けのういろうを手にしたミリクが振り返ることなく言った。


「どこに行く?」

「〈外郎道(ウイロード)〉。モシュはたぶん、そこにいると思う」

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