Intro。彼の全盛期その3
水桶のタオルを交換していた。汚れた水桶と一緒に中身をきれいなものに取り替えようと、タンスを確認し、洗い物とまとめて部屋に戻るまでの僅かな時間に、いつの間にかの来客か、気の知れたお姉さんが部屋に父さんが横たわる部屋に入るのが見えた。
「気分はどう?」
ユニーカは父さんへ、良くない感情をありったけに込めたいやみったらしい憤怒の声でただ機嫌を伺ったのだ。
彼女が父を嫌っているのは知っていたが、なぜ、偶然なのか意図的なのか、僕の居ないタイミングを探したように父へ向かう。なにかするのではないか? 不安を感じ扉に近寄ると、父がついに僕に向けることのなかった穏やかな声がした。
「悪くありません。これでやっと妻の下に旅立てるのです。これほど待ち遠しかった日はありませんよ」
父のその優しげな声を阻みたくなくて、僕は息を殺して廊下に立ちすくむしかなかった。
「……せいせいする。貴方がもう少しして死んだら、フリッツはやっと自分の人生を歩むことになるのだから、やっと死んでくれたというべきかしら? それとも、今のうちに死んでくれてありがとうって賛辞の言葉を送るべきかしら?」
病に侵され父の苦笑はどうしてか優しげで、
「ありがとう。フリッツのこと、あとは頼む」
なにか木材を殴った音がすると、ユニーカは怒声を上げる。そうか、父は死ぬのか。なら、僕の人生はここで終わりだな。
「貴様に……っ! そんなことを言う権利がっ…………! …………はっきり言っておこう。断る。ジークフリートは好きにさせる。この村を出て放浪の旅に出たいと言えば引き止めない。――――――」
やっぱり、終わったんだろうか? 僕がするべきことは、
視界が歪んでいると錯覚するほどのめまいと、おぼつかない脚を抑え、なんとか水桶をこぼさないように居間に戻って、曖昧になる平衡感覚が明瞭に戻るまでテーブルに手をついてバランスを保つ。
「ただいま」
声をかけるとユニーカは複雑そうに顔を歪めて僕を見て無理に笑う。
「ユニーカ、ありがと、代わってくれて」
「……あぁ」
彼女にたぶん、そんなつもりは無いとわかっている。だからこそ、こんな事を言われたら宛所のない苛立ちと肩で風を切って部屋を出る。
「フリッツ……俺は」
僕に向ける冷たくて苦しそうないつもの声色で呻く父は、いまここで今ここでただ一動く、果実の皮を向いて切り分けるために握った僕の手の刃物を見る。
「なに? 父さん」
「ずっと、お前には申し訳ないと思っていた。きっと俺は天国には行けないだろう。だから、せめて、いまからでもなにか、……できることが無いか? 一つでもいいから、罪を償わせてほしい」
きっと、僕は『嘘でもいいから僕のことを愛していたって言ってください。いままでの厳しい態度は将来を思ってのことだって、最後に一つ、罪を犯してください』と言いたかったんだと思う。それが言えたなら、僕はもう救われるだろうって知っている。だけど……
「そっか、アンタが苦しまずに死んでくれたら、きっと貴方は地獄で償う罪が多くなるんでしょう」
それはできない。僕の信じていたものを全部、否定してしまうことになるから、それだけは、嫌だった。たぶん、こういうものを信念と言うんだろう。なら、僕の信念は『愛』なんだと思う。
「そうか、俺は地獄行きか、そうだな。お前を愛していたら結果は変わったのだろうか?」
「貴様の愛は、僕のこれまでの人生のすべてが無駄と否定することになる」
「愛、か」
「母さんを愛していた貴方が、僕を憎むことを……誇りに思います」
…………?
何が起きた。なぜ、僕の手にあった果物ナイフが父の喉に、父はそのナイフを握って……え、なんで……? いや、……え?
この手の赤い、ベタベタは父の喉から溢れ出ている?
「っなんで! 誰か、ユニーカ! あぁっ!!」
ドタドタ駆けつけた足音は立てなくなった僕を見つけると抱え込み、赤く汚れた僕の腕のベタベタと父に刺さる両腕に支えられたそれを順番に見て、僕を強く抱きしめてくれた。
「あぁ、僕は……僕はなんて、もう」
分からなかった。なぜ僕が父を殺してしまったのか。まるで理解が及ばなかった。
衝動的だったんだろうか? わからない。なにも、息ができない。呼吸しているはずなのに、どんどん息が苦しくなって空気が胸に入るのが感じることができなくなる。
「大丈夫。私がいるから」
彼女の決心に満ちたその目は僕をにらみ、凍えさせる。軽蔑なんて話じゃない。彼女が居るからと言って、なにかがどうにかできる話じゃない!
「居ない。僕にはなにもいない」
「私は味方だから」
「味方なんて言ってもコニアもゼフテロも僕をっ! みんなが僕を見捨てるんだ!」
親を殺してしまったんだ! どうせ、こんな命。
「大丈夫。大丈夫だから」
「もう、……なにも、僕は」
「私は貴方を捨てない」
「ユニーカも裏切ってよ! そうすれば僕も」
自暴自棄になって彼女に暴言を向けたというのに、僕を抱きしめる彼女の腕は僕の背中を優しく撫でてくれる。
「裏切らない!」
「僕は、…………どうすれば」
「私と一緒にいていいから」
目がユニーカとしっかりと合う。振り払って、傷つけるかと思って、僕は目をそらすことしかできない。
「もういやだ! 僕はどこにも居たくないっ!」
「だったら、どこかに行けばいいだろう!」
僕は、彼女の叫びになにも……言い返したくなかった。
ユニーカの証言により父は自殺したとされた。早々に遺体は火葬され、その姿を大人たちの多くは確認することなく形を失った。
あれでも、村の有力者であるユニーカの両親に懇意にしていた身の上だったために自殺であると言ってしまいさえすれば内々で辱めることのないようにと、随分気を使ってもらった。
そんなことがあって良いものか。僕は、父を……父は、僕が……、なんで、ユニーカは僕なんかを、こんな真似をして守ってくれるんだよ!