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第七篇(最終篇) 寂しさの無い国よこんにちは

 本日卒業式が終わった。

 今年一年――当然暦の上ではなく――は、谷畑君のせいで今までにないほど、充実……というか慌ただしかった。

 2年の先生からの引き継ぎの際、「大変ですよ……」と力なく言われたことが、今では身を以て理解出来る。

 

 その荷がようやく今日全て取り払われる。

 

 それが喜ばしくもあり、また寂しくもあった。


 今までの問題生徒達は、皆卒業してほっとした。中には家に帰ってから、飛び上がらんばかりに喜んだ生徒もいた。

 教師にあるまじき行為と分かっていても、嬉しいのだから仕方が無い。


 しかし、谷畑君に関してはそういう気になどなれず、ある種の放心状態に陥った。

 まるで彼女の卒業と共に、全てのエネルギーを吸い取られたかのように。


 現に今もこうして国語準備室から見るともなしに見ている梅の花も、まったく心に入ってこない。

 詩人を語る気はないにしても、例年ならもう少し心に響くものがあったのに。


 そんなとき、不意に国語準備室の扉が叩かれた。

 谷畑君なら問答無用で扉を開けるし、谷畑君以外の生徒が用があるとも思えない。担当しているのは3年だけで、卒業後に教師に勉強を聞く奇特な生徒もいない。

 私は他の先生が業務連絡でも来たのかなと思い、扉を開けた。


「なんだ、谷畑君か」

「なんだとはなんですか先生!」


 ぷりぷりと、いつものような態度で怒る。

 意外にも、扉を叩いたのは谷畑君だった。

 卒業式という特別な日とは言え、普段では絶対にしない行動に私は面を喰らう。


 ああ、そう言えば、いちおう最初に訪れた時はノックはしたか。

 本当にただのそれ一度だけだったが。


「私だって、こんな日ぐらいは礼儀を守りますよ」

「うーん、それにしても正直意外だ……」

「意外って……。先生今まで私をどんな目で見てたんですか!?」

「まあ見た目通りだよ」

「見た目通り、ねえ……」

 そう言いながら、谷畑君は私の許可も取らずにサイフォンで入れた珈琲をカップに注ぐ。

 ただ、今日はそれに砂糖もミルクも一切入れずに、ブラックのまま飲んだ。


「うへっ……」


 やはり合わなかったのか、谷畑君はそう言って舌を出す。

 私はそんな彼女の姿に思わず吹き出した。


「先生、そんな態度じゃ女の子にもてませんよ」

「元から枯れたおっさんさ。親戚一同結婚は諦めてるよ」

「ふーん……」

 谷畑君は何故かつまらなそうに言った。 


「まあそんなことはどうでもいいです」

「あ、どうでもいいんだ……」


 はっきりそう言われると、それはそれで少し悲しい。


「私が最後にこの国語準備室に来たのは、先生の最初の授業で聞いた詩の話をするためです」

「私が最初の授業で教えた……ああ()()か」


 私はどんな学年、どんな指導要綱が決められても、最初の授業ではある詩……というか短歌を教えている。

 それは若山牧水の代表作とも呼べる歌で、また彼の若者特有の青臭さを最も直接的に表現している歌でもあった。


 だからこそ、私は教え子達に聞いて欲しかった。

 自分達が今、どういう世界にいる人間なのかを知ってもらうために。


『幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく』


 私と谷畑君は声を合わせその歌を吟じる。

 谷畑君にしては珍しく、最初から最後まで完璧に覚えていた。


「教えた私が言うのもなんだが、君にとってはあまりに縁遠い歌かもしれないね」

「・・・・・・」


 谷畑君は無言で首を横に振った。


「先生にはそう見えたかもしれませんけど、実はあの頃の私、なんというかめっちゃくちゃ寂しがり屋でした」

「ほう」

 それはとても興味深い話だった。

 少なくとも、私に会う時はいつも傍若無人であった。そして、最後は何があっても笑顔でいる谷畑君の姿しか思い出せない。


「はい。ほら、3年になったら、皆進路や受験で必死になってて、私みたいに将来が完全に決まっている人間は、どうしても浮くじゃないですか」

「それは……」

 こういうとき何と答えたらいいか分からず、私は言葉に詰まる。

 将来が決まっているという表現は、あまり良い意味で使われない。

 いつかの政略結婚が、私の頭をよぎる。


 そんな私を谷畑君は不思議そうに見た。


「あれ、先生には言ってませんでしたっけ? 私卒業したら実家の会社に幹部候補として入社するって話」

「君就職するのか!?」


 私は呆気にとられた。

 古い人間である私には、結婚以外、高校卒業と同時に将来が決まっている名家の女子高生の理由など思いつかなかった。


「はい。大学で役に立つか分からない勉強をするよりは、社会経験積んだ方がいいって、自分から父に言ったんです。まあ父はせめて短大だけでも行っておけって言ってたんですけど、私は必要な資格とかあったらその都度勉強して取るからいいって」

「そうだったのか……」


 私は内心ほっとした。

 別に谷畑君に対して邪な気持ちは一切無いが、それでも彼女が自分で選んだ人生を歩めることを喜んだ。

 彼女が感情を押し殺し顔で家庭に居座っている姿を想像すると、胸が痛む。


「で、話は戻るんですけど、そんなときに聞いた先生の話が、妙に私の心に残ったんですよ。後で調べたら中学でも習ったみたいなんですけど、そん時は全然心に引っかからなかったのに」

「詩というものは、その時の精神状況で受け取り方が大きく左右されるからね。楽しい時に悲しい詩を聞いても、悲しい時に楽しい詩を聞いてもあまり心に響かないものさ」

「はい。それで私そのあと、ああ、これは自分のことだってすぐに思って、詳しい話が聞きたくなってここに来たんです」

「来たねえ……」


 私はその時のことを思い出す。

 あの時谷畑君は遠慮がちに扉をノックし、その後遠慮なく単刀直入に聞いた。


「寂しさの無い国って、具体的にどこにあるんですか!?」


 と――。


「先生、あのとき先生が言った答え覚えてます?」

「うーん、どうだろう。君の場合、会う度にとんでもないことを言うから、その度に先生の少ない記憶容量が上書きされて仕舞うというか……。ハワイがどうたらこうたら言っていたっけ?」

「それは私です。あの頃は常夏の国あたりにあるのかなんて思ってて。まあ以前に何回も行ったんですけどね、ハワイ」

「先生は生まれてから一度も行ったことがないよ」


 行こうと思えば行けたが、あまり興味はなかった。

 この歳になる前から旅行に行くなら温泉が必須だ。


「その時先生はこう言ったんです。「その歌でも答えは出ていない、だから人は旅をするし、君はその第一歩としてこの部屋に来たんだ」って」

「・・・・・・」


 言われても未だ私は思い出せなかった。

 教師の話などえてしてそんなもので、生徒は覚えていても言った本人はころっと忘れていたりする。

 なぜなら、聞く生徒にとっては良い話だったとしても、実は頭に浮かんだことを適当に言っただけの場合が多いのだ。

 今回の谷畑君のケースなどまさにそれだ。


 そもそも私如きの話で、教え子のその後の人生に大きな影響を与えられるなど、到底思えない。

 社会に出ても大して役に立たない国語教師の戯言など、誰も聞き流すだろうと、そう思いながら話していた。


 とはいえ、そんな話でも真剣になって聞いてくれていたと知ると、教師としてやはり嬉しくなる。

 私は目頭が少し熱くなるのを感じた。


「その話を聞いて私思ったんです。だったらこれからなるべくここ来て、その答えを見つけようって。まあ途中から全然趣旨が変わっちゃいましたけど」

「そうだねえ」

「でも答えらしきものは見つけた気がします!」


 谷畑君は自信を持って言った。

 

 今回ばかりは私も彼女のその答えが気になり、「では聞かせて貰おう」と文字通り教師のように言った。


「はい、私は部屋にいる間、あんまりそういう寂しさを感じることはありませんでした」


「うん」


「それは結局ずっとその答えを捜してたからと思うんです。答えを捜している間は、自分の寂しさに人は気付かないんです。つまり――」


「つまり?」


「進んでる自転車は倒れない!」


 谷畑君は力強く言った。

 

 まさに暴走列車の彼女らしい答えだ。

 どんなに寂しさを覚えていても、歩みを止めなければその重さに押しつぶされることはない。

 私のように寂寥が身体の一部にまでなったなら、止まり続けても特にこれといったことはないが。


「というわけで一年間ありがとうございました!」


 谷畑君が頭を下げる。

 その姿は卒業式授与の際の儀礼的なものではなく、本当に心のこもったお辞儀だった。

 

 枯れたはずの涙腺が緩み、目尻が少し濡れる。

 錆びついてもう動くこともないだろうと思っていた心が、微かに音を立てたことに私は気付かされた。


「それではさようなら先生、またすぐに会うこともあるかもしれません」


 最後にもう一度深くお辞儀し、谷畑君は国語準備室を出て行った。


 残されたのは古びた教材と本の山、そしてもう枯れてしまった国語教師だけだ。


「終わったなあ……」


 私はそう呟いた。

 何が始まっていたのかは分からないが、ただそう感じた。

 

 サイフォンに入れた珈琲を飲む。

 ハードボイルドに決めようとしたが、元からそういう性質ではないので、ただ似合わない苦笑いしか出来ない。


 満開の梅の花に、彼女の前途に幸いがあらんことを願いなら、私は苦い珈琲を飲み干した。

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