透明な声
朝日が眩しく校舎を照らす。
心地好い風に、セーラー服の裾が踊る。
今日は死ぬにはよい日だと、少女は声の出ない唇で呟いた。
屋上から校庭に、ドサリと投げ落とされたのは落書きだらけのボロボロの学生カバン。
それを満足気に見下ろすと、今度は思い切り空を仰いだ。
両腕をぴんと伸ばす。
今日は、死ぬにはよい日だ。
「もうちょっと待とうぜ、それ」
後ろからの声に、髪を引かれた気がした。
振り向くと、そこには同じ学校の制服を着た少年。
「死ぬ時に、いい日なんかねえよ」
この少年は、屈託のない笑顔で何を言っているんだろう?
少女は心を見透かされたような気持ちになり、一歩、少年の前へと歩み出た。
「……」
「うん。お前は何も言ってねえよ。俺が特別なんだ」
「……?」
少年の言葉の意味はわからなかったが、これだけはわかった。
心を読まれている。表情で?しかし先程自分は後ろを向いていた。心理学か何かをかじっているのだろうか?
「違う違う。俺、聞こえないものが聞こえるんだ」
例えば、木々の泣き声、鳥の歌。
そして、発せられることのない声。
「言っただろう?俺は特別なんだよ」
「……」
「そう。やっと信じてくれたな」
にこっと笑う少年に、戸惑う。
そんな笑顔、もうずっと向けられたことなどない。
向けられるのは、嘲笑。
この少年のように、人の心が読めるなら、いじめになんて遭わずに済んだだろうか。
「そうでもないよ」少年は少女の心に応える。
「世の中音で溢れ過ぎている。俺はいつも、その音に耳を塞いで生きている。けれど、生きているんだ」
ほら、と少年が手渡したのは、イヤホンに繋がれた音楽プレーヤー。
耳を当ててみて、驚いた。そのちいさなイヤホンの中には、激しいリズムと、澄んだ女性の叫ぶような歌声が流れていた。
「……」
「お前の声は綺麗だ。死なれると、俺が困る」
どういう意味?
「俺はたくさんの音を聞いている。どうせ聞くなら、綺麗な音の方がいいってことさ」
「…………」
その言葉を聞いて、少女は迷った。
俯く少女に、少年が背中を押す。
「それでいいんだよ。吐き出しちまえよ」
にこっと笑う少年。
それに少女は決心した。眉をきっと上げる。顎を上げる。
少女はすうっと、ひと息吸うと、歌を歌った。
声のない唇で、思いっ切り、青空に届くような音色を奏でた。
少年にしか聞こえない、風の音色。
凛とした歌声は、青空に吸い込まれるように、校舎へ響くことはなかった。
「ブラボー。それでいいんだ」
ぱちぱちと手を叩き、少年は言った。
少女の口元には、自然と笑顔がこぼれていた。
「あ、カバン」
ふっと出たその声は、少女の唇から発せられたものだった。
先程まで自分が立っていた方へ振り向くと同時、気が付く。
「ねえっ、私、声が……」
もう一度振り向くと、そこに少年の姿はなかった。
屋上にひとり、風に吹かれ、少女はそこへぽつんとひとり立っていた。
古びた音楽プレーヤーを、握りしめて。
「そっか……特別、だもんね」
その言葉に、少年が笑ったような気がした。
本当に、死ぬにはよい日なんてない。
今日は、この声と共に生きてみよう。
もしかしたら、少年が何処かで聞いてくれているかも知れない。
綺麗だと言ってくれた、この声を。
知らぬ間に溢れていた涙をぐっと拭うと、少女は校舎の階段を駆け下りた。
少年の、たったひとつの嘘に、気付かぬまま。
古びた音楽プレーヤーを、胸に抱いて。