ブルーモーメント
青とオレンジの幻想的な雰囲気だった。雲一つない空はてっぺんは鮮やかな青に染まっていて地平線に従って夕焼けのオレンジ色のグラデーションを描いている。
風がないおかげで街に流れる川の水面は磨かれた鏡のようだ。空と全く同じ色に染まっている。
建物はオレンジ色の光でライトアップしている。
そしてあたり一面が青い光に照らされているような不思議な光景だ。
イタリアの街にある川で見た思い出深い風景だ。
「気に入ってくれた? ここは観光スポットとしてとても人気があるんだ!」
私の隣にいる彼は子供のように笑う。普段は大人びた雰囲気なのに笑う顔だけは歳不相応に幼く見えるのが印象的だった。
彼と私はイタリアで出会った。彼と出会った日も日没の直後で街がブルーの光で包まれていた。
イタリアの駅で彼はピアノを演奏していたのだ。
イタリアには誰でも自由に弾くことができるピアノが設置されている。偶然通りかかった私は彼の奏でる音色に魅かれてつい声をかけたのだ。不思議な事に私以外は誰も彼の演奏に気を止めていなかった。
せっかくだからと声をかけたのだ。声をかけると彼は驚いた顔をしていた。
驚く彼を尻目に私はついその音色がどれだけ素晴らしいものかを語ってしまった。
「ありがとう。僕の演奏気に入ってくれて嬉しいよ」
それがきっかけで彼と仲良くなったのだ。
そして同じ日本人同士という事がさらに拍車をかけたのだ。
だけど彼には毎日出会えるわけではなかった。
彼は街が青に照らされる時だけ私の前に姿を現す。
整った容貌も相まって彼はとても不思議な雰囲気の青年だった。
「ありがとう。とっても気に入ったわ」
「よかった。君が気に入ってくれて嬉しいよ」
「でも不思議。まるで青い光に街が包まれているみたいね」
「これはブルーモーメントって言う現象なんだ」
ブルーモーメント。聞き慣れない単語に首を傾げる。
「聞き慣れないって顔してるね。ブルーモーメントというのは夜明け前と夕焼けの後の数十分だけ見られるとても神秘的な現象なんだ。こうやって空が青い光に照らされたように染まる現象の事を言うんだ。今日みたいに天気が良くて空気が澄んだ日だけに見られるから珍しいものだよ」
「そう。初めて聞いたわ。物知りなのね」
「僕にとってはとても思い出深いものなんだ」
静かに笑う彼の顔はどこか懐かしいものを感じた。
「そっか」
「ねえ、実は君と僕は昔会った事あるんだ。君は覚えている?」
「あの駅で出会った事じゃなくて」
「もっと前。10年前のちょうどこの季節だね」
10年前の記憶を辿る。
そうだ。10年前に私はイタリアに旅行に来ていた。家族と一緒に駅を歩いていた。その時に微かに聞こえたピアノの音色につられて勝手に一人で行動してしまったのだ。
音が聞こえる方へ歩みを進めるとそこにはピアノを弾く黒い髪の青年がいた。
あまりにも綺麗な音色を奏でるから私はその青年に声をかけたのだ。
「お兄ちゃん、ピアノ弾けてかっこいい! すごい綺麗な音楽だね」
青年は幼い私と目を合わせるためにしゃがみ込んだ。柔和な雰囲気で大人びた雰囲気の人だった。
「ありがとう。君のおかげで少し元気が出たよ。僕なんかのピアノで喜んでもらえて嬉しい」
「だってお兄ちゃんピアノすっごく上手だもん。お兄ちゃんみたいに綺麗な音を出す人初めてみた」
「嬉しい。君も日本人? 旅行で来てるの?」
「そーだよ。お兄ちゃんも?」
「君と同じ日本人だよ。でも僕は旅行じゃなくてピアノのお勉強のためにイタリアに来ているんだ」
「ピアノのお勉強とかカッコいいね」
「ありがとう」
青年と話し込んでいると両親が来てそこで青年と別れた。青年は私の姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。
ああ、全てを思い出した。
「ねえ、貴方どうして10年前と変わらない姿をしているの?」
先程まで親しく話していた彼の姿は10年前に駅でピアノを弾いていた青年に瓜二つだった。
だけど何故10年前から姿が変わらないのだろうか?
「思い出してくれたんだね。実は10年前に君と出会った時に僕はスランプに陥っていたんだ。日本では天才と持て囃された僕もイタリアだと全然通用しなくてピアノと向き合うのが辛かった。その時に君に出会った。君の言葉が僕にとっては救いになったんだ。君の言葉でピアノを諦めないで頑張ろうと思っていた。だけど僕はその後事故で亡くなった。亡くなったのは今日みたいなブルーモーメントが美しい夕方だった」
青年は寂しそうに語る。だけど漂う剣呑な雰囲気が怖くなって逃げようとする。
だけど身体は指の一本すら動かなかった。
「逃げないで。最後まで話を聞いて。それから僕は亡霊となって彷徨っていたんだ。僕が目を覚まして活動できるのはブルーモーメントの数十分間だけだった。成仏できずに僕は目を覚ますたびにずっとピアノを弾いていた。それしかする事がなかったんだ。とてもとても寂しかったよ」
そう言って彼は私に近寄り顎に手を添えてゆっくりと撫でる。彼の指先は氷なんかよりもずっとずっと冷たかった。
「それと私に何の関係があるの?」
「亡霊となって一人寂しくピアノを弾いていた僕を10年後に君は見つけてくれた。僕を見つけてくれるのはいつだって君だった。そして一緒にいるうちに僕は君が欲しくなったんだ。大人になった君はとても素敵な女性だ。君は僕の運命の人だ。」
彼は私をぎゅっと抱きしめる。氷を抱きしめているような冷たさだ。
「いやっ。助けて」
私が声をあげても周りには人一人いない。
「君への想いを僕はピアノで奏でるよ。愛してる。君が運命の人だ」
耳元で告白の言葉を囁かれると同時に私の意識は落ちた。
***
ピアノの心地いい音色が聞こえる。曲名は全く知らないけれど優しくて甘い音色で聴くもの全てをうっとりとさせる。
「目が覚めたんだね。これからは君のためだけの演奏会だ」
私はソファーで眠っていたようだ。
目を覚ますと真っ白い空間にピアノが置かれた部屋に私はいた。
青年がピアノを奏でる。その音色はとても美しいけれど聴いていると頭がふわふわして正常に物を考えられなくなる。
だけどその音はとても心地よくて聴いているだけで安心する。
何か大切なことを忘れている気がする。でもこれはきっと夢だ。しばらくしたら夢から覚めるだろう。
私は青年が奏でるピアノにうっとりとしながら思考を放棄した。